閑話<2>目を瞑り耳を塞いだ勇敢な騎士
「よっ、お疲れ様」
交代の時間が過ぎ、騎士寮にある自分の部屋に入るなり、中から声が掛かった。
着替えの途中だったのかシャツの襟元を掴んだまま、首だけ回して挨拶してきたのは、同室のリースだ。
最近は勤務時間からすれ違いが多く、同室だと言うのに顔を合わせるのも久し振りだった。
「お前もな」
神子の護衛に付くまでは、サダリもリースと同じ隊に属していたので、演習や市街地の見回り等の当番はほぼ把握している。今日は市街地の見回りだったはずだ、と大きな行事でもない限り変わらない勤務表を思い出しながら同じく労いの言葉を返した。
部屋に入り上着を脱ごうとボタンに手を掛けるたところで、背中に感じる視線に気付き振り返る。すでに後は寝るだけといった寛いだ格好のリースが寝台に腰掛けて足を組み、にやにやと笑っていた。
「何だ」
明らかに何かを含んだ笑顔に嫌な予感を覚えて、そう尋ねる。
騎士団の中では同期でもあり、気の置けない仲間であり友人でもある。彼はいつも明るく何かしら騒いでいる賑やかな男だった。サダリとリースを足して二で割ればいいのに、と仲間内でも言われる程に、寡黙なサダリとは真逆だったが、それが良いのか不思議と馬が合い、時々二人で飲みに行く事もあった。
ともかくそのリースは、サダリが話しかけてくるのを待っていたとばかりに、まぁ座れよ、と反対側の寝台を顎でさした。
どうやら本格的に何か話したい事があるらしい。情報通で気安く隊のムードメーカーであるが、いかんせんしつこいのが彼の欠点だった。軽く相手をしてさっさと切り上げるべきだと結論づけ、上着を脱ぎ捨てると椅子の背に引っ掛けた。正面からやや逸れた向かい側の自分の寝台に腰掛ける。
「お前神子の警護外れるんだって?」
ちり、と胸の奥で何かが黒く焦げ付く様な音がした。何故知っている、とは聞かない。神殿までの警備は騎士団の仕事であるし、神子が神殿へ手習いに行くのは予定通りでもあった。
故に神殿まで送り届けた後は任を解かれ、サダリはまた騎士隊に戻る事となる。
手習いを終えた後、城に戻るか神殿に留まるかは、あくまで神子の希望が優先されるが、神殿の方が市街地に近く、城程堅苦しくも無い事から、王城へ戻ってくる可能性は低いと見られている。周囲も概ねそちらの方向で予定を組んでいるし、神殿側もそのつもりで長期滞在用の部屋を用意していると聞いている。
つまりはサダリはもう神子の護衛として関わる事は無くなり、下手をすれば儀式の日まで会う事もないかもしれない。このまま別れてしまえば、何か、酷く悔いが残るような――気がした。
それに神子自身が自分の護衛を望めば、侍女と共に神殿に上がる事も可能だろう。しかしそれを自分から口にするのには迷いがあった、自尊心とは違う、何か罪悪感の様な塊が喉に詰まり言葉にするのを阻む。
「どうりでここ最近の機嫌が悪いはずだよな」
自然と剣呑さを含んで細まったらしい瞳に、リースは大げさに身をのけぞらせたが、表情は至って面白いおもちゃを見つけた子供そのものだ。
「お前とは最近顔を合わせていなかったはずだが」
「いやまぁ色々聞くよ。サダリは神子様付きになってから表情が柔らかくなった、とかさ、あの朴念仁にも春が来たか、みたいな?」
からかいを含ませて歌うように言ったリースに、サダリは今度こそ不機嫌を隠さずにリースを睨んだ。
「何の事だ」
「図星だから腹が立つんだろ」
すんげー怒ってる顔してんの自覚しろよ、と壁に掛かった姿見を親指で指したリースに釣られる様に顔を傾ける。確かに眉間には深い皺が刻まれており、唇は固く引き結ばれていて、やんちゃ盛りの姉の子供によく似た表情だった。
鏡の中の自分から視線を外すと、ふっと頭の中に先程別れたばかりの神子が浮かび、すぐに打ち消そうと軽く首を振った。これではリースの言葉通りである。
「まぁ俺らはお前が戻ってきてくれりゃ嬉しいけどな、この三ケ月、団長の相手になるようなのお前くらいしかいないのに、代わりに俺らが相手してんだもん」
――既にあれから三ケ月。
