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朧月夜の雪花奇譚  作者: 安井優
月の章

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十、決断という選択

「明日から一週間、特訓のために出かける」


 (あかざ)はいつも突然だ。


 突然の藜来訪に驚いた(ゆき)は手にしていた本を落とした。雪の隣で報告書をまとめていた稲穂(いなほ)もそれを落としそうになっている。


 文机から滑り落ちる報告書をすんでのところで掴んだ稲穂はヘラリと笑う。


「隊長、またまた~」


「お前じゃない。特訓するのは雪、お前だ」


 報告書をつづり紐に通していた稲穂の手が完全に止まった。


 雪はといえば、本だけでなく、そばに置いていた筆まで落としそうになる。


「あ! ちょ、雪っち! 筆!」


「……あ、ごめんなさい! びっくりして」


 雪は文机を転がる筆に手を伸ばし、しっかりと押さえる。床に落とさなくてよかった。墨で本を汚すところだった。


 ……じゃなくて。


「特訓ですか⁉」


「ああ、九尾に殺されたくなければな」


「それは、殺されたくなんかないですけど……」


「え、ちょっと待ってよ!」


 稲穂が「そんな話、聞いていない!」と雪と藜のやり取りに割って入る。


「九尾討伐に、雪っちを連れてく気?」


「ああ。もう決めたことだ。こいつも承諾した」


「嘘⁉ え、雪っち、冗談でしょ? 本気なの?」


 雪がうなずくと、稲穂の手がつづり紐から離される。


「嘘、でしょ。え、ねえ、これってどっきり? オレを驚かせようとしてるんだよね?」


「稲穂」


「だって、九尾は狐火とは違うんだよ? そりゃ、隊長とつばきちとオレがいれば最強だけど、それとこれとは別問題でしょ? 雪っちを危ない目に合わせないって、つばきちと約束したんじゃないの?」


 いよいよ稲穂の顔つきが変わる。ヘラヘラとした笑みを消し、彼は目くじらを立てて藜に詰め寄った。


「なんで? さすがにオレだって怒るよ⁉ つばきちが聞いたらどうなるか」


「もう決めたことだ」


「そんなの、なんの説明にもなっていない!」


 声を荒げてきつく藜を睨みつけた稲穂は、雪にも不満を投げつける。


「雪っちも雪っちだってば! なんで引き受けたの⁉ いくら隊長の頼みだからって、なんでもかんでも聞かなくていいんだよ? 雪っちは、料理とか洗濯とか掃除とか、すでにいっぱいいろんなことやってくれてるんだし。女の子が危ないところに行く必要なんてないんだから!」


「稲穂さん……」


 稲穂の心配がじかに伝わってきて胸が痛む。だが、違うのだ。


「わたし、誰かが傷つくところを黙ってみてるだけなんて嫌なんです。誰かの助けになりたい」


 これは、自分で決めたこと。


 いくら稲穂になんと言われようと、椿(つばき)になんと言われようと。


 もしも、二人から(あやかし)だと恐れられても――。


「だから、一緒に戦わせてください」


 雪が言い切ると、稲穂は唇を噛みしめてうつむいた。乱暴につづり紐を結んで、報告書の束を机に叩きつける。


「……っ、もういい!」


 稲穂は藜を押しのけ、書物庫の扉を開け放った。


「オレ、どうなっても知らないから! 絶対、二人のことなんか助けてやんない!」


 べーっと子供のように舌を出して悪態をつくと、そのまま逃げるように駆けだしていく。


「稲穂さん⁉」


「やめておけ。いずれ、あいつも理解するはずだ」


 追いかけようとしたところで藜に手を引かれ、雪はその場を動くことができなかった。


 胸が痛い。心配を無下にしてしまったことも、それで、稲穂を傷つけたことも。


 いっそ、半妖だと打ち明ければよかっただろうか。そんな思いがよぎる。だが、もう遅い。それに、いずれバレるのだ。力を隠したまま戦うなんて、できるはずがない。


 でも。


 雪が悔しさを滲ませていると、藜は「気にするな」と雪の背を軽くたたいた。


「……明朝、出発する。準備しておけ」


 藜もまた、そう言い残して書物庫を後にする。


 明日から一週間の特訓。何を準備すればよいのかもわからないが、今はそれに集中するしかない。


 今からでも稲穂を追いかけ、黙って任務を引き受けたことを謝罪しようかとも思ったが、謝るだけでは許してくれないような気がした。


 特訓をして実力をつける。実践で力を発揮する。そうして稲穂を守ることができれば、嫌でも理解してもらえるはずだ。


 もっと怒られるかもしれないし、もっと嫌われて……、殺されてしまうかもしれないけれど。


「……でも、やらなくちゃ」


 人も、妖も、傷つけあうだけじゃダメだと証明するにはやるしかない。


 そうと決まれば、一週間不在にしてもいいように準備をしなくちゃ。勉強を切りあげよう。


 雪が落とした本を拾いあげるために手を伸ばしたそのとき、


「わらわも行く」


 (ふみ)がヒラリと舞うようにどこからか現れた。


「文姫さま⁉」


 一体、いつからどこで聞いていたのだろう。藜を嫌う文は、藜が書物庫に来ると大抵姿を消しているのに。


「特訓ということは、そちの力を使う練習をするのじゃろう? あんな半端ものより、わらわのほうが妖力を操れるぞ」


 文は本気らしい。(すみれ)色の瞳は、吸い込まれてしまいそうなほど澄んでいる。


「わらわは、そちの友人じゃ。そちのために力を貸そうぞ」


「……でも、文姫さま」


 それはつまり、文も危険にさらされるということだ。


 藜に見つかってしまうかもしれない。


 雪の胸の内を見透かすように、文は「よいのじゃ」と断言する。


「わらわも、そちがいなくなるほうが嫌じゃからの。九尾だって、わらわは怖くないぞ」


 文は自信満々に笑って雪の手を取った。


「じゃから、一緒に行く。わらわも、そちの夢とやらを見てみたいからの」


 文を危険な目に合わせるなんて、本当は嫌だ。きっと、稲穂もこんな気持ちだったに違いない。


 しかし、雪は戸惑いながらも文の手を握り返した。


 信頼していることを伝えるために。


 文が力を貸してくれるなら、怖いものなんてない。雪だって、きっと、もっと、強くなれる。


「ありがとうございます」


 頭を下げれば、文も満足げにうなずいた。純真無垢な美しい笑みだった。


 雪は自らに誓う。


 ――この選択を間違いにしない、と。


 こうして、出発の朝が訪れる。

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