第32話「滾る決意と草鼠」
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平間の案内で、二人は夜の皇都を進んでゆく。
松月が指定したのは”例の抜け穴”だ。
しかし、さすがに水臥小路家の屋敷側から入るのは憚られたので、花街を経由することにした。
本当は壱子を花街に入れたくはなかったが、この際仕方がないだろう。
平間の手にした行灯が、おぼろげな光で夜道を照らす。
曖昧になった記憶を呼び起こしながら、平間はかつて訪れた貸部屋の店を目指した。
恐る恐る店の戸を開け、平間は中の様子をうかがう。
そこには、待ち受けの席に座って眠りこける、貸部屋の老婆の姿が見えた。
作戦が成功したことを確信し、平間はほっと胸をなでおろした。
「上手く行ったか」
ずい、と平間の脇から顔をのぞかせる壱子に、平間は無言で頷く。
実は忌部省を出る前、平間は一つの企みをしていたのである。
というのも、闇夜に紛れて皇都を進む上では、見つかる可能性はさほど大きくはない。
が、貸部屋の主である老婆だけは別で、彼女と多少の言葉を交わさない限り、抜け道にたどり着くことが出来ないのだ。
そして、老婆は平間が手配されている人物であり、その顔を覚えている可能性を否定できなかった。
要するに、老婆の存在こそが最も現実的に考えられる危険だったのである。
無論、いざとなれば暴力的に口をつぐませることは可能だろうが、それはあまりに平間の本意ではなかった。
そこで、平間は協力者を使うことにした。
野盗に囚われていた、元行商人の娘である。
父娘で行商をしていた彼女は、父を殺した野盗の若頭と無理やり結婚させられそうになっていた。
そこを偶然、平間の率いていた部隊に救出されたものの、野盗の一味だと誤認され、処刑の憂き目に遭う。
しかし壱子の抗議と詩織――に命令された松月の力技によって処刑を免れた彼女は、忌部省の脛折のもとで生活をしていたのである。
彼女に平間が頼んだ”協力”とは、至極単純だった。
すなわち、貸部屋の店の前に、酒の壺を置いておくことである。
平間が助力を仰ぐと、娘はこれを快諾した。
彼女が平間と壱子に恩義を感じているというの話は、どうやら本当だったらしい。
ただ、気がかりなことが一つあった。
なぜか脛折は娘を花街に向かわせることを渋っていたのだ。
平間には、それが不思議で仕方がなかった。
ともかく、協力者の娘は良く働いてくれたらしい。
平間の目論見通り、店の前に置かれた酒を飲み、老婆は勝手に酔いつぶれてくれた。
既に娘の姿はなかったが、「なるべく姿を見られぬように動いて欲しい」という平間の容貌を聞き入れてくれたのだろう。
後は庭に面した部屋に、客がいないことを祈るのみだ。
平間は静かに壱子へ合図を送り、店の中に足を踏み入れる。
やはり、玄関に人影はない。
物音も乏しい。
おそるおそる老婆に近づき、平間は帳簿を覗き見る。
どうやら、この時間は客がいないようだ。
「壱子、おいで」
「う、うむ」
緊張した面持ちでうなずいて、壱子は店に足を踏み入れる。
何となく気恥ずかしくて、平間はそそくさと店の奥に歩を進めた。
そのまま難なく目的地の部屋に到着し、豪華な内装を完全に無視して、庭の方向へ目を凝らす。
現時点では順調だ。
しかし松月の手紙が罠だとすれば、まず警戒すべきは敵の待ち伏せだろう。
そして注意すべきは、潜みやすい庭の植え込みなどである。
「人の気配は……無いようじゃな」
「同感だ。進もう」
「それより平間」
「何だ?」
「お主は、その……ここに来たことがあるのじゃろう? 松月と」
「もちろんだ。それが?」
「えーっと、言いにくいのじゃがな? 平間、お主が私になびかぬのは……男が好きだからなのか?」
「……ん??」
平間は一瞬、壱子が何を言っているのか理解できなかった。
戸惑う平間に、壱子はさらに続ける。
「うすうす勘付いてはいたのじゃが……いや、みなまで居わずとも良い! お主が松月とここで一晩過ごしたと聞いた時点で、私が察するべきだったのじゃ」
「いや壱子、何を言って──」
「分かっておる、分かっておる。今はこんな話をするべき時でないと言いたいのじゃろう? しかし、この先は危険じゃ。案内してくれたおかげで、もう私一人でも進むことが出来る。行灯だけは預からせて欲しいが、これ以上お主を巻き込むわけにはゆかぬ」
長々と言葉を並べる壱子に、平間はようやく彼女の意図を理解した。
と同時に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
「だから平間、私は──」
「壱子、もう良い」
「しかし」
