第31話:みんなのいのりちゃん
翌日、僕は凛さんの家に来ていた。
休日ということもあり、朝から僕はキッチンで料理を続けている。
例の――幼児退行したときの凛さんとの約束だ。本人はもう覚えていないようだが、それでも極力、凛さんの家に泊まる日を増やそうと、二日に一回はここに来るようにしている。
凛さんの部屋は、相変わらず“必要最低限”だけが揃った狭いアパートだ。
窓から入る午前の光が、シンクの水滴に小さく反射している。換気扇が回る低い音。まな板に包丁が当たる「トン、トン」という規則的なリズム。フライパンからは、油が立つ香りと、ほんのり甘い醤油の匂いが漂っていた。
一方の凛さんは、デスクトップパソコンに向かってかれこれ数時間。論文を書いているらしい。キーボードを叩く乾いた音と、PCファンの唸りだけが、部屋の“静けさ”を保っていた。
「……っくぅ……あぁ、ひとだんらく」
凛さんの声。どうやら執筆に一区切りついたようだ。椅子から身体を浮かせ、背筋を伸ばす。関節がぽきぽき鳴る音まで聞こえてくる。
「お疲れ様です。そろそろお昼にしますか?」
「ああ、そうしよう。……というか」
どてどて、という足音が近づいてくる。
振り返ると、凛さんが壁にもたれてこちらを見ていた。寝不足気味の目なのに、妙に鋭い。
「朝からずっと、何を作ってるんだ?」
「ごはんですよ?」
「それは見れば分かる……」
凛さんの視線は、包丁を持って動き続ける僕の右手から、コンロ脇に並んだ大量のタッパーへ移る。まるで、そこに小さな軍隊でも詰まっているみたいに整然としている。
「作り置きです。明日明後日は時間がないし、明々後日からは僕、数日間遠出するので。そのために一週間分くらい――冷凍庫に入れておこうかと。……あ、凛さん辛いのいけますか?」
会話をしながらも、手は止めない。今は麻婆茄子を作っている最中だ。茄子が油を吸って、表面がつやつやしてくる。
「辛いのは、そこまでだな……というか最近のお前、ほとんど通い妻じゃないか?」
「それじゃ甘くしますね。あと、これに関しては凛さんが……」
一瞬、「凛さんが寂しいって泣きついてきたから」と本当のことを言いそうになった。
でも、それは全力で隠してあげることにしたのだ。あれを知って平常心でいられる人間が、この世に存在しないことくらい、僕にだって分かる。
「凛さんが……生活力皆無だからです。ご飯はしっかりバランスよく食べてください、って言いましたよね」
横目で睨むと、凛さんはバツが悪そうな顔をして、ごまかすような笑みを浮かべながら奥のデスクへ戻っていった。
「あと掃除と洗濯、それに郵便受けだってチラシでいっぱいだったじゃ――」
「い、祈里! 今日のお昼は外にしないか? あたしが奢ろう」
追い打ちをかけると、こうやってすぐ話を逸らそうとしてくる。
まあ、話を逸らしたのは僕も同じだ。
通い妻云々を困った顔で言っているのに、内心どこか嬉しそうなのが分かってしまうのは――僕が、凛さんのことを見過ぎているせいだろう。
「ナンがいいです」
「了解。それじゃあ支度を――……ちょっと待て!? 数日空けるってどういうことだ?」
「今ですか……」
数分遅れで凛さんがツッコんできた。慌てた様子で、手に持ちかけた財布もぽろっと落ちる。
「えっと、道中話すので。移動しちゃいましょう?」
「いや移動しちゃいましょうじゃなくて!」
そんなこんなで、とりあえず僕と凛さんは家を出た。
外に出ると、午前の空気が少しだけひんやりしていた。アパートの階段を降りるだけで、凛さんの肩が「ぐき」と鳴るのが分かる。……本当に、研究とダンジョンのこと以外は、だいたいガタガタだ。
家の近くのカレー屋さんまでは徒歩で数分。この話をするにも、ちょうどいい距離だった。
だからこそ、そわそわしている凛さんに、歩き出してすぐ話した。
「実は、友達から部活のマネージャーとして、ゴールデンウィークの間の初合宿について来てくれないかって言われまして。それで千葉の白子ってとこに、四泊五日で行くことになったんです」
“合宿”と聞いた瞬間、凛さんの肩の力が目に見えて抜けた。
