第43話「裸兎と割れ氷」
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平間と壱子が紬に案内された先は、不気味に広大な一室だった。
部屋には家財がほとんど無く、がらんとした室内には両脇に点々と燭台が設置されている。
平時ならばともかく、今の平間たちには禍々しくみえる。
暗がりのために、こちらからは部屋の奥は見えないが、何やら囁き合うような声が聞こえる気もした。
部屋の入口で、壱子は半歩前に立つ紬を見上げ、言った。
「紬、水臥小路惟人はどこにいる」
「奥に。お進みを」
「不穏な気配じゃな。伏兵でもおるのか?」
「いると分かっている兵を”伏兵”とは呼ばないのでは?」
紬がおどけてみせると、壱子はふっと緊張をゆるめる。
そして、紬の胸元に目を向けて言った。
「私の贈った短刀ではないか。二本とも差してくれているとは、嬉しいな。重かろうに」
「大した重さではありません。これから壱子さまの身に振りかかることを考えれば」
「驚いた、まるで私の心配をしてくれているかのような物言いじゃ」
「主に自分の心配ですよ。まあ……少しくらいは壱子さまの身も案じてあげます」
「ふふ、そうか」
小さく吹き出す壱子に、紬は怪訝そうに眉根を寄せる。
「……何がおかしいのです?」
「いやなに、前にお主が言っていたのを思い出したのじゃ。『平間のことも、私のことも、好きだ』と」
壱子が言うと、紬は嬉しいような苦しいような、複雑な表情を見せた。
それとは対照的に、壱子はにこやかに続ける。
「安心せよ。お主は良き友じゃ。私も、お主のことが好きだぞ」
壱子の表情は穏やかで、この場にはまるで相応しくない。
まさか、と思い、平間の胸はざわついた。
紬が言うには敵の兵士が潜んでいるという。
それを隠す必要が無いほど、圧倒的な人数なのだろう。
しかしこちらは少数だから、武力による勝算はごくごく薄い。
そして、相手は私兵を抱え、近衛府を掌握している左大臣だ。
帝も玄風も所在不明のこの状況では、水臥小路が皇国での最高権力者であるといえる。
壱子も「水臥小路の秘密」を握ってはいるが、舌戦を挑んでも武力で口を封じられれば一溜まりもない。
そのような状況で、なぜ壱子は平静でいられるのだろう。
平間には、その答えが一つしか思い浮かばなかった。
壱子は、死ぬつもりなのではないか。
この数日間、か細い壱子の身には、多くの辛い出来事が降りかかった。
もともと他人を蹴落とすことに慣れていない壱子にとって、詩織など敵対する人間を攻撃しなければならなかったことは、多大な心労だったに違いない。
その結果、彼女の心がぽっきりと折れてしまっていても、何ら不思議ではなかった。
となると、詩織による殺人を明らかにしたのも、松月を想いやる伊織のためなのではないか。
そして、すべき事が終わった今、水臥小路の手に掛かって命を終えようとしているのではないか。
だから紬にも優しい言葉をかけ、良き最期を演出しようとしている……。
そう、平間には思えてならなかった。
「そんな怖い顔をするでない」
そう言って、壱子はジッと平間の目を見つめる。
その澄んだ瞳に心の中を見透かされたような気がして、平間は驚く。
が、壱子はなおも穏やかに言った。
「お主はどんな時でも、私を守ってくれた。そんなお主に、私は全幅の信頼を置いておる。ゆえに、お主も私を信じてくれても良かろう」
はにかむ壱子に、平間はハッとした。
自分としたことが、何と言うことだろう。
平間の目の前にいる少女は、他でもない佐田壱子なのだ。
誰よりも可憐で、聡明で、そして芯が強い。
その壱子が、半ば自害のような真似をするはずがない。
そんなことにも気が付けないとは……平間は大いに自分の浅慮を恥じた。
「では、行こうか」
燭台の灯りに瞳を爛と輝かせ、壱子は歩き出す。
部屋の奥に近づくにつれ、囁く声がはっきりと聞こえるようになってくる。
そこには、七人の男たちが腰を下ろして、何かを話し合っていた。
「佐田壱子さまを、お連れしました」
紬が言うと、男たちは一斉にこちらへ振り向いた。
平間は、部屋の最奥、すなわち上座に水臥小路惟人が鎮座していることに気付く。
他の六人の男たちは知らない顔だったが、着物に施された|家紋$三日月と曼珠沙華。$の刺繍から、彼らも水臥小路家の人間であることがわかった。
水臥小路家の一族以外にも、部屋の壁沿いには十名余の兵士の姿があった。
彼らは鎧こそ身につけていなかったが、いずれも屈強そうで、武器を携えていた。
一族のうち一人が、眉間にしわを寄せ、壱子に怒鳴るように言う。
「なぜ佐田の姫がここにいる!? この者は陛下殺害を企てた大罪人だろう!」
