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朧月夜の雪花奇譚  作者: 安井優
月の章

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七、甘いひととき

 およそ一刻、長治(ちょうじ)との面会はあっという間に終わりを告げた。


 必ず手紙を出すと約束し、長治と別れた(ゆき)は、(あかざ)の命を受け、喫茶店の一室に残っていた。


 藜は珈琲(コーヒー)から普通の茶へと飲み物を変え、雪にも同じものを、と給仕に用意させる。


「ここの茶は悪くないぞ」


 飲め、という意味だろうか。雪がおずおずと茶碗に手を伸ばすと、藜も茶をすすり始める。


 長治と再会できた喜びと興奮ですっかり舞いあがっていたが、言われてみれば喉が渇いている。会う前から緊張で何も飲んでいなかったし、一刻の間、息をつく暇もなく喋り続けていたのだから当然と言えば当然なのだが。


 雪は湯気の立つ茶を少し冷まして、椀を口に運ぶ。


「……おいしい」


 喉が渇いていたのもあるが、純粋に茶葉がよいのだろう。苦みやえぐみが少ないのに、香りがよくて味わい深い。それでいて、後味はすっきりとしている。


 はしたないと思いつつも、雪の茶碗はすぐに空になってしまった。


 しかも、藜が鈴を鳴らすと、急須を持った給仕が入ってきて雪の茶碗に茶をつぎ足してくれるのだから驚きだ。


 給仕が部屋を出ると、藜は首元まで閉めていた(ボタン)を緩める。


 思えば、藜は隊長というだけで、雪と長治の――まったく関係のない赤の他人のとめどない話を一刻も聞かされていたのだ。なのに、怪異討伐特務部隊の隊長としての品位を落とさないようにするためか、姿勢も崩さず、静かに座り続けていた。


「本当にありがとうございました」


「別に。これは当然の報酬だ。お前に礼を言われる筋合いはない」


「それは、そうなのですが……、藜さんには関係のない話ばかりだったのに」


「かまわん。それが僕の仕事だ。それに」


 藜は言いかけて、「いや」と口をつぐむ。


「なんでもない」


 ほんのわずかだが、藜の表情に少しの哀愁めいた陰りが見えた気がした。


 だが、それを本人に指摘しても、素直に認めることはないだろう。雪は「わかりました」と追及を避ける。


 話題が切れる。


 雪は、今しがた思いついたことを試すことにした。


「藜さん、ここは甘味もおいしいのですか?」


「気になるものがあるなら、頼んでもいいぞ。その分、お前の給金から差し引くだけだ」


「では……」


 雪は机に備え付けられた品書きを広げる。


 そこには馴染み深い羊羹(ようかん)やまんじゅうの他に、雪が聞いたことのない甘味の名も並んでいた。


「うーん……、わたしは食べたことのないものが多いので、藜さんのおすすめを教えてください」


 選べない、と藜のほうへ品書きを差し出せば、藜の喉がこくんと上下した。


 どうやら、椿(つばき)の勘は当たっているらしい。まじまじと品名を見て悩んでいる藜の顔は真剣そのもので、雪は作戦が成功したことをひそかに喜んだ。


 長い時間付き合ってくれた藜に、雪は個人的な礼がしたかったのである。


 しかし、藜のことだから、それを言えば受け取ってはくれないだろう。横暴なくせに、妙に真面目なところがあるのだ。


 ならば、雪が食べたいということにすればいい。それで、雪の金で頼んだものを藜に譲る。そうすれば、きっと藜は食べてくれるに違いない。


 これほどの知恵が働くようになったとは、と自分に感心していると、藜がスッと品書きを雪のほうへ戻した。


 藜の美しい指先が『布顛』と書かれた文字を指している。


「これは?」


布顛(プリン)だ。以前、ここの給仕に聞いたところによると、牛の乳と卵、砂糖を混ぜて煮詰め、冷やし固めたものらしいが、悪くなかった」


 あの藜が発したとは思えぬほど饒舌(じょうぜつ)な語り口に、雪はポカンとしてしまう。


 藜もまた雪の様子に何を察したか、茶をすすってごまかすように咳払いした。


「べ、別に、無理に頼まなくてもいい」


「いえ、それにします!」


 おいしいのなら、雪も調理法を覚えて隊員たちに振る舞いたいし、何より、藜が食べたいものは頼まねば。


 藜も、雪が食いついたためか、まんざらでもなさそうな顔で給仕を呼びつける。


「布顛を」


「あ、待ってください! 藜さん、二つ、お願いします」


 雪の訂正を聞いて、藜は軽蔑するような目を雪に向けた。食い意地が張っていると思われたらしい。だが、それも仕方ない。藜に礼をするためには我慢しなくては。


 藜の冷たい視線を無視して待つ。


 しばらく耐えた後、届けられた布顛を見て、雪は感嘆の声を漏らした。


「わぁ……!」


 黄色いそれは、(さじ)で軽くつついただけでフルフルと揺れる。見た目だけで言えば、茶碗蒸しにも似ているが、布顛には焦がした糖蜜――焦糖(カラメル)と言うらしい――がかかっていた。


 雪は、目の前に並べられた二つの布顛のうち、一つをそっと藜の前に差し出す。


「……なんだ」


「あ、え、えーっと、おなかが空いている気がして二つ頼んだのですが、待っている間に、そうでもなくなった、と言いますか……、初めて食べるものですし、もし、藜さんさえよければ、食べていただければ安心する、と言いますか」


 あらかじめ考えていたにしては、へたくそな言い訳に思えたが、藜の意識はすっかり目の前の布顛に注がれているらしかった。


 雪が差し出した皿を見つめて藜があからさまにたじろぐ。


「いや、しかし……」


 雪の給金から差し引くと言った手前、自分のものにするのは、という葛藤があるらしい。


 やはり、藜は横暴で冷酷非道で、恐ろしい一面を持っているが、不器用で、真面目で、隊長としてよき上司であろうとする、そんな姿勢も持ち合わせているらしかった。


 雪が「せっかくですから」とすすめてようやく、欲に負けたのか、匙を手にとる。


 布顛を頬張ったのは同時だった。


「ん! おいしぃ~!」


 口いっぱいに広がる優しい甘みと、とろけるような食感。


 雪が目を輝かせると、藜も同意するようにうなずいて「悪くない」とこぼす。その顔は、いつもよりもやわらかく、全身から放たれている空気もどこか穏やかに思えた。


 こうしていると、藜も普通の人だ。顔のよい、年相応の青年に見える。


 雪が見つめていると、


「なんだ? 今頃返せと言われても聞かんぞ」


 藜は自分の布顛を守るように、皿の前に肘をついて雪から布顛を隠した。


 その様子が年相応どころか、子供っぽくて雪は思わず笑ってしまう。


「な、なんだ、急に」


「いえ。なんでもありません。おいしいと思って」


 雪はクスクスと肩を揺らしながら、布顛をすくう。口に放りこめば、やはり頬が緩んでしまうような甘さが感じられた。


 藜もすっかり、雪の不思議な態度を忘れて布顛に夢中だ。


(……藜さんが半妖なんて、やっぱり信じられない)


 本来の藜を知れば知るほど、距離が近づいたと感じられるほど、そこにある影が濃くなっていく気がする。


 雪は、今だけは、とその暗闇から目を背け、代わりに、喜びを隠しきれていない藜を見つめた。

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