諸外国から呼び寄せた怪しい魔術師が居並ぶ、殊更月が赤い夜、召喚した直後の彼女は今の穏やかな振る舞いが嘘の様に酷く狼狽し、必死で元の世界へ還りたがった。
もう戻れないと神官長様が告げた時、召喚台に戻ろうとした彼女を捕まえ押し止めたのは自分だった。至近距離で覗いた娘の瞳は、神官長も自分も、あの場にいた誰も映さずただひたすらに召喚台――恐らくは向こう側の世界に置いてきた『何か』を掴もうと必死で手を伸ばしていた。
薬を飲ませても、なお抗おうとする彼女の執念に周囲にいた魔術師は驚き、その中で唯一冷静だった親衛隊長が彼女の意識を落とすように指示した。意識が落ちるその最後の瞬間まで彼女は嗚咽まじりの細い声で懇願していたのを知っているのは恐らく自分だけだろう。ややあって力の抜けた彼女の身体は赤い月の光が滑らかな肌を照らし、より一層痛ましく見えた。一瞬躊躇した自分を叱咤しサダリはすぐにマントの止め具を外し、彼女の身体を包む様に隠す様に抱え直した。
間近に覗いた表情は苦し気に歪み、頬は涙で濡れていた。
『――帰して、お願い、お願い、しま……』
嗚咽混じりの神子の声が鼓膜に張り付いて離れない。
自分はこんな弱々しい女性を押さえ付けて何をしているのか――と、心の裡で響く声を無視し、不意に秀麗な顔を歪め苦い表情で神子を見ている神官長の顔が視界に映る。恐らく自分も同じ様な顔をしているのだろう。
だからこそ二回目に護衛として紹介された時に、帰還を阻んだ自分に剥き出しの憎しみが向けられると思っていた。けれど予想に反し彼女は自分の前で、綺麗に笑って見せたのだ。
その瞬間――、得体の知れない何かに身も心も囚われた気がした。
その一瞬の感情を理解出来ないまま、護衛として日々を過ごして、彼女の人となりを知る。
結論から言うと彼女はすぐにこの世界に馴染んだ。明るく朗らかで侍女や王女に慕われ奢ったところもない。
召喚した当初の様子から、非協力的では無いかと思われていたが、積極的にこの国の歴史や文化を学び、文句一つ言わず日々を過ごしている。
もしくは『この世界を救う使命』が、彼女が失った『何か』の代わりになったのだろうか。――そうならば良い。若い娘があんな風に泣く姿など見たくはない。
それども、あの時の彼女の必死に追いすがる姿が脳裏にこびりついて離れない。抜けない棘の様に心に引っかかり、必要以上に、神子を観察する日々が続いた。
一言で言えば彼女は不思議な女性だった。無邪気に声を立てて笑ったと思えば、艶やかに微笑んで見せる。なかなか寝付けないらしく何度か夜中に起き出す気配があった。最初に声を掛けたのが失敗だったかもしれない。それ以来彼女は無防備に扉を開き、気の利いた言葉など返せない自分との会話を求めた。
特にまだこちらに来て間もない頃、扉から顔を出した彼女は、いつもより無防備に微笑んで、サダリの事を「私の騎士様」と呼んだ。白い寝着の上には何も羽織っておらず胸元で結ばれていたリボンは酷く緩くて、サダリは咄嗟に顔を背けた。
――神子は常に周囲の状況を読み、人の感情の変化に聡かった。いつもなら、サダリの表情の変化に気付くはずだったが、その日は違った。
『裸見たくせに』
言葉にされた事で意図的に忘れようとしていた、女性らしい起伏を描いた肢体を思い出す。言葉の終わりに彼女が見せたのは艶やかに瞳の奥が輝く様な悪戯めいた微笑みだった。
魔が差す、と言うのはこんな瞬間を言うのだろう。咄嗟に伸ばした指先のすぐ先で音を立てて扉が締まった瞬間まで確かに自分は彼女に魅入られていたのだ。
彼女の残り香が身体に纏わりつく様に染み付いてその夜は彼女の気配を探っては、また顔を見せるのではないか、と期待し、動かないそれに落胆を覚えた。
翌朝の彼女はいつも通り変わった様子はなく、朝の挨拶をした。
就寝前にブランデー入りの紅茶を飲んだらしい事を聞いてようやく納得した。
訝しがられる事を覚悟した上で彼女の侍女に就寝前に酒の類は出さない様にと注進し、夜の護衛交代の時間をずらした。
そんな自分の行動が、同僚に不審に思われ、そう読まれてのだろうか。しかし。
「サダリ?」
