第4話:コンビ結成!?まず服を着てください!!
甘い匂いがした。
果物の、みずみずしい匂い。皮を剥いた瞬間に立ち上る、少し青い香り。
それが喉の奥をくすぐって、次の瞬間には胸の内側まで満たしてくる。
白い花が降っている。
等間隔に並ぶ木々が、夜の闇の中で回廊みたいに伸びていた。
枝先は花で埋まり、風が吹くたび、花弁が雪のように舞って――途中で、ふっと止まり、また落ちる。
世界の時間が、現実と噛み合っていない。
リンゴ園だ、と、なぜか分かった。
理由なんてない。ただ「そうだ」と身体が知っている。
その園の中心に、ひとり立っている。
背中だけ。
けれど、背中だけで“近づいてはいけない”と分かる。
髪が長い。腰のあたりまで流れている。
闇より深い漆黒――夜そのものを纏ったみたいで、見ているだけで息が詰まる。輪郭だけが、かろうじて光に縁取られていた。
その髪の一部が、細く編まれている。
細い三つ編みが数本、束ねるでも飾るでもなく、まるで鎖の形を“正しい”と決めたみたいに、きちんと背へ落ちている。
乱れない。乱れてはいけない、とでも言うように。
頭上には小さなティアラ――あるいは、薄いヴェールの縁が、ほのかにきらめいていた。
派手じゃないのに、視線がそこから離れない。王冠の重さだけが、静かに空気を押さえつけている。
白い花弁が、彼女の髪に降り積もる。
光をも飲み込む漆黒の髪の上で、花の白がやけに眩しい。
白は汚れないまま、黒は隠れないまま。対比が、美しすぎて胸が痛んだ。
近づこうとした。
足を動かす前に、膝の裏がひゅっと冷える。
怖いんじゃない。
――許されていない。
その感覚が、骨の奥に直接触れてくる。
彼女が、わずかに動いた。
肩が揺れ、ヴェールの端が息をする。
髪がさらりと流れ、背中に積もっていた花弁が、ひとつ、ふわりと滑り落ちた。
振り返る。
ほんの少しだけ、こちらへ向く気配。
顔が見える――そう思った刹那。
髪の艶だけが、黄金のように光った。
漆黒の髪の表面に、薄い金が走る。
まるで実が熟れる瞬間だけを切り取ったみたいに、甘く、冷たく、王冠みたいな光。
“園の主”だと、理屈じゃなく身体が理解してしまう。
次の瞬間、視界が白で満ちた。
花弁が一斉に舞い上がったのか、僕の意識が落ちたのか分からない。
ただ最後に残ったのは、黄金の艶と、白い花の匂いだけだった。
――そして。
耳の奥で、あの音が鳴る。
ピロン。
スマホなんて見ていないのに、通知音だけが“脳”を叩く。
見えない文字が、白い空間の奥で滲む。
『次は――』
そこで、世界が反転した。
◇
温かい。
そして、ふかふかだ。
ゆっくりと瞼を開ける。そこにあったのは見慣れない天井だった。
僕にかけられていた布団も、覚えのない香りがする。
息を吸う。
熱くない。なのに、肺が一瞬だけひゅっと縮む。
火の記憶が、まだ身体のどこかに残っている。
治っても、痛みの“形”だけは消えないみたいに。
辺りを見渡す。
床に置かれたサンドバッグ。ダンベル。懸垂バー。作業机とデスクトップ。
まるで筋トレ好きの男子大学生の部屋――そんな空気。
「ここは……一体……」
頭がぐるぐるして状況が理解できない。
どうして見知らぬ部屋の布団の上で寝ていたのか。まったくもって覚えがない。
放心状態でぼーっとしていると、すぐ近くの扉がガチャリと開かれた。
そしてそこに立っていたのは――裸の女性。
……裸の、桐生凛だった。
「……え」
一拍。
脳が理解するより先に、目が“現実”を拾ってしまう。
湯気の匂い。濡れた髪。鍛えた身体の輪郭。
強い人の体温が、そのまま形になったみたいな存在感。
視線が、下へ滑る。
上へ戻る。
ダメだ、見てる。見てしまってる。
「って、いやいやだめだあああああ!!」
即座に掛け布団を頭からかぶって絶叫した。
「えっ!? ちょ、なに!? どうしたの!?」
布団の中で心臓が暴れる。
……そうだ。全部を思い出した。
