第1話
「おはよう、フェイク」
不意に名前を呼ばれ、ぼんやりとした意識が覚醒していく。
目を開けると、そこには俺の名前を呼んだ人――アリシアがいた。
優しい微笑を浮かべていた彼女に、俺は僅かな戸惑いを覚える。
だってここは俺の部屋だからだ。俺たちは婚約関係こそあるが、一緒の部屋で寝るとか……そんな関係にはまだなっていない。
俺は困惑しながらも目をこすり、そちらをじっと見た。
「どうしたんだアリシア? 何か用事でもあるのか?」
寝坊したのかと思い、窓の外へと視線をやる。
だが、太陽はまだそれほど高くはない位置だ。
時間的にも、まだ五時かそのくらいではないだろうか?
確かに昔の俺ならばすでに起床し、仕事を開始していた時間ではあったが、この屋敷に来てからというもの、俺はすっかり普通の人のような生活スタイルに変化していた。
俺の問いかけに、アリシアは頬をかく。その困ったような表情から、何か用事があるんだな、というのは分かった。
「ちょっとお父さんが呼んでるみたいだから。私、ちょうど手が空いていたから呼びに来たんだ」
「そうなんだ。それならすぐ行かないとな」
「ごめんね。気持ち良く眠っていたところだったのに」
「そんなこと気にしないでくれ」
俺にとって大事なのはアリシアとの関係だ。せっかく手に入れた彼女との婚約関係。それを失うわけにはいかない。
貴族の婚約は、平民程自由ではない。親の采配によって決まることが多い。
つまり、アリシアの父……ゴーラル様とはできる限り良好な関係を維持する必要がある。
ゴーラル様の機嫌を損ねないよう、俺は立ち回る必要があるのだ。
俺が席を立ち、寝巻から服を着替えようとしたところでアリシアが俺の肩を叩いた。
「まって、フェイク。寝癖が酷い」
「え? あっ、本当だ」
部屋に備え付けられていた鏡の前に立ち、確かめてすぐに分かった。
……急いで行かないといけないが、寝癖のままゴーラル様と会うなんてのは言語道断だ。
「身だしなみもきちんとできない男と娘は結婚させん!」と言われる可能性だってある。
「ふふ、凄い髪」
「……笑わないでくれよ。うわ、ダメだ……全然直らなそうだ」
手で押さえて隠そうとしてみるけど、まったくもって効果がない。
俺のそんな動きを見ていたアリシアが、ポケットから一つの櫛を取り出した。
「そんな力技じゃちゃんと直らないし、変な癖がついちゃう。直すから、こっち座って」
「でも、ゴーラル様も待ってるし……そんなに時間かけられないだろ?」
「大丈夫。一時間後までに来てくれって言っていたから。たぶん、朝の身支度を整える時間まで含めてのものだから。むしろ、ちゃんとしないと」
そうだったのか。それなら確かに髪を整えて、着替える時間も十分に確保できるだろう。
俺は鏡の前に置かれていた椅子を引き、そこに座った。
鏡の前には洗面用の桶もある。中にはすでにお湯が準備されている。
「さっき頼んで用意してもらっておいた」
「……準備がいいな」
「ベッド見たら、凄い髪の人がいたから」
……もしかして、わりとじっくり観察されていたのだろうか?
微笑むアリシアに、俺は苦笑を返してから鏡を改めて見る。
確かに、凄い髪型だ。
俺がアリシアから櫛を借りようとすると、鏡の中に映る彼女は首を横に振り、俺の髪へと手を伸ばしてきた。
「私がやる」
「……いや、でも。このくらい自分でできるし」
わざわざアリシアの手を煩わせるのも悪いと思った俺がそういうと、
「貴族の妻として……旦那の身だしなみを整えるのも仕事の一つ、だから」
汚れ一つない美しい肌を朱色に染めながら、アリシアは俺の髪を優しく撫でてきた。
彼女の言葉に、俺は恥ずかしさと嬉しさで同じように頬が赤くなってしまう。
それ以上何かいうこともできずにいると、アリシアが頬をつんと触れてきた。
仄かな温度はあるが、どちらかといえばひんやりとしたアリシアの指に俺はびくっと背筋が伸びる。
「な、なんだよいきなり」
「ふふ、フェイク頬が赤くなってる」
俺は振り返り、じっとアリシアを見る。
からかうように微笑みながらも、彼女だってまだ頬に赤みは残っているんだ。
俺は反抗するように腕を上げ、彼女の頬をつついた。
「ひゃ!?」




