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朧月夜の雪花奇譚  作者: 安井優
月の章

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九、半妖の雪解け

「九尾が現れた可能性が高い」


 単刀直入に切り出した(あかざ)に、(ゆき)はごくんと息を飲んだ。


 九尾と呼ばれる(あやかし)の恐ろしさは、散々学んで知っている。過去の報告書でも、何度か見かけた名だ。何人もの人が、この部隊の隊員が、九尾によって命を落とし、大切なものを失った。


 そんな相手と、戦う。


 今にも震えだしてしまいそうな手を握り、雪は静かにうなずいた。


 拒否権はない。あっても、使うことなどできない。椿(つばき)稲穂(いなほ)、そして藜がそんな敵と戦うと知って、自分だけが助かろうだなんて思えなかった。


 雪の承諾を受け、藜はわずかながらに口角を下げた。軽く唇を噛みしめ、視線を空へさまよわせる。さすがの藜も、狐火討伐の時のように「安心しろ」とは言えないらしい。


 視線を落とし、口を開いた藜の声はいつもより弱々しかった。


乙種(おつしゅ)ならば、誰か一人くらい生きて帰れるはずだ」


「なるほど。だから、わたしが半妖だとばれてもいい、ということですね」


 生き残るのが一人ならば、雪が死のうが、生き残ろうが、どちらにせよ問題はない。


 死んだ場合は、部隊にとっての危機が完全になくなったと言えるし、生き残った場合には雪が黙ってさえいればいい。


 藜は自身の顔から感情を消し、首を縦に振る。


「もし、万が一にも全員が助かったら?」


「さあな。その確率は低い。だが、そのときはお前も僕も、二人に殺されるだろうな」


「……藜さんも?」


「半妖のお前をかくまった罪を償う必要がある」


「そんな! 知らなかったと言えばいいではありませんか!」


「それで見過ごすようなやつを、この隊に入れたつもりはない」


 変なところで真面目だし頑固な人だ、と無性に腹が立ちそうになって、


「でも」


 反論を口にしようとしたところで、藜の遠くを見つめる目に、雪の怒りは一気にしぼんだ。


(やっぱり、藜さんも……)


「半妖、なのですね」


 気づけば、そう口走っていた。


 藜の瞳が雪をしかと捉える。口元に歪な笑みが浮かんだ。


「……ハッ、何を」


 馬鹿馬鹿しいと嘲笑するような声は、しかし、かすかに震えている。ぶつかっていたはずの視線は簡単に外れた。


 だが、雪とてそれでごまかされるつもりはない。


 少なくとも、藜には生きていてほしい。雪を生かしたのは藜なのだから。


 簡単に死ぬなどと、そのような言葉は聞きたくない。たとえ、半妖であっても。


 雪は深呼吸して、怒りや悔しさや哀しみの混ざる心中に無理やり蓋をした。冷静さを欠いてはいけない、と自分に言い聞かせて口を開く。


「ではなぜ、わたしを殺さなかったのですか? あのとき、初めて出会ったあの日、藜さんなら簡単に切り殺せたはずです」


「言っただろう。うちは人手不足だからな」


「わたしには、藜さんがそのような理由だけで隊の規則を破るかたには思えません」


 半妖である雪に仕事を与え、寝食を与え、周りの隊員たちと同じように部下として扱った。給与も、特別な報酬だって与えてくださった。本来ならば、雪を奴隷として扱ってもよかったはずだ。なのに、藜はそうはしなかった。


 それが隊の規定だから。雪が部下だから。隊の士気が下がるから。


 それらはすべて、藜自身が望んだものではないのに。


 普段は冷酷に振舞っているが、それこそ、律儀で真面目な青年が、一時の人手不足なんて理由で、自らの立場が危うくなるような、そんな危険を冒してまで雪を手元に置いておくわけがない。