僕は気絶して、凛さんに運ばれて――たぶん、この部屋で寝かせてもらってたんだ。
「えーっと……怪我は大丈夫かな?」
凛さんの優しい声が布団越しに聞いてくる。
すぐそばだ。しゃがみ込んで、布団の前から話してる。
残念ながら僕には、こういう状況を楽しめるほどの度胸は無い。
急いで、たぶん凛さんが一番勘違いしそうなことを訂正する。
「あ、あの! お姉さん!」
「うん? どうしたのかな?」
「ご、ごめんなさい! ぼ、ぼぼ、僕! 男なんです! 男子高校生!!」
言った。言ったぞ。
可愛い女の子の姿になってしまっただけの男子高校生。そうです僕が変態です。殴るなら殴ってください。
……と思ったが、意外にも凛さんは冷静だった。
「でも、服脱がせるときに見たけど、付いてなかったよ?」
「そ、それはその……なんか……今日、気が付いたら女の子になっちゃってて……」
信じてもらえなくてもいい。
でも、嘘はつきたくなかった。だから真実を、そのまま話す。
「て、ていうか! ぬ、脱がせたんですか!? なにゆえに!?」
「そりゃ、あんなどろどろの服で寝かせらんないもん。大きいけど、私の服で許してね」
そっか。
ギフトのおかげで服は破れたり焼けたりはしてないけど、僕の服は元から砂で汚れてたんだ。
布団の中で自分の身体を見る。
オーバーサイズのTシャツが着せられていた。真ん中にどでかく「酒」と書かれている。
「そ、そうでしたか……お手数かけしました……」
「でも待ってね。……それじゃあ、あのすごい力も最近現れたってこと?」
「最近っていうか。今日、初めてです。お姉さんを追いかけてダンジョンに入った瞬間、目の前が真っ暗になって……」
僕は今日のことを話した。
いじめのことだけは、飲み込んだ。
飲み込んだせいで、喉の奥だけが苦い。
「そっか……君、すごいよ、それ」
声の温度が少し上がる。
「それはギフトって言ってね、少しの人しか持ってない特別な力。君はそれを今日手に入れたんだよ」
「それで折り入って相談が――」
「あの! ちょっと待ってください……!」
僕は慌てて止めた。
「とりあえず服着てください! お姉さんのこと見れません!」
「ああそっか! ごめんごめん! ちょっと待っててね!」
ばたばたと物音。遠ざかる気配。
布団の中でようやく息を吐く。
……なのに、耳の奥が、また変にざわついた。
ピロン。
幻聴じゃない。
今、確かに――スマホの通知音がした。
(……お姉さんのスマホ?)
でも、布団の中からじゃ見えない。
そして、僕は“見ない方がいい”と、なぜか本能で思った。
また扉が開く音。
「よし、着た! もう大丈夫!」
布団を少しずらして確認する。
凛さんはTシャツと短パン姿になっていて、さっきの破壊力は消えていた。……助かった。
凛さんは布団を端に寄せ、カーペットの上に座る。
僕はゲーミングチェアに座らされた。
ようやく、まともに視線が合う。
そして嫌でも分かる。僕――身長、めっちゃ縮んでる。
「それじゃあ改めて! あたしは桐生凛。今は大学三年生で、ダンジョン配信者やってます!」
「大学三年生? あれ、でもセーラー服……着てな――着てませんでしたか?」
「あれはコスプレよ。ああいう個性がある方が配信者は人気が出るの」
自信満々に言い切る顔が、妙に眩しい。
「それで、君の名前は?」
「……す、鈴木……」
凛さんはうんうんと笑顔で頷く。
「鈴木祈里です……」
「祈里くんか! よろしくね!!」
そう言って凛さんは無理やり僕の手を掴んで、ぶんぶん振り回した。
「でも私がフェンスよじ登るところ、見てた……か。まあ確かに、地味めなやつが見てた気がする」
「地味めって!? ……まあ否定はできませんけど」
悔しいが、地味なのは事実だ。否定のしようがない。
というか凛さんに比べたら、大体の人は地味に見えてしまうだろう。
「それでさ、折り入って相談してもいいかな?」
相談? 僕に?
