一、ささやかな幸せ
少女は、男が「ひっ」と息を飲む声を聞いた。
月明かりのない夜。少女を照らしているのは、凍りついた妖の赤い目だった。
美しかった少女の黒髪、その一房が真白に染まっていく。少女の吐いた息からは、六花がハラハラとこぼれた。
「……わたし」
その少女は、人ではなかった。
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「長治さん、見てください! あちらの提灯も美しいですよ!」
「雪、そんなに走ったら危ないぞ」
「大丈夫ですよっと……わわっ⁉」
「っ! 雪!」
足を滑らせた雪は、すぐさまがっしりと背中を支えられた。雪を抱きかかえるようにした長治の安堵した息遣いが耳元で聞こえる。
「ほらみろ」
言ったことではないか、と長治が苦笑する。長治の手から離れた雪も、つられて苦笑いを浮かべた。
「父さま、ごめんなさい」
「こんなときばかり父と呼ぶのはやめなさい」
長治にコツンと額を弾かれ、雪は「いたっ」とわざとらしい声をあげた。
「たとえ本当の親じゃなくても、父さまは父さまですもの」
「普段は長治と呼ぶくせに、都合が悪くなったら子供のフリをするなと言っているんだ」
「手厳しい……」
雪がむぅ、と口をすぼめると、長治は呆れたように肩をすくめる。雪はそれを見ないようにと、やわらかな提灯の光に目を向けた。
仲のよい親子二人は今、帝都の中心部にほど近い大きな神社の火伏祭に訪れている。
今日はちょうど、雪の十八の誕生日。その祝いも兼ねての遠出だ。
神社の参道には数えきれないほどの提灯が吊るされ、多くの人々が楽しげに行き交う。
新月の暗さだけでなく、冬の寒ささえも忘れさせるご神火は、十八になった雪にも童心を思い出させた。
雪と長治は、昨晩の雨で凍った参道を転ばぬように気をつけて進み、本殿の前で足を止める。
ごうごうと燃え盛る一番大きなご神火に向かって柏手を鳴らし、頭をさげた。
(長治さんの長屋を、わたしの家を、どうか厄災からお守りください)
雪は手を合わせ、真剣に祈る。
特別な幸せなどいらない。素敵な一年にならなくてもいい。
そもそも雪は、十八年前に死んでいてもおかしくない状況だったのだから。
生まれたばかりの雪は、吹雪の夜に深川の橋の下に捨てられていたらしい。冷たい雪に埋もれて泣き声をあげていたところを、長治が見つけて拾ってくれた。そうして、雪は長治が管理している深川のはずれにある長屋で養子として育てられた。
決して裕福な暮らしとは言えないが、多くの住人と過ごす長屋での生活は楽しく、ささやかな幸せに満ちている。
だから、これだけでいい。雪にとっては、長治が実の父でなくても、母がいなくても、今の生活だけで満足なのだ。
贅沢は言わない。どうか、この幸せが続きますように。
雪が顔をあげると、すでに祈祷を終えていた長治が雪の髪をくしゃくしゃと撫でまわす。
「雪も、もう十八か」
突然の子ども扱いに「もうっ」と長治の手を払って、雪は髪を直した。
「長治さん、雪は大人の乙女なのですよ! もう子供ではないのです!」
頬を膨らませ、怒る素振りを見せても、長治はどこかデレデレとだらしのない顔で雪を見るばかり。
雪はいよいよ長治の親馬鹿な視線がうっとうしくなって、話を切りあげようと懐から吉兆縄を取り出した。
「ほら、火縄を持って帰りましょう」
大きなかまどに焚かれたご神火から、パチパチと枝葉の爆ぜる心地よい音が聞こえる。
雪は縄の先をそこに入れ、火を縄へ移した。
この火は長屋の神棚に入れたり、食事を作る際の火種に使ったりする。そうして、無病息災を祈るのだ。もちろん、火の消えた縄も長屋の玄関に飾って火伏せに使う。乾燥する冬は特に、火元に気をつけなければ木造の長屋などひとたまりもない。
雪は点いた火を消さぬよう、そっと縄を持ち直した。ついで、凍結した参道で足を滑らせないように、ぎゅっと長治の手を握る。長治もまた雪の手を握り返してくれる。
長治の掲げる提灯の明かりを頼りに帰路につく。
二人は幸せだった。
ささやかで、つつましやかな幸せに包まれていた――はずだった。




