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第三十二話 似非令嬢と似非皇帝の過去③

 まったくもって不本意なことながら、今まで誰よりも一番多く言葉を交わした相手がボンボンになってしまっていた。


「盗みが好きなのか?」

「好きなわけないでしょ。これはわたしにとって生きる手段よ。あんただって呼吸する時、好きでやってるんじゃないわよね。それと一緒」

「盗みでしか生きていけない卑しい民のくせに、口が達者なのだな」

「そりゃどうも」


 コソ泥のすぐうしろにぴったりと引っ付いてくるので、スリの現場を見られることもしばしばだ。


「お貴族様はいいわよねぇ、なんでも好きなものが好きなだけ手に入れられて」

「お前には想像もつかないしがらみやら何やらでがんじがらめだぞ。……まあ、太陽のような兄には恵まれているがな。兄がいるおかげで俺の毎日は輝いている」

「何それブラコンなの?」

「ブラコンとは何だ」

「兄弟が好きで好きでたまらないって意味よ。家族思いなんてご立派だこと」


 家族がいること自体は別に羨ましくない。他人のことまで考える余裕を持って生きられるのは、ほんの少しずるいと思わないでもないが。

 くすくす笑えば、「俺のことはどう言ってもいいが、兄を馬鹿にすると不敬になるから気をつけろ」と怖い顔をされたので、「怖ぁい」と大袈裟に震えて見せた。


 ふざけたような。それでいて真剣なようなやり取りをしながら、月日は過ぎていく。


 ボンボンは何があっても相変わらずで、ペンダントを諦めはしなかった。

 貧民街が最悪の状況の時ですら通うのをやめなかったほどに。


 貧民街では一時、小さな騒動が起き、その後始末が行われたあとだった。

 あたりに転がる死体や貧民街の一帯に満ちる中、平気な顔でコソ泥に話しかけてくる。その豪胆さは怖いもの知らずなボンボンである故なのか執念の賜物なのか、どちらだったのだろう。


「最近貧民街の治安が悪いな」

「そう? むしろ前よりずっとマシよ。うるさい連中が死んでくれたもの」

「うるさい連中?」

「この貧民街から悪を取り除こうなんて叫ぶ奴らがいっぱいいてさ。結局暴徒化したから駆除されたってわけ」


 その結果が、無惨な死体の山だ。


「馬鹿よねぇ。くだらない正義感ばっかり振りかざしてたからひどい最期を迎えるのよ」


 そういえば陛下にも、同じような話をした覚えがある。

 まさかあの時はボンボンと陛下に関連性があるだなんて考えもしなかったけれど……もしかするとそこから気づかれ始めていたのだろうか。


 ――それはともかく。


 最初は鬱陶しいだけだったはずなのに、ボンボンの来訪はいつしかコソ泥の楽しみになっていた。

 出会ってからわずか一年。だが彼と話せば話すほど孤独が薄れ、疎まれて当然の自分が人間らしく生きているように錯覚できることが嬉しかったのかも知れない。


 互いに名前を教え合うことはついぞなかった。

 後にミリアとなるコソ泥は名前というものを持っていなかったから。

 ボンボンは、軽々しく名前を言えるような立場ではなかったからだ。


 それでも良かった。

 それでも良かった……のに。


 当たり前になりつつあった毎日は唐突に終わりを告げることになる。

 ある日、ボンボンが「今日はお前との関係にケリをつけにきた」と言って現れたのだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 正直、コソ泥には生意気な貧民のガキという印象しか抱いていなかった。

 何せ敬愛する兄からの贈り物だったペンダントを勝手に盗んでいった相手だ。好きになれるわけもない。


 コソ泥がボンボンと呼ぶ彼、デズモンド・チェロニルは侯爵家の嫡男に生まれた。

 上流貴族ではあるが特別にいい家柄というほどでもなく、皇家とはそこそこ親しい程度。自分でも顔立ちは整っている方だと思うが、他の令息より一際目立ったりはしない。

 絵に描いたような平凡的な令息。そんなデズモンドが変わっているとしたら、その出自だけだろう。


 デズモンドは皇太子の異父弟である。

 元皇妃である母が、夫不在の際に夜会で出会ったチェロニル侯と過ちを犯した。元皇妃が孕った時はとんでもない大問題になったとか。

 結局は先代皇帝が元皇妃に罰を与えることをやめ、子の命に罪はないとして出産が許されて誕生したのがデズモンド。皇家からの圧力で、表向きにはデズモンド夫人の息子ということになっている。

