第33話「仮初の朝とひっつき虫」
──
平間が目覚めると、そこには忌部省の双子の片割れの顔があった。
これはどっちだったか……阿か?
そんなことを考えていると、片割れはパッと立ち上がって何処かに行ってしまった。
しばしの間。
周囲を見回し、平間は自分がカビ臭い布団に寝ていたことに気付く。
部屋の広さは四畳半ほど。
阿の存在と、このジメジメした雰囲気から察するに、ここは忌部省の中か。
そう一人で納得していた平間だったが、唐突にある疑問が脳裏に浮かぶ。
──何があった?
記憶は薄ぼんやりとしていたが、次第に思い出してゆく。
確か平間は、壱子と共に松月に会いに行っていたはずだ。
待ち合わせ場所の抜け穴に入るため、花街の貸部屋に入った。
そして、抜け穴の入り口を開けて、壱子が何かを言っていて、そして──。
「平間ぁぁぁあああ!!!」
「ぐはっ」
その叫び声が聞こえるやいなや、平間の首に軽くも鋭い衝撃が走る。
「平間、生きているか!? 死んでないか? ああ良かった、生きてる!」
「今の攻撃で死にそうになったんだけど」
「ふふ、面白い冗談じゃな」
「全く冗談じゃないんだけど……」
かなり真面目に抗議する平間だったが、壱子は楽しそうに平間に抱きついていた。
対応に困る平間に、壱子は目と鼻の先で言う。
「ああ、まだ気が動転しておるのじゃな。ここは忌部省じゃ。ひどく驚いたのじゃぞ。お主が急に倒れるから」
「倒れた? どうして?」
そう尋ねる平間には、まるで心当たりが無い。
殴られたわけでもないし、極端な栄養不良でもなかった。
倒れる理由など思いつかない。
すると壱子は神妙な面持ちで言う。
「庭先で、鼠が死んでいたじゃろう。あの時に気付けばよかった」
「どういうことだ? 僕が知らない間に、毒でも盛られていたのか?」
「毒と言われれば、確かにそれに近いじゃろう。しかし毒は毒でも、見えぬし、触れられぬし、嗅ぐことも出来ぬ類の毒じゃ」
「……そんなものがあるなら、暗殺が大流行するんじゃないか」
「いや、扱いが非常に難しいのじゃ。なにせ触れることが出来ぬし、見えぬから」
壱子は「どう説明したものか」と迷っているようだった。
実際、壱子の行っていることは平間にはピンと来ていない。
壱子は続ける。
「その毒はいわゆる瘴気の一つじゃ」
「瘴気って……つまり『毒の風』ってことか」
「分かりやすく言えばな。よく温泉などで、鼻に触る”つん”とした臭いをかぐことがあるじゃろう? それも瘴気の一種なのじゃが、今回のは少し違う」
「というと?」
「先程も行った通り、お主が触れた瘴気には臭いが無い。また、扱いは難しいが、発生させることは容易じゃ」
「え、どうやって?」
「火を燃やせばいい。特に木炭などは、良く瘴気が出る」
平然と言う壱子だが、平間は納得しない。
「それはおかしい。だったら、あちこちで瘴気に曝されているってことになるじゃないか」
「その通りじゃ。ただ、瘴気は広い場所では薄まる。だから風通しを良くしておけば何の影響も無い。しかし──」
そう言って、壱子は遠くを見るような目をする。
「こと、閉ざされた場所ではその限りではない。例えば、地中の穴とか……」
「ということは、僕は抜け穴に溜まっていた濃い瘴気を吸って、気を失ったっていうのか?」
「まさしくその通りじゃ」
うなずく壱子に、平間は倒れる直前の状況を思い出した。
確か、抜け穴の入り口の戸を開いたことは覚えている。
そして瘴気が原因ならば、状況と矛盾しない。
「なあ壱子」
「何じゃ?」
「その瘴気って、一瞬で気絶するようなものなのか?」
「うむ。薄い瘴気ならば徐々に気分が悪くなって気絶するのじゃが、濃いものなら一息で意識を失う」
無表情に言う壱子に、平間は身震いした。
そんな毒、避けようが無いじゃないか。
平間が恐々としていると、壱子は明るい調子で言う。
