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第十六話 夜、月の見える場所にて

「皇帝陛下。お渡ししたいものがございますの」


 ハリエット・ペリン公爵令嬢の来訪から五日ほどが過ぎた、ぼんやりとした月明かりしか差さない夜。

 ペリン公爵令嬢とベラ殿下のお茶会が行われたのと同じ場所……この城の中で最も美しい中庭にて、ミリアは一世一代の賭けに出ていた。


 ――失敗しないくらいの仕込みをしたからこそ、こんなことができるんだけど。


 自信は十二分にある。だから堂々としていられるのだ。

 これでもし緊張や不安に震えでもしてしまっていたら格好がつかなかっただろう。


「これはなんだ?」


 すっかり慣れ切った鋭い視線と冷たい声で問いかけられ、こちらも普段と変わらぬ完璧な笑みで応える。


「クッキーですわ。実はこちら、わたしの手作りですの。皇帝陛下に召し上がっていただきたく、お持ちいたしました」


 差し出したのは掌に乗せられるほど小さな包み。その中に詰まっているクッキーを見て、皇帝陛下が眉を顰めた。


「薬でも盛っているのか」

「当然お疑いになるでしょうねぇ。しかしこれに特別な効果はなんらございません。ほら」


 ほのかな甘味とほどよい塩味。味はなかなかだと思う。


 パクリと目の前で食べて見せ、ただじっと皇帝陛下を待った。

 食べるものは盗みで得ていたコソ泥時代はもちろん、令嬢や侍女になってからも料理の必要なんてなかったため、料理は全くの未経験だった。クッキーを焼くためだけに五日間かけて練習に練習を重ねた、その努力は必ず報われるはず。


「遅効性ではないという証明はできないだろうに」

「ええ、残念ながら。わたしが毒に侵され倒れるか否かを見定めるため、お持ち帰りいただいても構いませんわ? ですがどうしても受け取っていただきたいのです」

「貴女がそこまで必死とは珍しい。いいだろう、食らってやる」


 疑念を瞳に浮かべながらも、包みの中身に手を伸ばす皇帝陛下。

 彼はしばらくクッキーを味わって、やがてぽつりと一言呟いた。


「普通だな」


 クッキー自体は普通である。何の変哲もない、ただの菓子でしかない。

 だってミリアの狙いはこれからなのだから。


「わたしにとっては、特別なものでございます」

何故(なにゆえ)に?」


 淡い月光に照らされたプラチナブロンドを靡かせ、青い瞳を輝かせる。演出はばっちりだ。美しい月夜に映えてミリアの魅力が最大限引き出された瞬間だった。


「決まっていますわ。――皇帝陛下への親愛の証をこうした形で示せたのですもの!」

「なんだと」

「ですから、親愛の証でございます。この意味、尊き皇帝陛下ならおわかりいただけますわよね」


 こてんと首を傾げながら皇帝陛下を見上げる。

 これを言うために計画を遂行していたミリアの胸は、静かな興奮で満ちていた。


 やっと。本当にやっとだ。

 ここで攻めれば勝つ。皇帝陛下の初恋を、今この時、もぎ取ってやれるのだ。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 ペリン公爵令嬢の一件で、ミリアは決心した。

 今まではなるべく不審に思われない程度に抑えていたけれどやり過ぎなくらいしないとペリン公爵令嬢には敵わない。最も効果的な場面で皇帝陛下に迫ろう、と。


 ――狙いは、夜。


 いつも午後中ずっと剣を振っている皇帝陛下、彼が稽古場から出てくる時に声をかければ間違いない。

 その方が誰にも見られないだろう。ペリン公爵令嬢に目撃されれば厄介なことになるが、彼女は城での滞在期間中、昼間はベラ殿下と話し夜は早めに就寝という行動を繰り返しているのは確認済みなので大丈夫なはずだ。


 そして、まるで恋愛劇の中の一場面のような演出ができるため、月夜であるとなお良い。

 もっとも、恋愛劇なんてミリアは見たことがないのだけれど。


 用意するのは最大限美しい姿のミリア自身、そして皇帝陛下を誘う際の口実となると共に注意を引くような何か。

 美貌はどうにでもなるとして、モノの方はかなりの苦戦を強いられた。


 以前知らされた皇帝陛下の好物である甘い菓子類、それもこちらの心がこもっている……ように見える手作りが望ましいと思いついたが、生憎手作りは苦手だったのだ。

 一日の大半をミリアの傍で過ごす皇帝陛下に勘付かれてはいけないというのが一つだが、もう一つにして最大の要因は料理の腕。ベラ殿下に頼み込んで厨房を借り、初めて挑んだクッキー作りは、完成形がクッキーの体を成しておらず失敗どころではなかった。


「何よこれ……」


 もったいないのでなんとか食べたが、お世辞にも美味いとは言えなかった。

 二度目も三度目も結果は同じで、味が微妙だったり極端に焼けてしまったり生焼けだったりと失敗続きで、何度甘いものはナシでもいいかと諦めかけたことか。


 でも。


「完璧な状況を作り出すには必要なことだもの……!!」


 ペリン公爵令嬢なんぞに負けてたまるか。皇帝陛下はミリアの、ミリアだけの獲物なのだ。

 フォークロス伯からの依頼完遂のため、そしてコソ泥としての矜持というか意地のため、皇帝陛下の目を盗み、優雅に茶を啜るペリン公爵令嬢を横目にひたすらクッキーを焼き続けた。


 その間、彼女も自分の方をしきりに見ていることをミリアは感じていた。

 こちらがペリン公爵令嬢に対抗しようとしていることに気づいているからか、あるいはミリアをいつ蹴落とそうかとでも考えているのかも知れない。

 政略結婚であれば縁談が結べなければ大きな損害が出る。それを避けなければならないのがペリン公爵令嬢の立場だろう。


 しかし彼女がなんらかの行動に出るか再度の接触を図ってくることはなく、密かな睨み合いが続くばかりだった。


 そして五日目。

 十五度目の挑戦にしてそこそこの味のクッキーを作ることに成功したミリアは、いよいよ作戦を決行する。


 皇帝陛下にはすでに気に入られる段階まで来ている。

 あともう一押し。今回の行動をそのもう一押しにしてみせるのだ。

 やり方を間違えれば待つのは死のみ。しかし勝てば皇帝陛下の最愛の座を得られるというミリアの人生の中で最大と言っていい賭けだった。


「剣の稽古、お疲れ様でございました」

「どうしてお前がこの場所を知っている?」

「ベラ殿下から教えていただきましたの。今宵は月が綺麗ですので、中庭にでも赴いて眺めてみませんこと?」

「……ふん」


 かくして。

 月の見える中庭へ皇帝陛下を誘って首を縦に振らせ、クッキーを差し出したミリアはやっと、本当にやっと、攻めを仕掛けるに至れたのである。


 親愛の証。それすなわち、遠回しな皇帝陛下への告白。

 それを受けた皇帝陛下は――困惑の表情で固まってしまっていた。

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