 当然、決して外に漏れぬように秘匿され、皇族以外は知り得ない事実だったが。


 彼には婚約者がいた。

 ハリエット・ペリン公爵令嬢。亜麻色の髪が綺麗な、模範的な令嬢。橄欖石(ペリドット)の瞳はデズモンドと視線を交える度に華やぐので、彼女に恋心を向けられているのは日を見るより明らかであった。

 デズモンドとしては特にペリン公爵家令嬢に想いはなかったが、将来結ばれるのだと信じて疑っていなかったのは確かだ。


 だからコソ泥にペンダントを盗まれ、毎日のように言葉を交わすようになっても、特別な関係になろうとは思いもしなかった。

 婚約者がいる身で他の女に会いに行くのは不誠実かも知れないが、あくまでペンダントのためだ。


 デズモンドは未だにコソ泥を許していない。

 話しかけてやったのは寂しそうな彼女の心が満たされれば盗人業から足を洗ってくれるのではないかと期待したからで、打算的な関係だった。

 住む世界の違う彼女の言葉はデズモンドの胸に大きな爪痕を残したが、それはそれだ。


 ――兄からのいただきものを、よくも。


 「デズの瞳の色に似てるから」と言って、親愛の証としてもらったペンダント。

 公には兄弟ではない兄との繋がりを感じられる大切な品だったのに、貧民街につけて行ってしまったのが間違いだったと何度悔やんだことか。

 兄に話せば再び贈ってもらえそうだったが、これはデズモンドの落ち度だ。自分のやらかしは自分で始末をつけるため兄に乞うことはなかった。

 乞うておけば良かったと、それもまた後悔することになるのだが。


 デズモンドの兄は、帝国の太陽――皇帝になるために生まれてきたような人。護衛という名目で傍に居させてもらっていたくらい、デズモンドは眩い太陽に焦がれていた。


 太陽を思わせる赤い瞳に惹かれていた。

 ふにゃりとした柔らかい笑顔を見る度に嬉しくなった。

 低く心地の良い声を聞いているだけで癒された。

 正義感が強く、「真に国のためになる相手を娶りたい」と安易に婚約者を選ばない、その志を尊敬していた。

 妹を……ベラを可愛がる姿が微笑ましかった。

 異父弟で、皇族ですらない自分を弟として見てくれ、「デズ」と親しみを込めて呼んでくれる、その優しさが――好きで好きでたまらなかった。


 兄との思い出はたくさんある。二歳下ではあったが、幼馴染のようなものでもあったから。

 公には弟になれないことに不満を抱き、真の兄妹として戯れることを許されたベラを羨んだことも数知れない。

 でもそれらは全て遠い記憶だ。


 彼の血濡れた最期だけが、鮮烈に記憶に焼きついている。


 兄が十六歳、デズモンドが十四歳のある日のこと。

 兄は毒を呑まされた。


 皇家の影の中に敵国の手の者が潜んでいたらしい。そいつが兄のティーカップの中に強力な毒を仕込んだ。

 即効性ではなかったため、毒味係は気づけなかったのだろう。兄がごぼりと口から血を吐いて初めて、その場に居合わせたデズモンドもベラも異変が起きていたことを知ったのだった。


