06.道化師、二人
月の光に朝焼けが混じり、地平線は見えない。
それを瞬きもせず見つめていると、月は最後の瞬間を惜しむように強く発光して濃さを増し朝焼けと絡まり、世界は真っ赤になった。短いような長いような一瞬の後、空が赤から薄紅色に、そして徐々に白くなり、青が産声を上げたその瞬間、世界で一番嫌いな夜明けだと思った。
しばらく横たわったまま息を潜ませていると、遠くで小さく扉が開く音がした。
近付いて来た気配が傍らで止まり、私は今目覚めたかの様に目を瞬いた。
ちょうど顔を覗き込んでいたらしい、おぼろがかった女の人の水色の瞳が、驚いた様に大きく見開かれた。目が合うと、「失礼致しました」と、すぐに体を離し一歩下がる。
女性らしいけれど少し高い声に、見た目よりも若いのかもしれない、と思う。
追いかける様に上半身を起こして、改めて女の人を見れば、襟元まで詰まったフリルの少ない機能的なワンピースに身を包んでいた。
メイドさん? それとも女官とか侍女とか言う人?
生憎自分には違いが分からない。
何となく昨日も見た気がするから、眠っていた三日間、彼女が身の回りの世話をしてくれたのだろう。
唇は渇きにひび割れる事無く、身体からは清潔な石鹸の匂いがする。
きっちりと介護されていた事が分かるのは、それが身近なものだったからだろう。
「おはようございます」
目が合って、はっきりとそう挨拶する。少し怯えた顔をした彼女に、昨日の神官長や王子とのやりとりを聞いていたのだろう、と予想する。
少し困った顔を作り、首を傾げて彼女を見上げてゆっくりと口を開いた。
「昨日は取り乱してごめんなさい。薬で意識が朦朧としていたみたいで」
初対面はどんな人にも礼儀正しく。年下だろうが子供だろうが、お姉ちゃんは優しく微笑んで挨拶する。
「いえ……! とんでもないことでございます」
女の人はそう返事をして胸の前で固く結んでいた手を解いた。表情もやや柔らかいものとなっていて、心の中だけでほっと胸を撫で下ろす。
「着替えさせてくれたのも、あなたですか?」
「はい、私でございます。許しも得ずに肌に触れました事をお許し下さい」
そう、一睡も出来なかった夜明けにようやく気付いた。今、自分が身に纏っているのは、シルクの様な上質な寝着だった。レースやボタンが控え目に縫い付けられた踝までの白いワンピースだ。
意識を失う前は手術衣だったし、恐らくは誰かが着せてくれたのだろう。
神官長では無い事にほっとしたものの、明らかに年上の彼女から出る言葉は、鯱張ったものばかりだ。
――『神子』と言う存在に、どれだけの地位が与えられているのか、このやりとりだけで何となく分かった。
「ありがとうございました」
女の子といえども気を失っている人間を着替えさせるのは、一苦労だっただろう。実年齢では明らかに上に見えるが、体格はそう変わらない様に見える。
シーツの上に手を置いて頭を下げると、今度こそ慌てた様にメイドさんは顔を上げる様に促した。
「後程神官長様がお見えになるのですが、体調の方が大丈夫でしたら、お支度を整えさせて頂いても宜しいでしょうか」
「……そう、ですね」
少し考えて頷く。
まだ世界観も状況も立場も掴めていない。
目的の為には、しっかりと現状を知って、うまく立ち回っていかねばならないだろう。
クローゼットから選び出されたのは、ピンクがかった華やかなドレスだった。
レースも多く似合いそうにも無いが、せっかく用意してくれたものだし断るのは気が引ける――と一瞬考えて、首を振った。
違う、それは事なかれ主義な『あたし』の考え方だ。お姉ちゃんなら……『イチカ』なら、きっと。
「もう少し控え目なものは、ありませんか」
そう聞いて見ると、メイドさんは気分を害した様子も無く少し考えた後、淡い水色の落ち着いたデザインのドレスを出してきた。
病み上がりと言う事でコルセットは無し。その事にほっとして着せて貰ったドレス姿を姿見で見ると、意外とそこまでおかしくはなかった。芝居の書き割りの様な、アンティークな背景のせいだろうか。つるりとした生地に余計に現実感が薄まる。
「よくお似合いです」
背中の紐を結んでいたメイドさんが、後ろから控え目にそう言う。その表情は自分の仕事に満足してる様にも見えた。
もしかして最初のドレスは彼女が選んだものでは無いのかもしれない。ピンクのドレスは裾と襟元で輝いていたのは宝石らしく、酷く重そうなドレスは明らかに高価だった。
「ありがとう。すごく素敵」
感想と共にお礼を言えば、メイドさんははにかむような笑みを浮かべて、お気に召して頂き幸いです、と首を振った。
「あれ着せなきゃいけなかったんじゃないんですか? 後で叱られたりしません?」
少し考えて衣装掛けに吊られたままのドレスを指差して聞いてみれば、メイドさんは軽く目を瞬かせてから「大丈夫です」と首を振った。
そして少しの間を空け、伺う様に鏡越しに私を見てから口を開いた。
「先程のドレスは王子からの贈り物ですが、言いようはいくらでもあります。……僭越ながら、私が代筆してお礼状をお贈り致しましょうか」
ああ、なるほど。あの王子の趣味なのか。確かに私には似合わないが、昨日の……可愛がっていたお姫様なら愛らしく着こなしてくれるだろう。