語気を強める相手だったが、壱子は涼しい顔で言った。
「これは左大臣の弟君。久しいのう。以前より肥えたようじゃが……姪御に懸想する悪い癖は、もう治されたのかな?」
「なっ……何をわけの分からぬことを!」
「分からなければ結構。しかし貴族の世界は狭いゆえ、どんなことでもすぐに噂になる。それに、私は少々耳聡い性質でな? ……もし都合の悪い噂を一族に言いふらされたくなくば、少し黙っていてもらおうか」
壱子が冷たく睨みつけると、男は赤面して大人しくなる。
平間はちらりと紬に目を向ける。
すると、視線に気付いた紬は慌てて首を横に振った。
……どうやら、彼女が吹き込んだ情報ではないらしい。
誰も口を開かないのを確認すると、壱子は水臥小路惟人に目を向ける。
「左大臣殿、一体何のお話をしておられたのかな。もしや、次の右大臣を誰にするか、相談していたのじゃろうか」
「いいえ。別の話ですよ。ですが……いずれその話もしなければ、とは思っていました」
そう言って、水臥小路は余裕たっぷりに笑ってみせる。
見るからに、壱子を舐め腐っている表情だ。
しかしそれも当然だろう、いくら壱子に理があろうとも、状況は完全に水臥小路に有利なのだから。
壱子が黙っていると、さらに水臥小路は続ける。
「ですが、貴女がここに来てくれて好都合でした」
「捕らえる手間が省けるからか?」
「それもありますが、最も大きな理由は『貴女の希望を直接訊けるから』です」
「ほう……? 話が見えぬが」
壱子が声を潜めると、水臥小路はひどく下卑た笑みを浮かべる。
「いくら貴女が大罪人であっても、うら若き姫を死罪とするのは忍びない、という結論に達しました。しかし、男子のように僧籍に入れるというのも難しい。そこで、貴女には我々のうち誰かの妻となっていただきたいのです」
「……で、その者が次の右大臣になると?」
「察しが良くて助かります。不幸にも当家は嫡流の男児に恵まれませんでした。一人いましたが、不出来な上に夭折する有り様でね。他にも|落胤$らくいん。貴人が身分の低い女性に産ませた子供のこと。落とし子とも。$ならば多くいますが……やはり家格は守られねばなりません」
不愉快に顔を歪ませる水臥小路に、壱子は吐き捨てるように言う。
「つまり、誰の妻となるか選べ、と言いたいのか」
「ええ、一応は希望を聞いておきますよ。まあ、希望通りになるかは分かりませんが。ああ、もし望まれるのなら、この自分の側室となっても構いませんよ。跡継ぎの決め方なら、他に案がありますから」
「馬鹿を言え。お主より便所蟋蟀の方が、まだ好感が持てる」
壱子の辛辣な一言で、場の空気は一気に凍りつく。
さすがの平間も、この時ばかりは水臥小路に同情した。
そんなことを欠片も気に留めず、壱子は溜息混じりに言った。
「それにしても、大それた事を考えたものじゃ。私の火薬を盗んで貴族の屋敷に火を放ったあげく、その罪を私になすりつけ、さらには鳴峰寺を爆破するとは。どうせこれも、私と父上の不仲を理由に、私の所業だということにするつもりだったのじゃろう?」
「というより、それが”真実”です。勝者の唱える歴史が、真の歴史となるのですから」
「その姿勢は否定せぬが、賛同も出来ぬな。やはり……歴史は真実から作られるべきじゃ」
静謐な光をたたえた瞳で、壱子は言う。
その中に、平間は彼女の決意を見て取った。
しかし、水臥小路は壱子を鼻で笑う。
「その歴史を語る人間がいなければ何の意味も無いでしょう?」
「その人間なら、ここにいるが」
「どうでしょうね」
「なに……?」
訝しんで、壱子は水臥小路を見つめた。
すると、その細い肩に手が置かれる。
紬だ。
「どうした、何の用じゃ」
「ごめんなさい、ここまでしないと報酬を受け取れないんですよ」
「……どういう意味かな」
「毒を喰らわば皿まで、とでも言いましょうかね」
そう紬が言うのと同時に、平間は慌てて刀に手をかける。
紬の左手は壱子の肩に置かれ、右手は……抜身の短刀を握っていたのだ。
しかし、壱子は紬の左側にいる。
その立ち位置が、一瞬の隙を作った。
紬は、短刀を壱子の胸に深々と突き刺した。
平間の視界がぐわりと歪み、時間の流れがゆっくりになる。
壱子の細い身体が揺れる。
「さすが壱子さまの用意してくれた品です。よく出来ていますね」
紬は笑って、膝をついた壱子の左胸から短刀を引きぬいた。
同時に、赤黒い液体が畳にこぼれ落ちる。
壱子は胸をおさえ、紬を見た。
そしてわずかに口を動かした後、うつ伏せに倒れた。
平間は吼え、刀を抜いた。
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