8
「ここも切る。あとは残りの足の爪も同じように切るだけだ。大人しくさせてしまえば簡単だろう?」
「な、なるほど……」
手際よくリュカの爪をパチパチと切っていくシリウス先輩の技をしっかり目に焼き付ける。
次からは自分でやらなくてはいけないのだ。よく見ておかなければ。
リュカの様子を見れば嫌そうにはしているものの、わりあい大人しくシリウス先輩に爪を切られていた。
まるで魔法のようだ。あんなに私たちから逃げまわっていたリュカが、こんなにも大人しくなるなんて。
リュカの入っている袋。この袋は是非私も買いたい。
「シリウス。お前が持ってきたこの袋は、ペットショップに売っているのかい?」
私と同じことを考えていたのだろう。アステール様がシリウス先輩に尋ねた。
爪を切り終えた先輩は袋を開け、リュカを出しながらアステール様に説明する。
「はい、殿下。大抵の店には置いてあるかと。これは柔らかい素材で作られていますし、一本ずつ足が出せるので落ち着いて手入れをすることができます。お勧めです」
「……商品名を聞いても?」
その言葉を聞き、私は慌ててメモを手に取った。忘れないよう書いておこうと思ったのだ。
羽根ペンを持つと、シリウス先輩が至極真面目な顔で言う。
「ねこちゃん蓑虫袋です」
「は?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
思わず聞き返すと、シリウス先輩は今度は私の目を見て言った。
「だから、猫ちゃん蓑虫袋だ」
「……ねこちゃんみのむしぶくろ……」
シリウス先輩の口から出た『ねこちゃん』というあまりにも似合わない単語に震撼した。
先輩が眉を寄せる。
「? 何だ?」
「い、いえ!」
はっと我に返った。
いけない。失礼なことを考えてしまった。
ネーミングセンスがおかしいのは決して先輩のせいではない。商品名を付けた人が悪いのだ。
先輩は親切で教えてくれたのに、笑ったりからかったりするのは失礼極まりない。
それくらいの常識は備えていた私は、ささっと商品名を書き付け、お礼を言った。
「商品名を教えていただきありがとうございます」
「いや、首輪をすすめた時にでも一緒に言っておけば良かった」
「いいえ、とても助かりました」
「なーう!(僕を見て!)」
自分を構ってもらえないのが嫌なのか、足下に来たリュカが実に分かりやすくアピールを始めた。
私の足下に腹を出して、甘えるように転がっている。
「可愛い……!」
当然愛猫に弱い私はリュカに釘付けだ。その場にしゃがみ、ころころと転がるリュカの腹を撫でた。猫なで声になる。
「リュカ~。偉かったわね。ちゃんと爪切り我慢できたね~」
「なう!」
まるで返事をするように鳴くリュカが可愛い。
ニコニコしながらリュカをなで続けていると、シリウス先輩が言った。
「これは今言っても仕方ないが、手入れのあとに褒美をやるようにすれば我慢してくれる確率は高くなるぞ」
「褒美、ですか?」
顔を上げる。シリウス先輩は頷いた。
「ああ、食事ではなく嗜好品……いわゆるおやつのことだ。好みはあるが、喜ぶ猫は多い」
「なるほど……!」
頭の中に前世で聞いた、とある猫用おやつのCMソングが鳴り響いた。
どんな猫も夢中になるという魔のおやつ。そういうものがこの世界にもあるのだろうか。
俄然興味が出てきた私はシリウス先輩に聞いた。
「メジャーな商品名を聞いても? 子猫でも大丈夫なものってあるんですか?」
料理人たちが作ってくれるおやつならあげたことはあるが、市販品のおやつはまだ試したことがない。
前世の世界であったようなおやつがあるのなら是非教えて欲しい。そういう気持ちでシリウス先輩を見ると彼は少し考えたあと私に言った。
「色々ある。もちろん子猫でも大丈夫なものもあるが……口で説明するのは面倒だな。……お前、なんなら今度オレの屋敷に来るか? 少し分けてやるから試してみるといい。大分好みが分かれるからな、試食なしで買うのは冒険だろう」
「え……?」
まさかの言葉に、リュカのお腹を撫でていた手が止まった。
シリウス先輩は今なんと言ったのか。
聞き間違いでなければ、私を彼の家に招待してくれると、そんな風に聞こえたのだけれど。
――う、嘘。私、初めて友達から遊びに来ないかって、誘われた?
公爵令嬢という立場に生まれ変わってから初めての出来事に心が舞い上がる。
リュカのおやつを分けてもらうという理由ではあるが、誘ってもらえた事実は変わらない。それがすごく嬉しかった。
「え、え、えと……」
気持ちが信じられないくらい昂ぶっていた。ドキドしながらシリウス先輩を見る。
もしかして、私の聞き間違いかもしれない。
今一度、きちんと確かめなければと思っていると、私よりも先にアステール様が言葉を紡いだ。
「シリウス、ひとつ尋ねたいんだけど、それには私もついていって良いのかな?」
――ん?
首を傾げる私を無視し、二人は当然のように会話を続けた。
「はい、もちろんそのつもりで言っています」
「そう。それなら私は構わないよ。スピカ、どうする?」
「え……私はその……是非行ってみたいと思いますけど……?」
――ん? んんんん??
アステール様に話を振られた私は混乱しつつも首を縦に振った。
――えっと、アステール様もついてくるって、そういう話?
友達の家に遊びに行くという話なのに、まさかのアステール様付きという事実に、私は「え、それって正しいの?」と大混乱だった。
だがシリウス先輩もそれが当たり前であるかのように頷いている。
わけが分からないという顔をしている私にアステール様がにっこりと笑いながら言う。
「スピカ、よく考えてみて。婚約者が、友人とはいえ男性の家に行くんだよ。ひとりで行かせると思うかい?」
シリウス先輩も言った。
「オレも妙な誤解はされたくない。殿下が一緒に来られるのなら、それが一番良いだろう」
「……あ、はい」
確かに、と納得した。
前回、シリウス先輩だけを屋敷に招いた時にアステール様にはずいぶん怒られた。その時のことを思い返せば、この展開も仕方ないのだろう。……たぶん。
「分かりました。アステール様、当日はよろしくお願いします」
彼らがそれでいいと言っているのなら、従おう。
私は深く考えるのを止めた。