「いえ、直接お礼を言うから大丈夫です。……気を遣ってくれてありがとう」
メイドさんは恐縮したように身を縮めて、また首を振った。
「名前を聞いてもいいですか?」
ふと気付いてそう尋ねてみる。
「失礼致しました。サリーと申します」
覚えやすくて良かった。そう思いながら、私は鏡越しに、「サリーさん」と呼び掛けてみた。
「私に尊称は不要でございます。サリーとお呼び下さい」
「……呼び捨てで呼ばないと困りますか?」
疑問は率直に。
眉尻を下げたサリーさんに、私は、ごめんなさい、と謝って、サリー、と呼び直した。この人は違う、無関係な人を困らせる必要も時間も無い。
「髪はどうなさいますか」
「んー……」
ちらりと横目で伺うと、サリーさんは手にドレスと同じ色のリボンを持っていた。
「お任せしても?」
にこっと笑って小首を傾げて見せる。
この世界の事を何も知らないので、そう付け足せば、サリーさんは控えめな笑顔で頷くと、鏡の前に私を座る様に促して、丁寧な仕草で髪を梳き始めた。
優しい仕草、耳や項に触れる手はお姉ちゃんよりもふっくらして温かい。
恐らくこの世界では中途半端であろうセミロングの髪に奮闘するサリーさんに心の中で謝罪しつつ、探りを入れる事にした。
「……あの、神官長様って昨日お会いした方ですよね? あまり話せなかったので教えて欲しいんですが、どんな方ですか」
突然の質問にも関わらず、サリーさんは、髪に視線を置いたまま、その不自然さに気付く事もなく、口を開いた。
「そうでございますね。……今年、就任されたばかりで、物腰が穏やかで信仰心も厚く、他の司祭や神官の方々に慕われていらっしゃるとか」
……慕われてる?
一瞬、鼻で笑い掛けて自粛する。サリーさんはそんな様子に気付く事なく細かく指を動かしながら、彼の事を話してくれた。
普段は神殿に籠もっているが、今は神子召喚の為に王城に滞在しているらしい。
「随分若い方なんですね」
そう、どれだけ上に見積もっても三十は超えていないだろう。しかも『長』などと言う立派な役職までついている。
「ええ、異例の若さと言われていますが、一年少し前に前の神官長様がお亡くなりになられまして、前司祭長様直々のご指名を受け即位なされました。この国一番の魔力の高さだと言われております」
色々聞きたいのを我慢して怪しまれない様に何気なさを装って、一呼吸置いた後にこの世界についても聞いてみる。
大陸には大きな国が四つあり、後は少数民族が暮らしている。その中で一番国土が広く人口も多いのが王政のこの国であるらしい。魔法は――昨日聞いた通り。昔はあったけれど今は使えない……と言うか存在はせず、文化的にはおよそ17~18世紀辺りのヨーロッパっぽい感じがする。
サリーさんは中途半端な髪を綺麗に編み込み、ドレスと同系色のレースと控え目な花の飾りを差して首もとから胸へと流した。
少し頬と唇に紅を差すと、ぐんと大人っぽくなる。
これなら二十二だと言っても怪しまれないだろう。初めて年相応に見えない自分の外見に感謝した。
それから程なくして、神官長がやって来た。
椅子から立ち上がり挨拶をした私に少し驚いた様に歩みを止める。
昨日は失礼しました、と頭を下げると、神官長は柔らかく微笑んで、いえ、と首を振った。
「落ち着かれた様で安心致しました。改めて初めまして。レーリエと申します」
曖昧に笑ってみせると、神官長はそう言って手の平を上に向けて差し出した。
自然と手を乗せれば、軽く上に持ち上げて頭を下げる。
昔物語で読んだ騎士の挨拶に少し似ている。手の甲に口付けする仕草では無いのは聖職者だからだろうか。
「レーリエさん……」
手を引き上げてポツリと呟いてみる。特に発音しにくい事も無い。
「はい、歴代の神子様の中には言葉が通じ無い方もいらっしゃったらしいのですが……安心致しました」
言葉、と反芻してようやく気付く。
そういえば違和感なく話しているが、自分が今話しているのは母国語である。あまりにも自然に会話出来ていて気付かなかった。
「神子について詳しく教えて頂けませんか」
「ええ、神子とは千年に一度、召喚され神々をお慰めする役を負うものです。神々の谷にある台座で舞を捧げます」
馬鹿馬鹿しいと吐き捨てたくなるのを堪えて問い掛けると、サリーさんがいつの間にか用意してくれていたらしいお茶をテーブルに置いてくれた。ハーブティーらしい独特の匂い。嫌い。コーヒーが飲みたい。お姉ちゃんが淹れてくれるコーヒー。
「……私、舞なんて踊った事ないんですけど」
「大丈夫です。私がお教え致します」
「わざわざ神官長様がですか?」
心得たように頷かれて、思わず問い返す。
「ええ、それが私の仕事ですから」
神官長はそう言って微笑んで見せた。その笑顔は慈愛に満ちて、神々しい。
「他に何かありますか? 儀式で踊る以外に覚えなきゃいけない事とか」
無邪気に笑ってそう問い掛けると、神官長は、手にしたカップを見下ろすようにして自然に視線を逸らした風に見えた。
「いえ、それだけですよ」
――嘘つき。
「私、頑張ります」
お姉ちゃんを意識して、朗らかに笑う。
嘘つき嘘つき嘘つき
いつか、
大事な人を理不尽に奪われる悲しさで、その綺麗な顔を歪ませて。




