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リュカから聞こえた声にふたりして固まる。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「浮気? え、なんのこと?」
いつもなら大喜びで駆け寄ってくるリュカが、不満げに私たちを睨み付けている。ふーっと尻尾を膨らませ、耳もイカ耳で、非常に不機嫌そうだ。
しかし言うに事欠いて浮気とは、酷い言われようである。
「リュ、リュカ?」
リュカの機嫌を取ろうと近づく。だが、リュカは嫌そうに私から遠ざかった。
アステール様でもそれは同じ。私たちふたりから距離を取ろうとする愛猫の様子に、私はなぜこんなことになったのかと泣き崩れそうになった。
「リュカ。どうしてこちらに来てくれないの?」
言っても意味はないのかもしれない。でも問いかけずにはいられなかった。
リュカが一際大きな声で鳴く。
「みゃー!!(僕以外の匂いがするの! 嫌!)
「匂い……? あ」
匂いというリュカの言葉でようやく納得した。
パッとアステール様を振り返る。
「アステール様。もしかしてリュカは、シリウス先輩の猫の匂いが私たちに付いているのが気に入らないんじゃ……」
アステールもしまったという顔をして頷いた。
「多分、そういうことだろうね。あまり触れてはいなかったけど、リュカは猫だ。猫は人間より何百倍も嗅覚がいいから、きっと気になったんだろう」
「ふーっ、ふーっ!(なんでそんな匂い付けてるの! 僕のなのに!)」
リュカが怒っている理由がようやく分かりホッとする。何はともあれ匂いを消さなければ、近づかせてもくれないようだ。
アステール様が仕方ないという口調で言う。
「着替えるしか方法はないだろうね。スピカはいいけど、私はどうしようもないから、今日は帰るよ」
「アステール様……すみません」
さすがにアステール様の着替えを用意しているわけではないので引き留められない。
理由が『匂い』と判明した今、確かに帰ってもらうより他はないだろう。
苦笑しながらアステール様が扉を開ける。
「謝る必要はないよ。これは仕方のないことだから。じゃあ、スピカ。また明日」
「はい。お気を付けてお帰り下さい」
「うん。今日も一緒にいることができて嬉しかったよ」
目が合う。
甘い視線が私を貫いた。
柔らかく微笑まれ、頬に朱が走る。
そんな私の反応を見たアステール様は満足げに笑うと、素早く近づき、頬に口づけた。
「えっ」
「また明日ね。大好きだよ、スピカ。愛してる」
何事もなかったかのような態度で、アステール様が屋敷を出て行った。
呆然とその場に立ち尽くす。
「……今の、何」
恐る恐る頬に触れた。
先ほどアステール様の唇が触れた場所。そこはびっくりするほど熱くなっていた。
私はその熱をなんとか鎮めようと息を吐いた。
「はあ……」
力が抜けた。
ずるずるとその場にしゃがみ込む。ドキドキしすぎて立っていられなかったのだ。
頬にキスされたのは初めてではない。好きだと言われたことだって、今までに何度だってある。
それなのに、どうして今回はここまで反応してしまうのか。
分かっているけど分かりたくない。
「……」
頬の熱は引かない。
いつまで経っても赤いままだ。それは私の中にあるとある気持ちと同じみたいで――。
「っ! 駄目、駄目っ!」
これ以上考えたくなくて、己の頬を思いきり両手で叩く。
私は気持ちを切り替えるように立ち上がり、リュカの機嫌を直すため、とりあえず着替えようとコメットの名前を呼んだ。
◇◇◇
グルグルした気持ちを持て余しながらも着替えを済ませた私は、自室へと戻った。
そうっと扉を開け、中を覗く。
「リュカ? 着替えたわよ?」
声を掛けてから室内に入る。リュカは丸い目を三角にしていたが、匂いが消えたことに気づいたのか、ホッとしたような顔をしてやってきた。
「なー」
さっきまで怒っていたのが嘘のように尻尾を立て、私の足に額を擦りつける。
まるでお帰りとでも言うような仕草に、ほっとした。
「リュカ、ごめんね。気がつかなくて」
余所の猫の匂いをここまで嫌がるとは思わなかったのだ。だけどリュカからしてみれば、飼い主を取られた気分になったのかもしれない。
匂いというのはマーキングの一種だ。自分の家族が他の猫にマーキングされたと怒ったのだとしたら、彼にとっては当然の怒りだったのだろう。
「なーん、なーん」
リュカの心の声が聞こえたらと思ったが、分からなかった。
ただ、声の感じは機嫌が良さそうで、先ほどのことは忘れてくれたのかもしれない。
それでも、リュカを怒らせて申し訳ないと思っていた私は、シリウス先輩からお土産にもらったおやつをお詫びとしてあげてみることにした。
「……食べてくれるかしら」
選んだのは、先輩が最初に説明してくれた細長いパウチの液状おやつだ。
どうやってあげようか迷い、結局私はいつも使っているリュカの餌皿を取り出した。ローテーブルの上に置く。
餌皿のコトンという音に、リュカが思いきり反応した。
「ニャニャッ!? (嘘、ご飯!?)」
「えっ……?」
勘づくのが早すぎる。
そしてご飯ではないのだけれど。
ものすごい勢いで私の足下に走ってきたリュカに、分かりやすいなあと笑いながらも、私はパウチの封を開けた。
途端、リュカの尻尾が勢いよく上がる。
こういう猫の素直なところがこの上なく愛おしいと思う。
「なー!! なー!!(すごい、良い匂いがする! 何!?)」
あまりに顕著な反応に、私の方が驚いた。
リュカは期待に満ちた目で私を見ている。
「なーん! なーん!(それ! それちょうだい!)」
私が持っているおやつに視線が完全にロックオンしている。まるで獲物を狙うような鋭い目つきだ。
「リュ、リュカ?」
「なーーーーん!!!!(は、や、く!!)」
「あ、はい」
鬼気迫る表情で迫られ、私は慌ててパウチの中身を餌皿に移した。途端、リュカがテーブルの上に飛び乗ってくる。そして私の制止も聞かず、餌皿に勢いよく顔を突っ込んできた。
「ちょ……リュカ……! まだ入れている途中だから待ってって……」
「なー!!」
中身を全部入れきる前にリュカが乱入してきたので、慌てて餌皿を退けようとするも、リュカの方が早い。そして続きを入れようと思っても、リュカの頭が邪魔で無理だ。




