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◇◇◇
「おはよう、リュカ」
「なあ!」
甘えた声で足下に擦り寄ってくるリュカに挨拶をする。
今日もリュカは私の側で寝ていた。
一応、彼のためのベッドは買ったのだけど使った様子はなさそうだ。頭に触れたあと、その流れで背中から尻尾まで撫でる。気持ちいいらしく、リュカは「ううん」と言いたげな顔をした。
「ああもう、今日もリュカは可愛いわね!」
両手で彼の頬をもしゃもしゃとする。頬のラインを触られるのが気に入ったのか、リュカは目を細め、もっとと言わんばかりの顔をした。
「あー、駄目。可愛い。可愛いが私に襲いかかってくる」
「みゃあん?」
悶えていると、リュカがなあにとばかりに甘えた声で鳴いた。
可愛いだけでなくあざとさまで完璧なお猫様には一生勝てる気がしない。勝つ気もないけど。
「はあーん」
「お嬢様、何をなさってるんです?」
「コ、コメット」
ひとりで悶えていると、制服を持ったコメットが呆れた顔で声を掛けてきた。見られていたと気づき、途端、羞恥が襲ってくる。
「い、いえ、ちょっとリュカが可愛くて」
「分かりますけど。あ、お嬢様、手を怪我なさっています」
目聡く怪我したところを見つけられ、苦笑した。
「夜中にリュカにね。でも仕方ないわ。猫を飼っているんだもの」
「そうですね。消毒はきちんとなさいましたか?」
「ええ」
「それなら良いですけど、気をつけてくださいよ」
「気をつけてどうにかなるものでもないと思うけど」
肩を竦めつつコメットから制服を受け取る。着替えている間は、コメットがリュカの相手をしていてくれた。
「コメット、今日もリュカのこと、お願いね」
「ええ、お任せください……あ!」
「え、どうしたの?」
鏡を見ていると、突然コメットが声を上げた。何かあったのかと彼女を見る。コメットはしゃがみ込み、何かを拾い上げた。
「爪だわ!」
「爪?」
コメットの掌には、白と透明が混じったような色の小さな欠片のようなものが乗っていた。
「?」
「それ、リュカの爪ですわよ、お嬢様」
「へえ、これが子猫の爪なの」
初めて見た。
改めてまじまじと見つめる。小さな爪はカーブするような形こそしていたものの、平たくて、先が尖っている。爪だと言われればなるほどと思うが、人間のものとは全く形状が違うので教えてもらわなければ絶対に気づけないと思った。
「ぺったんこだわ。コメット、よく知っていたわね」
爪を受け取り、ツンツンと触って見る。意外と硬い。いや、爪と考えれば当たり前なのだけど、とても新鮮だった。先の尖っている部分は触ると痛い。これで引っかかれれば痛いだろうなと納得の鋭さだ。
ひたすら感心しながらリュカの爪を観察していると、コメットが言った。
「メイドの中に、猫を飼っている子がいるもので。昨日教えてもらったんです。爪とか髭が落ちていることがあるって」
「へえ、髭!」
「体毛とは全然硬さや質感が違うから、見ればすぐに分かるようですよ」
「楽しみだわ!」
楽しみが増えた。
髭が見つかったらアステール様にも教えなければ。
ワクワクとしている私を見て、コメットが柔らかく微笑む。
「? どうしたの?」
「いえ、ただお嬢様が楽しそうで良かったなと思いまして。一昨日突然子猫を拾ってきたと聞いた時はどうなさったのかと思いましたが、あれからずっとお嬢様はニコニコなさっていますから。見ていてこちらもホッとします」
「そ、そう?」
「はい。今までのお嬢様は、王妃教育ばかり頑張っていらして、他のことには興味をお示しにならないように見受けられましたから心配だったのえす」
「……それは否定できないかもしれないわね」
一昨日までの私は、公爵家の令嬢として恥ずかしくないように生き、両親の望む結婚をして、完璧な王妃になろうと頑張ってきた。
それが崩れたのは、ヒロインであろう『彼女』に会ったからだ。
私が『悪役令嬢』という立ち位置であることを教えられ、定められた道をわざわざ行かなくてもいいのだと気づくことができた。
完璧な王妃にならなくていい。そうなれるように頑張らなくていい。
だって私はそのうち婚約破棄を告げられるのだから。
アステール様と結婚する未来はないのだと分かり、今まで必死で踏ん張ってきた力が抜けたのだ。
――私は、私らしく生きればいい。
王妃になる未来がないのなら、もう少し、自分の思うままに生きてみてもいいのではないだろうか。
そうして出会ったのがリュカだ。
もちろん、こんなことはコメットたちにはとてもではないが言えないが、実際、王族となる未来がなくなったことで、かなり自由になれた気がしているのは事実である。
「私も少しは楽しみを増やしたいって思ったの」
嘘は吐かずに言うと、コメットは大きく頷いた。
「いいことだと思います。お嬢様は頑張り屋ですからね。無理をしすぎて倒れてしまってはと案じていました。多少は息抜きもしなければ。リュカを飼いたいと言い出した時には驚きましたが、お嬢様のためには良かったと皆、言っていますよ」
「ありがとう」
皆が優しくて嬉しい。
私は確かに悪役令嬢という役どころかもしれないけれど、自らの努力次第でそうならないようにすることはできるのだ。
可能なら、皆に嫌われるようなことにならないよう、『ゲーム』から上手く退場したいと思う。
――ヒロインにはさっさとアステール様を攻略してもらわないと。
そして私は円満に彼の婚約者という立場を降りる。
そうすれば私は今よりもっと自由になれるのだ。
それを少し寂しいと思ってしまう気持ちもあるのは否定しないが、全てを望むのは贅沢なことだと分かっている。私は自らが破滅しなければそれでいい。
アステール様は望む人と幸せになるのだから、それを喜ぼう。
寂しい、悲しいなんて思ってはいけないのだ。
「さ、用意もできましたね。もうそろそろ殿下がお迎えにいらっしゃいますから、お嬢様は玄関に向かって下さい」
「分かったわ」
コメットの言葉に頷く。
来たる日までの間は、私が彼の婚約者だ。この学校への往復の時間もあとどれくらい続くか分からないが、大切な思い出になるに違いない。
――彼と離れるまでに、少しでも思い出を作れたら。
そんなことを考えている時点で、すでに後戻りなどできないくらい彼に思い入れができているのだが、幸いなことに私がそれに気づくことはなかった。