「――ああ、悪い」
若い男女とくれば恋愛に繋げたがるのは、リースの悪い癖だ。
「何を考えているか知らんが……身分が違うだろう」
「お前が渋ってる団長の養子縁組に乗ればそれで解決だろ」
いつかと同じ言葉に、リースは、はん、と鼻で笑ってあっさりと答えた。確かに不相応だと断り続けてはいるが、そんな話はある。そもそも平民出身である自分が尊き神子の護衛に付いたのも、その為のいわゆる『箔』に過ぎない。
「でもま、確かに可愛いよな。時々姫様と一緒に王子の演習見にくるけど、差し入れも気が利くし、美人でいっつもにこにこしてるし、奢ったとこないし気さくだし。かと言って出過ぎるとこないしな」
リースの言葉は概ね周囲の評判と同じだ。身分の隔たりも無く接し女官にも菓子を振る舞い、仕事の成果をさり気なく認めて賞賛する。そうなると自然に彼女に付きたいと言う女官は増えて、人選が大変だと彼女の侍女が苦笑まじりに言っていた。
『でも気持ちは分かりますわ。神子様のそばはとても居心地が良いですから』
誇らし気なサリーの言葉が蘇り、その時自分は確かに同意した。
彼女のふわりとした雰囲気と聡く物事の本質を言い当てる様な発言には、時々はっとさせられる。聞きようになれば耳に痛い言葉でも、彼女の落ち着いた涼やかな声で言われれば、素直に心に響いた。
「あんまりぼやぼやしてると、王子に取られるぞー」
茶化す様に掛けられた言葉に、最近よく顔を合わせている王子の顔を思い浮かべて軽く目を閉じる。
物言いた気に彼女を見つめる王子の姿は、日を追う毎によく見るようになった。
そして今日もあの真面目な王子がわざわざ予定を潰してまで、彼女に会いに来ていたことから、その執着ぶりはいっそ分かりやすいといえよう。
「見てて分かりやすいよな。神子見に来てると少しでもいいとこ見せようとして団長と打ちあったりしてさ。俺らんとこ来れば空気読んで負けてやんのに」
「不敬だぞ」
遠慮のない同僚の言葉を軽く睨みつけて窘める。
「へいへい、でもま、アレだな。王子も神子さん来てから良くなったよな。肩意地張らずに伸び伸びして来たと言うか」
くわぁ、と欠伸をかみ殺して、リースはそう呟くと「眠たくなって来たな」と、そのまま後ろへと倒れ込んだ。
「でも王子には望みがないのが可哀想なとこだけど。隣国のお姫さんと産まれた時から婚約決まってるし、国の利益とか向こうへの体面考えたら神子を側室にするにも微妙だしな。かといって国外に出す訳にもいかないし。ほら、次期団長のお前が年齢的にも身分的にもぴったりだろ。……ああ、案外そういう思惑もあるか」
最後は考える様に一人ごちたリースに溜息をつき、サダリはそろそろ潮時かと、腰を上げた。
「……お前に懐いてるように見えるけどなぁ」
ふと、零れた呟きは今までの軽さが嘘の様に真面目な響きを持っていた。
――確かに心当たりがない事は無い。
名前を呼んで下さい、と頼んだ時の様な年の離れた兄に甘えるような言動を取る事が度々あり、勘違いでなければそれは自分にだけ向けられていた。
随分と仲良くなった王子には、年齢が下のせいだろうがそういった面を見せる事はなく、自分だけだと言う事実が、……おそらくは、自尊心をくすぐった。ずっと自分が庇護していきたいと思うほどに。
けれどそれを言葉にするには躊躇われるのは、やはり、最初に会った時の、イチカの魂を引き裂く様な叫びが――命令されたとは言え、この世界に彼女を押し留めた罪悪感が、サダリの心を縛った。
ただ一人の人間の願いと、世界の存続――比べる事など無意味であるし、あの時をやり直せるとしても、自分はきっと同じ事を繰り返すだろう。
「今は儀式が優先だ」
「……ま、そうだよな」
サダリの言葉に呆気なく同意して、リースはシーツを引き寄せると、「先に寝るわ」と欠伸混じりに呟き瞼を閉じた。
明かりを落として、サダリも寝台へと体を横たえる。
――今のこの自分の気持ちに名前をつけるのも、きっとその後が良いだろう。
いつか彼女がこの召喚によって失った『何か』が彼女の口から聞ければ良い、とサダリはゆっくりと瞼を閉じた。