さっきまで張りつめていたのが、ふっとほどける。
「白子……ってことはテニス部か。近くに海があって綺麗だろうし、楽しんでおいで」
「びっくりしました。なんでテニス部って分かったんですか?」
「そりゃあ、白子はテニス合宿の聖地だからな。……まあ、知り合いにテニス好きがいるんだよ」
そういうことか、と納得する。
凛さんの表情は、まるで昔を思い出しているみたいに、どこか懐かしそうだった。
そして、ちょうど商店街に入る。昼前の商店街は、妙に元気だ。野菜の青臭い匂い、揚げ物の香り、遠くから聞こえる呼び込みの声。アーケードの天井を叩くスニーカーの音が、軽く反響する。
たしかここには、チーズナンが食べ放題のインドカレー屋さんがあったはずだ。おそらく目的はそこだろう。なにせ凛さんのお気に入りのお店だから。
「おっ! いのりちゃんじゃん! 今日もエプロンが似合ってて、かわいいねえ!」
商店街に入ると、いきなり横から声をかけられる。もう東京じゃ絶滅危惧種になりつつある八百屋のおじさん――田滝さんだ。
「こんにちは、田滝さん! ……っと」
一度、凛さんの方を見る。凛さんは無言で一度頷いてくれる。行っても良い、という合図だ。
僕は八百屋さんの方へ行き、軽い雑談を終えると、走って凛さんの元へ戻ってきた。手にはおすそ分けで頂いた大量の玉ねぎを抱えて。
「おかえり、いの――」
「あら~ いのりちゃんじゃない」
戻ってきた瞬間、今度は少し先の肉屋さんから手を振られてしまう。あっちは肉屋のおばちゃん、倉武さんだ。
凛さんはまた無言で頷いてくれて、次は肉屋へ。
ようやく凛さんの元へ戻っても、少し歩けばまた商店街の誰かに声をかけられて、まったく目的地に到着できない。
「ちょ、ちょっと、いのりちゃん。もしかして、あそこにいるのが例の?」
「はい。同居人の凛さんです」
「ちょっともう、なによなによ。おばちゃん、そういうのには寛大なのよ! 応援しちゃう!!」
文房具屋のおばちゃんが頬を赤らめながら、背中をバンバン叩いてくる。地味に痛い。
「もう、そういうのじゃないですよ!!」
そう言って、今度は最近おばちゃんがハマってるらしいお煎餅を手に、凛さんの元へ。
すると凛さんも、通りすがりのおばあちゃんに絡まれているようだった。
「あんたぁ、いのりちゃんのお姉さんかい?」
「……まあ、はい。そんなところです」
「そうかい。いのりちゃんにはほんとに助けてもらっててねえ」
「祈里が?」
「あの子が来るまで、こんなとこ、死にぞこないの溜まり場みたいになっとったんよ。でもね、あの子が来てから――“エプロンの女神様が住む商店街”って言われ始めてねえ。最近は大繁盛なんだよお」
ようやく到着。電気屋のおばあちゃん――轟さんと凛さんの間に入る。
「ちょ、轟さん! 杖なしで外出たら危ないって、前に娘さんが言ってたじゃん!」
「うるさいガキじゃの! わしを老人扱いするんじゃないわい!!」
轟さんは僕を怒鳴りつけると、すぐ電気屋の中へ戻っていった。
そして気づいた。
いつの間にか凛さんの腕は、僕がもらってきた食べ物や野菜で埋め尽くされている。片腕だけ、祭りの戦利品みたいだ。
「人気者だな」
そう言う凛さんの顔は、どこか嬉しそうで、どこか誇らしげでもある。
「そんなことないですよ。皆さんが、すっごくいい人なだけで」
ようやく進み出せて、凛さんと歩き出す。
「ここに来たばかりの時、僕、一回迷子になっちゃったんです。その時この商店街の人たちが助けてくれて。それ以来、スーパーじゃなくてここを使ってたら、いつの間にか顔を覚えられちゃって」
迷子のことはずっと隠していた。だって恥ずかしいから。高校生にもなって迷子になって、まさか泣きそうになるなんて思わなかった。
この体、色々と液体が漏れやすくて本当に困る。
「その……ごめんなさい。持ってもらっちゃって」
「構わんよ。君はあたしのものなんだろ。だったら、お前のものはあたしのものだ」
凛さんは、器用に食材の袋を片手にまとめると、空いた手で僕の頭を撫でてきた。
周りから向けられる温かい視線が、やけに恥ずかしい。
