十二、藜の過去
藜がポツリ、ポツリと過去を切り出したのは、外に雨が降り出したころだった。
訓練は雨があがってからにするか、とそう前置きをして。
「僕は北都……、帝都の北で生まれたんだ」
雪は縁側の天井からはたはたと雨が滴っているのを見つめながら、静かな寺に響く藜の声に耳を傾けた。
「僕は豪商の家の一人息子だった」
父は帝に献上されるような北の銘酒を専売しており、母が家を切り盛りしていた。
なんでも、元々酒蔵の一人息子で酒を造ることを生業にしていた父が、あるときから商売のほうに才覚を表し、酒蔵の酒を卸売りするようになったという。
一代で莫大な富を手に入れた父に対し、何か裏で汚い金が動いているだとか、仕事のやりかたが悪どいだとか、そんなやっかみがあり、藜も幼少のころから周囲の同世代の子供たちとはあまり交友がなかった。
しかし、藜にとって、友がいないことはなんの問題にもならない。両親は優しかったし、店にいれば大人たちがかまってくれる。酒蔵に行けば祖父母やその弟子たちもいて、遊び相手にも困らなかった。
そもそも藜は勉学と芸ごとが好きな子供で、大勢の子供たちがするような遊びは好きでなかったし、そうした会話の相手には大人のほうがちょうどよかった。
「自分は特別だと思っていた」
藜は過去の自分を蔑むように口角を歪ませると、ごろりと横になる。
「……事件があったのは、僕が十のころだ」
藜はそのころ、父からの勧めで、北都一の医者が開いている寺子屋へ通っていた。
そこには、藜と同じく、金を持った将来有望な子供たちが集まっていたが、藜にとって初めての友は教師である医者だった。
医者もとりわけ藜を気に入っていたらしく、二人は寺子屋が終わってからも、藜の迎えが来るまで言論や哲学、文化について語り合った。
そんなある日、医者が言った。
「君は、妖を知っているかね?」
藜は首を縦に振る。見たことはないが、聞いたことくらいはある。花国には人と人ならざるものが棲んでいる。人ならざるものは妖と呼ばれているが、実際には神のような存在で、会うことができればよいことがあると両親から教えてもらった。
藜がそう言えば、医者は深い笑みを作った。
「見たいかい?」
「見られるのですか?」
妖に会うことができればよいことがある。両親の教えを信じていた藜は、医者の提案にすっかり乗り気になった。博識で、心優しく、信頼のおける医者の言うことだから、疑うこともしなかった。
それが間違いと気づいたのは、妖が見れるから、と医者に言われ、寺子屋の倉庫に閉じ込められて数刻が経ってからだった。
暗い倉庫が開き、医者が「待たせたね」と藜を見つめる。
しかし、その姿は真っ赤な目をした狼の妖へと変わった。
どす黒い靄でできた体は実体がなく、底なし沼のようで恐ろしかった。
「……そこからは、お前と似たようなものだ」
藜は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。
狼の妖に襲われた瞬間、藜の中にあった半妖の力が目覚めた。
しかも、間の悪いことに、帰ってこない藜を心配して迎えに来た給仕にその場面を見られたのだ。
そこから、家族が壊れるまでは一瞬だった。
父が商売の才覚を発揮したのは、なんてことはない、酒蔵の座敷童であった母に一目惚れし、嫁入りさせたからであった。一生を酒蔵で終えるつもりであった母も、父に外の世界を見せてやると口説き落とされ、家族になることを選んだのだ。
幸せを手にした両親は、その平穏を守るため、周囲にはなんと言われようとそのことを黙っていたのだが、藜にだけは嘘をつけなかった。だから、妖とは神のようなもの、会えばよいことがある、と教えてしまったのである。
そのことが街中に広まる前に、両親は藜を連れてすぐさま夜逃げをはかった。
「だが、道中、両親は僕を置いて消えたんだ」
おそらく、藜を守るためだろう。一緒にいれば藜まで殺されてしまうと考えたのか、まだ幼い藜が眠ってしまったうちに、姿を消したらしい。
当然、藜は両親を探して歩き回った。桐吾と出会ったのはそのときだ。両親とはぐれ、死にかけていたところを桐吾に拾われた。
「以来、僕は軍人になった」
妖の力があることを、桐吾にだけは告げていた。殺すなら、殺せと。しかし、桐吾はそうはせず、藜に言ったのだ。
「家族と会いたいのなら、俺以外にその話はするな。妖であることを隠して生き延びろ。そして、家族のもとへ帰るんだ」
桐吾は、藜を妖とは思えなかったらしい。両親に捨てられた美しい子供を拾い、我が子のような愛情を抱いたのだと打ち明けた。
そうして、桐吾による特訓が始まり――、しばらくして、両親が死んだと聞いた。
桐吾から「部下が報告書を持ってきた」と告げられたときは、桐吾を殺してしまいたいほど憎く思った。
しかし、友に裏切られ、両親に捨てられ、傷心していたところを拾ってくれた桐吾に恩を感じていた藜は、桐吾を討つことなどできなかった。
そうして、どこにもぶつけられなくなった感情は藜自身へと向けられる。
「僕は、自分の力を憎み、妖に生まれたことを憎んだ。当時は、そうする以外、どうすることもできなかったからな」
以来、藜は自らの力を封印することにした。両親を殺したのは自分だと責め、自らを裏切った妖を、騙された自分を、自分に流れる妖の血を恨んだ。
人と同じく気を使い、周囲の隊員と同じように戦えるようになると、自ら妖討伐を志願した。
裏切った医者を重ね、親の仇を討つように思い、自分自身に罰を与えるために斬った。
「……お前の強さが、羨ましい」
藜は寝がえりを打ち、雪から背を向ける。
天井からぱたりと雨が縁側の床に落ち、水たまりを作っていた。泣いているように見えた。
かける言葉が見つからず、けれど、衝動的に、雪は藜の背に手を伸ばす。
誰かを抱きしめたいと思ったのは、初めてだった。
「……一人で戦ってこられた藜さんも、充分お強いと思います」
なんの慰めにもならないことは雪が一番よくわかっている。
けれど、そうしたかった。
雪はそっと藜の背に触れる。
早く雨があがりますように、と曇天の空に祈りを込めながら。