「しかし幸運だったのは、私たちが二人でいたということじゃな」
「……なんで?」
「だって、あの場に一人でいたら、気絶して瘴気にさらされ続け、終いには死んでおったぞ」
「……本当に言ってる?」
「当たり前じゃ。入り口に覆いかぶさるようにして倒れたお主を、決死の思いで引きずり出したのはこの私じゃ」
そう言って、自慢気に腰に手をあてる壱子。
いつもならば苦笑を返すところだが、今回ばかりは素直に感心した。
壱子の細腕で平間の身体を道上げるのには、相当な苦労があっただろう。
その時ふと、平間の脳裏に一つの疑問が浮かぶ。
「そう言えば壱子、松月は?」
平間の問いに、壱子の表情がサッと変わる。
そして伏目がちに、壱子は言った。
「松月は……所在不明じゃ」
「ということは、やっぱり罠だったか」
納得した平間だったが、壱子は釈然としない。
「とは、言い切れぬのじゃ」
「どうしてだ?」
「何と言うか、殺意が無いのじゃ……私たちに対して」
表情を曇らせて、壱子は続ける。
「私や平間を亡き者にしたいのならば、瘴気の仕掛けだけでなく、私兵を配置するべきじゃ。しかしそうしなかったのは、なにか別の目的があったからではないか、と思う」
「それって……」
「考えられる可能性は二つある。すなわち、瘴気が偶発的に発生した場合。そして、狙われたのは私たちではなく、松月であった場合」
「なら、いずれにせよ手紙は本当に松月が書いたってことか?」
「私はそう思っている。ただ、この仮定が正しければ……」
言葉を濁す壱子に、平間は瞬時に思考を巡らせる。
仮に、瘴気を使った人物が松月を狙っていた場合、その理由は何だ?
いや、そんなことより重要なことがあるのではないか。
平間はハッとして、壱子に言う。
「もしかして、松月はまだ抜け穴の中にいるのか!?」
その問いかけに、壱子は重々しくうなずいた。
「今、脛折に頼んで忌部省の人間が抜け穴を調べてもらっている」
「結果はいつ分かるんだ」
「お主が気絶してから三刻あまりで、そろそろ結果が出てもおかしくはない。しかし、敵の警戒も瘴気もある中では──」
「よお、お姫さん。愛しの少年の具合はどうだ?」
軽妙な口調で部屋に入って来たのは、噂をすれば影、脛折である。
突然の闖入者に、壱子は慌てて平間から離れた。
もう完全に遅いのだが、それを言うのは無粋だろうか。
取り繕うように、壱子は言う。
「これは脛折どの、何か進展があったかな?」
「一応な。我が優秀な部下は、例の洞穴の調査を終了した。感謝して欲しいもんだ」
「とっくに感謝してもし切れぬじゃろう? それで、結果は?」
「ありきたりな言い方で申し訳ないが、『吉報と凶報、どちらから聞きたい?』」
両手を広げてみせる脛折に、壱子は明確に苛立つ。
「どちらでも良いが、まあ、吉報から聞こうか」
「お気に召すままに、お姫さん」
「前から気になっていたが、その呼び方は止めてもらえぬか。既に父の生死すら分からぬ状態じゃ。屋敷にも帰れぬでは、貴族の姫とは言えぬじゃろう」
「まあそう言うな。さて吉報だが、お姫さん、アンタの予想は的中した」
「……こうも嬉しくない吉報は初めてじゃな」
苦々しい表情で言って、壱子は続ける。
「つまり、松月は死んだのじゃな」
その言葉に、脛折は小さく息を吐く。
そして、うなずいた。
──
今回、壱子が口にした「瘴気」は、現代で言う一酸化炭素に相当します。
壱子の世界では「空気」という概念が無いため、このような曖昧な表現になりました。
しかし、換気をせずに火を使えば、当然一酸化炭素中毒になり得ます。
そのため、皇国でも「どうも火からは悪いものが出ているらしい」ということは経験的に知られていました。
ちなみに、効率よく一酸化炭素を発生させるには練炭を使うべきですが、壱子たちの時代には練炭が存在しません。