そしてもちろん、カレー屋さんでも同じだった。
店に入ると、焼けたチーズとスパイスの香りが一気に鼻を突く。タンドールの熱気。壁に貼られたメニュー。忙しそうに動く店員さんたち。席は満席で、店内はざわざわしているのに、どこか居心地がいい。
店主のおじさんが、なんとおまけでマンゴーラッシーを出してくれた。
「イノリチャンはね、前に昼間っから酔っぱらってぶっ倒れてたあたしを助けてくれたヨ。だから実質、ファミリーよ!」
そう言ってラッシーだけ置き、すぐ厨房へ戻っていく。忙しすぎて、会話の余韻すら置いていかない。
「いろんな人を助けてあげてるようだな。荷物運びから、一緒に猫を探したり、店番から道案内まで」
凛さんが、にこにこしながら頭を撫でてくる。
「んな!? どこでその話を?」
「君を待ってる間、いろんな人が話しかけてくれたよ。たまには頑張ってる君のことを労ってやれ、ってな。久々に説教をされた」
凛さんの撫で方が、さらに強くなる。怒っているというより――愛しいものを撫で回したくて抑えきれない、みたいな感じだ。犬や猫をぐしゃぐしゃ撫でまわす人、たまにいるけど、あれだ。
「ご、ごめんなさい。多分……迷惑……でしたよね」
凛さんは手を止め、ゆっくり首を横に振った。
「いいや。それに、君へのプレゼントは前々から考えていたんだ」
驚いた。凛さんからは、そんなそぶりは一切なかったから。
「それでなんだが――今度。君が合宿から帰ってきたら、千代田区の第1エリアダンジョンに行こう」
ダンジョン。
その言葉だけで、目が輝いてしまう。怖い目にも遭ってきたのに、やっぱり僕はダンジョンに魅入られているらしい。
「でも……まきまきから、当分はダンジョンに行くのは……」
凛さんは、人差し指で僕の言葉を遮る。
「千代田区第1エリアは世界最大級のダンジョンでな。地下へ何層にも続いている大迷宮だ。予想では百層まで続いているとも言われてる。現在、第六層までは攻略済み。……そして」
凛さんは得意げに、指を二本立てた。
「第二層までは、人が住んでいる“生活区画”になっている」
「……どういうことですか? ダンジョンって基本、進入禁止のはずじゃ……」
それにギフトがなきゃ原則進入禁止でもある。
学校で習ったのは、“約五十年前にダンジョンが発生した”とか、せいぜいそれくらいだ。こんな話、教科書には載っていない。
「表向きには進入禁止。だけどダンジョンの中じゃ、地上の法律は通らない。だから暴れたら、当然、国に鎮圧される。拘束される。最悪、殺される。……でも逆に、ひっそり生活して、攻略の妨げにならない――むしろ協力している連中は、暗黙の了解で見逃されてる」
「……そんなの、知らない……」
「知らされないようにしてるんだろうな。余計な好奇心を呼ぶから」
凛さんは淡々としていた。でも、その“淡々”が逆に、真実味を増していた。
「つまり、第二層までは絶対に安全。そういうことですか?」
「そういうこと。想像してるみたいな“ファンタジー”が広がってるぞ。まあ、まきまきに許可を取らなきゃいけないのはそうなんだが……君が帰ってくるまでには、関西から戻ってきてるさ」
でも、そのダンジョンと“プレゼント”にどんな関係があるのだろう。
旅行がプレゼント、みたいな――そんな疑問を見越したみたいに、凛さんが続ける。
「第二層に、ダンジョン産の鉱石を使った武具店がある。今後探索するなら、武器の一つは必要になる。どうだ?」
「……!」
答えは分かってるだろうに、凛さんはいやらしくにやりと笑う。
「そんなん欲しいに決まってるじゃないですか! 男だったら誰だって憧れますよ! ファンタジー! 武器!!」
「それじゃあ決定だな。そのためにも合宿を頑張ってこいよ。まあ、祈里が特段何かするわけでもないんだろうけどさ」
「……うっ。言い方ぁ……」
そこからは、どんな武器があるのかを聞いたりしながら、カレーを楽しんだ。
僕も頑張ってナンを一枚おかわりした――その間に凛さんは十枚平らげていた。人間の胃袋の容量じゃない。
そんなこんなで。
合宿が、目前まで近づいてくるのである。