 皇太子が、帝国の太陽たる人が、こんなところで死ぬわけがない。

 死ぬわけがないと思うのに――兄の顔色はどんどん蒼くなっていた。


 兄は自分の死を悟ったのか、「しっかり生きて大往生するつもりだったんだけどなぁ。お前たちを悲しませるつもりじゃなかったのに」と小さく呟く。

 まだ九歳と幼かったベラは、普通の子供ならただ戸惑うだけのところを正確に事態を把握してしまったのだろう。力なく椅子にもたれかかる兄に必死に縋りついた。


 兄とそっくりの赤い瞳に、大粒の涙を浮かべながら。


「嫌っ、逝かないで、逝かないで兄様っ!」

「……ベラ。お前はいつも明るくて聡明で、まさしく理想の皇女だと誇らしく思ってたよ。お前の笑顔が大好きだった。だから、泣くな」


 その声はどこまでも優しくて。

 兄に抱き寄せられたベラは今度こそ泣き崩れ、デズモンドの目からも自然と涙が込み上げる。


 笑っているのは兄だけだ。一番苦しいはずの兄は、唇を鮮血で真っ赤に染め上げているのに、いつものように笑って――言う。


「こんなところで死ぬ僕を許してくれとは言わない。ごめんな、デズ」


 ――それが最期だった。

 ふっと口から息が抜け、ベラの頭を撫でていた手がずるりと滑り落ちる。輝いていた赤瞳から急速に光が失われていく様を、デズモンドはただただ見つめるしかできなかった。


 デズモンドの異父兄にして帝国の太陽たる皇太子、イーサン・ラドゥ・アーノルドは死んだ。

 呆気なく、そして覆しようのない、確かな死だった。


「にい、さま」


 ベラのか細い呟きが虚しく響いても、一言たりとも発せなかった。




 その現場を見ていた皇家の影を皆殺しにし、兄の死をなかったことにした。

 皇家の秘宝に願い、兄になり変わって偽りの皇帝となった彼は、デズモンドの姿でいつものように貧民街へと赴く。


 そこで、言ってやったのだ。


「今日はお前との関係にケリをつけにきた」


 ――と。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「今日はお前との関係にケリをつけにきた。今すぐだ。今すぐ、ペンダントを、返せ。それで俺とお前の関係は無に帰す。ムカッ腹は立つが別に謝罪は求めないし、お前の邪魔はもうしない」

「はぁ?」


 あまりに突拍子もない言葉を受けて、素っ頓狂な声を上げてしまった。

 鬼気迫る雰囲気というか冗談の類ではないことだけはわかる。わかるけれど。


「あんた、いきなりどうしたのよ」

「返せと言っている。返せ、返せよ」

「わけわかんない。落ち着きなさいってば」

「いいから返せ!! 頼む……返してくれ……」


 懇願の声はひどく掠れていて、弱々しい。

 今にも泣き出しそうなボンボンの姿に、コソ泥は息を呑んだ。


 一体何があったというのだろう。考えてみても、思い当たる節は何もなかった。


「返してなんてやんないわ。欲しかったら自分の手で奪ってみなさいって、言ったでしょ」

「……本気でお前の全身をまさぐるが、いいのか」

「やれるもんならどうぞ? もちろん抵抗はするけど」


 挑戦的に言ってみても、いつものような返答はない。

 ただぽつりと一言。


「お前の憎たらしい顔を見るのもこれで最後だ。期待した俺が馬鹿だった」


 くるりと向けられた背中はいやによそよそしく感じた。

 よそよそしく、というのは正しくないだろう。そもそもコソ泥と少年は他人でしかない。


 でも、毎日のようにこの場所で顔を合わせる仲だったはずだ。それなのに、どうして。

 何か言ってやらなければ思いながら、言葉が思い浮かばないのが悔しい。

 胸の中で荒れ狂う感情の正体もまるでわからないまま……ただただ少年の後ろ姿を見送った。


 それが、コソ泥とボンボンの別れ。

 ボンボンが貧民街に足を踏み入れることは二度となかったのだった。




 フォークロス伯の馬車がコソ泥を迎えに来たのはそれから数ヶ月後のこと。

 最初こそ警戒したが、贅沢な暮らしをさせてもらえると聞いて頷かない選択肢はなかった。


 亡き娘に似せたらしいミリアという名を与えられ、令嬢として育て上げられることしばらく。初めての依頼で社交界に入った時、あのボンボンと会えるかも知れないと思わなかったと言えば嘘になる。

 彼を思い切り引っ叩いてやろうと思っていた。「返してほしかったんでしょ、なんで諦めたのよ!」と詰め寄ってやりたかった。


 でも、ありとあらゆるパーティーに出ても、夜会へ顔を覗かせても、彼はどこにもいなくて。

 だから。


 ――わたしったら馬鹿ねぇ。もしかするとあのボンボンは、この国の人間じゃなかったのかも知れないじゃない。


 そんな風に考えて、探すのをやめにしてしまった。

 あのボンボンはミリアとさしたる関係があるわけではないから、別に固執する必要などなかった。

 たとえ胸の中に言葉にし難いしこりが残っていたとしても、目を逸らし続けていればいいだけなのだから。

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