「あのな、君は阿呆なのか?」
冷めた平間の一言に、壱子は一瞬ぽかんとする。
が、すぐに顔を真っ赤にして、
「なっ……! 何を言う! 私はお主のことを考えて……」
「その考えが的外れだから言っているんだよ。そもそも、僕は特殊な趣味はない!」
「そ、そうなのか?」
「こんな事、冗談じゃ言わないだろ」
「ま、まあ、確かにそうじゃな」
「だいたい、義理や人情だけで君と一緒にいるなら、ここまで一緒に来ない。そしてもちろん、壱子が佐田氏の娘だから付き従っているわけでもない」
「ならば何故……?」
そう尋ねる壱子に、平間は何と返すべきか迷った。
答えは決まっている。
しかし、それを口にすることは出来ない。
その理由は、分不相応だとか、未熟な自分にはそんな資格は無いだとか、いくらでもあったが……。
何より、あまりに気恥ずかしかったのだ。
壱子はじっと平間の目を見つめ、次の言葉を待っていた。
そんな彼女に、平間は絞り出すように言う。
「……あのさ、壱子」
「うむ」
「もう一度『阿呆』って言わなきゃいけないか」
「それって、つまり……」
「この先は行動で示す。行こう。時間がない」
思わず壱子から顔を背け、平間は庭先へ目を向ける。
と同時に、こんな時でさえ本心を口に出来ない自分の小胆さが、ひどく恥ずかしく思えた。
すると、壱子はへなへなと座り込んでしまった。
「どうしたんだ、大丈夫か?」
「……うむ。しかし、ホッとして、気が抜けてしまった」
そういう壱子は、泣き笑いのような表情で続ける。
「実は、私は迷っていたのじゃ。佐田という生まれは、当たり前じゃが、私にとって体の一部じゃ。しかし、お主との壁になっていたのもまた事実で……」
「何が言いたい?」
「佐田の家が危機に瀕している今、ふと思ってしまった。『このまま逃げ延びることになれば、私は気兼ねなく平間と一緒に暮らせるのではないか』と。であれば、このまま”負け”を受け入れた方が、私は幸せになれるのではないか、と」
壱子は平間の差し出した手を取り、ゆっくり立ち上がる。
「しかし、果たしてお主は、その時に私の隣にいてくれるのじゃろうか? これはあくまで”私だけの幸せ”で、お主は何も持たぬ小娘たる私など、何の興味も無いのではないか? それが分からなかった。ただ、聞いたとしてもお主が真実を語ってくれるとは限らぬ。お主は優しいから、冷たく私を突き放したりはせぬじゃろう?」
「確かに、それが出来る性分ではないね」
苦笑して頷く平間に、壱子は微笑む。
「だが今は分かる。仮に私が負けても、家が無くなっても、平間京作はきっと傍にいてくれる。私は、これがとても嬉しい」
「……でも、壱子は負けないだろ」
「ああ、その通りじゃ。さすが、よく分かっておるな」
行灯のおぼろげな灯りの中で、壱子は不敵に笑う。
「そんな平間であれば、どんな状況であっても私と共にあるじゃろう。言い換えれば、私が佐田氏の壱子であっても、平間はしがらみを壊してくれる」
「あまり自信はないけどね」
「自信満々であるほうが、後々怖い。ともかく──」
そっと、壱子は平間の頬に手を添える。
「私はお主さえいれば良い。故に、勝っても負けても良い。が、それならば勝つほうが良かろう?」
「同感だね」
「ふふ、嬉しいことを言ってくれるではないか。ならば勝とう。状況は絶望的じゃが、こちらには佐田壱子と平間京作がおる。少ないが、味方もいる。まずは松月を味方につけよう」
「でも、罠だったら?」
「罠ごときで狩られる獣ではないじゃろう」
そう言って目を細める壱子は、何者よりも頼もしく、そして美しかった。
──
庭に降りた平間は、改めて周囲を見回す。
やはり、何者かが潜んでいる気配はない。
小さく息をつき、平間は壱子に振り返る。
「本当に、何のウラも無いのかな?」
「気を抜くのはまだ早いぞ。松月と落ち合い、忌部省まで戻るまでが勝負じゃ」
緊張した面持ちで言う壱子に、平間は黙って頷く。
抜け穴の入り口があるのは、庭の奥だ。
壱子と共に歩を進める平間は、あることに気付いた。
「壱子、鼠が死んでいる」
「そのようじゃな。毒餌でも食んだのか」
「それも一匹だけじゃない。あっちでも二匹死んでいる」
「不吉じゃな……」
そう呟いて、壱子は何やら考えこむ。
平間はしばらく壱子の言葉を待っていたが、壱子はぶつぶつと声を漏らすだけで、何も言わない。
「珍しいな、壱子が吉兆を気にするなんて」
そう軽口を叩いて、平間は抜け穴の入り口に腰を下ろす。
そして、扉に手を掛けた。
「まさか……! 待つのじゃ平
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