 もしそこに理由があるとすれば――。


「藜さん自身が、そうだったからなのではないですか?」


 雪の質問に、いよいよ藜は口を閉ざした。


 それこそが肯定を表しているかのような沈黙だった。


桐吾(とうご)さんというかたは、相手が妖だろうと、困っているものを見ると放っておけなかったそうですね」


 ならば、藜が雪にしたように、藜を迎え入れていたとしてもおかしくはない。


 考えてみれば、雪に「力の制御は、実践をつめばそのうち慣れる」と言い切れたのだって、藜がそうして体得してきたからだろう。知っているかのような口ぶりだと思ったが、まさしく知っていたのだ。自らの経験として。


「あの日、藜さんがわたしを殺さなかった理由は理屈じゃなかった。感情なんです。長治(ちょうじ)さんの懇願に免じて。それだけでした」


「……フン、随分と立派な妄想だな」


 藜が自嘲するように鼻を鳴らす。しかし、雪の言葉を否定するには弱い。


「たしかに、妄想かもしれません。でも……、同じ半妖なのに、わたしだけが殺されて、藜さんは殺されないなんて状況、藜さんなら許しませんよね」


「僕は、お前をかくまった罪で殺されると言ったはずだが?」


「表向きはそうかもしれません。でも、隊の規定に、そんな文言はありませんから。だって、隊の規定は、妖を迎え入れることなんて想定してないんです。だから、かくまった罪で殺せと命じることはできても、お二人がそれに従うはずなどないのです」


 椿も、稲穂も、いや、隊員たちはみな、藜を恐れてはいるがそれ以上に慕ってもいる。


 妖を討伐することには長けていても、人を簡単に殺せる人たちではない。


 仮にすべての感情や経験を差し引いたとしても、だ。隊長命令であろうと、軍に所属する一部隊の隊長を部下が殺すなど言語道断だ。それこそ花国軍(かこくぐん)の規定を逸脱した反逆行為とみなされるだろう。


「藜さんの言葉を借りれば、それがわからないようでは隊に入れません」


 雪がまっすぐに藜を見据えると、藜の口から乾いた笑いが漏れた。


「勉強の成果か」


「はい」


 うなずくと、藜は肩をさげてクックッと喉の奥で笑う。やがて、自然とこぼれたような呆れた笑みが雪に向けられた。


「……僕の負けだ」


 藜は組んでいた腕をほどき、降参したと両手を上げる。冗談めかした仕草は、着飾ってもいなければ、振舞っているわけでもなかった。


 藜と雪の間に横たわっていた見えない壁が、雪解けのようにやわらかく瓦解する。


「どこで得た情報か知らんが、見事だな。まったく、殺しておけばよかった」


「な、なんでそうなるんですか⁉ 怖いです!」


「僕はお前が怖いぞ、雪」


 ふいに名前で呼ばれ、ドキリとする。しかも、藜の表情は見たこともないほど穏やかだ。その麗しさが一層際立つ。


 雪はまるで夢でも見ているようだと苦笑して、胸の高鳴りに気づかないフリをした。


 素直に話せるうちに、話してしまわなければ。もしもこれが本当に夢だったなら、覚める前に伝えたい。


「わたしはただ、藜さんに生きていてほしいだけです」


 口にすると、それはなんだか告白のように思えた。


 誰かに生きていてほしいと願うのは、当たり前のことなのに。


 だから、雪は恥ずかしさをごまかすように付け加える。


「藜さんだけじゃなくて、人も、妖も、半妖も。みな、等しく生きていける世になればいいと、そう思っているのです」


 ――人と妖は決して交わらない。


 藜が、そう自分に言い聞かせなくてもいいように。


「そのためにも、九尾を倒さずになんとかする方法を考えなくてはいけませんね。わたしの力も、もっと制御できるようにならなければなりません。勉強も、まだまだです」


 (ふみ)に話したときから、覚悟も決まっている。自分の力で、大切なものを守りたい。そのために、できることはなんでもする。


 雪は、ない筋肉に無理やり力を込めて、腕を持ち上げる。


 藜はそんな雪を見て、フッとまた笑みをこぼした。


「……大馬鹿者め」


 悪態ももはや、悪口には聞こえず、雪も笑う。


 不安が拭えたわけではない。むしろ、討伐よりも無謀なことをしようとしている。


 だが、いつの間にか、雪の心から不安は消えていた。

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