頭の上にはてなが浮かぶ。
凛さんは床に雑に置かれていた、ひびだらけのスマホを手に取ると、画面をこちらに向けた。
動画サイト――YouTube。
そこに映っていたのは、僕だった。
今日のダンジョン。燃えて、治って、走って、笑って――凛さんが槍みたいに道路標識を落とすところまで、全部ばっちり。
そして数字。
再生数がものすごい勢いで増えていっている。それもリアルタイムで。
凛さんが更新ボタンを押せば、見る見るうちに高評価もコメントも増えていく。
「今日のダンジョン配信のアーカイブ」
「いつの間に撮ってたんですか……しかもこんないいアングルから……」
「これ、勝手に空飛んで撮影してくれるの。あたしの秘密アイテムの一つよ」
凛さんは得意げに言って、スマホを僕の顔の近くまで寄せる。
……コメント欄が、雪崩みたいに流れていた。
『女神キタコレ!!』
『白髪の子誰!?』
『回復えぐ』
『痛がりながら立ってるの刺さる』
『今日はこれでいいや』
僕の、この姿の僕についての言葉ばかり。
褒められるのなんて久しぶりで、刺激が強すぎて、頬が勝手に熱くなる。
――その流れの中で。
ひとつだけ、異物が混ざる。
【視聴者:???】『見ている』
背筋が、ぞわりとした。
凛さんは気づいていない。
いや、気づいているのに、気づかないふりをしているのか。
「どう! すごいでしょ!」
「は、はい……こんな褒められたの、初めてです……」
「それでさ。折り入っての相談ってわけ」
凛さんはスマホの電源をぽちっと切ると、真面目な顔で僕の目を見つめてくる。
温度が変わる。空気が締まる。
「あたしとコンビを組んでほしい」
「コン……ビ?」
「そう。一緒にダンジョン配信をやってほしい」
凛さんの瞳は、今日で一番真剣に見えた。
ドラゴンと対峙しているときより、さらに。
「あたし、夢があるの。登録者千万人以上になって、最強のダンジョン配信者――ぴかぴかきんきんさんを超えたい」
「……それは、どうして」
「……」
凛さんは黙ってしまう。
一度うつむいて、少しだけ唇を噛んだ。
「えっと……話しにくいことなら……」
そう言いかけた時、凛さんが顔を上げた。
「お金のため。あたしはお金を稼ぎたい。たくさん。使い切れないぐらいの」
俗っぽい。
でも、瞳が澄んでいる。
フェンスを飛び越えた時の、あの“前しか見てない目”だ。
「でも……僕なんかが手伝ったって……」
「これ見て」
凛さんは過去のアーカイブを見せてきた。
視聴回数は多いもので十五回。いいねはゼロ。
「これまでのあたしの配信。こんなに再生数が伸びたの、初めてなの。だから……」
言葉が詰まる。
僕は待つ。
凛さんが、“自分の夢”を口にするまで。
そして凛さんは、すっと立ち上がり、僕に手を差し伸べた。
「君となら、てっぺん取れる。だから力を貸して!」
僕も……初めてだ。
ここまで誰かに求められるなんて。
この体はギフト。貰い物に過ぎない。
本来の自分の力じゃ決してない。
それでも――。
「……よろしく、お願いします」
僕は凛さんの手を取ってしまった。
凛さんはぎゅっと、優しく――でも力強く握り返してくれた。
「よろしく! 相棒!」
「は、はい……相棒……」
相棒という響きは、くすぐったい。
「ところで祈里くん、お家には連絡しなくて大丈夫なの? もう夜の十一時だけど」
「え!? 十一時!? ……でも……」
言葉が詰まる。
こんな体で帰っても、僕だって信じてもらえない。
「そっか。それじゃあおうちの電話番号だけ教えて」
「はい……それぐらいなら……」
凛さんは電話番号を聞くと、部活の合宿だとかなんだとか適当に言い訳をつけて、数日は帰れなくなると家族に伝えてくれた。
「ごめんなさい……なにからなにまで」
「まあ仕方ないよ。いろんなギフトがあるとは教授から聞いたことあるけど、身体が……まして性別まで変わるなんて初めて聞いたし」
「……そう、ですか」
不覚にも暗い顔になってしまった。
――戻れないかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥が冷える。
凛さんは僕の頭にぽんと手を置いた。
「うちの大学の教授、ダンジョン研究やってんだよね。その一環でギフトについても。祈里くん、その体じゃどうせ高校にも行けないでしょ。だから明日、一緒に教授んとこ行ってみよ」
笑顔だった。
僕の不安を大きくしないための笑顔。
嬉しい。落ち着く。
でも、男子高校生としての反抗心も芽生える。
「ぼ、僕、高校生……それも男ですからね!」
「わーってる、わーってる」
凛さんは意にも返さず、僕の頭を優しく撫でた。
その後、シャワーを使わせてもらって汗を流し、凛さんは布団へ。
僕はゲーミングチェアを倒して床と平行にして眠りについた。
ゲーミングチェアは、僕の中の男の意地が勝ち取った戦利品だ。
女の子を椅子で寝かせちゃいけない――と頑張って勝ち取った、戦利品。戦利場所。
……まあ、女の子は布団で寝てるんだけど。
部屋の灯りが落ちる。
暗闇が広がる。
その時。
ピロン。
ひび割れたスマホが、勝手に光った。
凛さんの方だ。
「……は?」
凛さんが、布団の中から半身を起こす気配。
画面を見た瞬間、空気が変わった。
僕も、息を止める。
表示された差出人は――見覚えのある、空白みたいな名前だった。
【新着メッセージ:???】
『白い花の園で、次を告げる』
喉がひゅっと縮む。
あの匂い。
あの黄金の艶。
あの“許されていない”感覚。
夢じゃない。
さっきの“園”は、ただの夢じゃない。
凛さんが、暗闇の中でこちらを見る。冗談じゃない目で。
「……祈里くん。これ、君のギフトと関係あるよね」
答えは出ない。
言葉の代わりに、耳の奥だけが妙に冷たい。
ピロン。
もう一度、鳴った気がした。
それはスマホじゃない。
僕の“中”で鳴っている。
見られている。
ずっと。最初から。
白い花の匂いだけが、なぜか消えなかった。




