第27話「紅色の月と割符号」
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前回までのあらすじ。
水臥小路惟人詩織に幽閉された壱子は、何とかして脱出を試みていた。
しかし朝、壱子が目覚めると、牢の鍵が開いていることに気付く。
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水臥小路にとらわれたことで、壱子は慣れない環境に置かれていた。
その結果、良くも悪くも興奮していた壱子は、ごく浅い眠りにふけっていた。
昇ったばかりの朝日は、窓に張られた紙で散乱して壱子に降り注ぐ。
ぴくり、と壱子のまぶたが震えた。
「朝か……」
のっそりと起き上がり、目をこする。
下ろした髪を手櫛で梳きながら、壱子は大きな”あくび”をした。
同時に、締め付けるような空腹感に気付く。
こんな状況なのに活発に動いている胃袋に、壱子は自分のことながら呆れた。
昨晩、出された夕食は、特に疑いもなく完食した。
毒を盛られる可能性もあったが、殺すつもりならばとっくに殺されているだろう、と考えて、気にせず食べることにした。
味は良かった。
「頼めば、粥でもくれるかな」
そう独りごちて、壱子は誰かを呼ぼうと座敷牢の入り口に目を向ける。
「……なんのつもりじゃ、これは」
低く呟いた壱子が見つめる先には、わずかに開いた座敷牢の戸がある。
おそるおそる壱子は戸に近付き、そっと手をかけた。
キィィ……と耳障りな音を立て、戸は難なく開いていく。
この状況で喜ぶほど、壱子は脳天気ではなかった。
壱子は既に、紬によって罠に嵌められているのである。
急に状況が好転したのならば、何かウラがあると疑うのは当然の事だった。
壱子は考えた。
まず、確実なことから考えていこう。
昨日の時点では、扉の鍵は確実に掛けられていた。
鍵の形状を観察して無理やり開けられないか試してみたのだから、これは間違いない。
となると当然、何者かが壱子が寝ている間に鍵を開けた事になる。
ならば問題は、「誰が鍵を開けたのか」だ。
一番考えやすいのは、松月が人目を盗んで鍵を盗み出したという脚本だろう。
昨日、あれだけ分かりやすく壱子に肩入れしていた松月のことだ、独断で鍵を開けることくらいやりかねない。
何より、松月は少々考えが足りないところがあることも、この推測を後押しした。
次に考えやすいのは、水臥小路ないし詩織が”あえて”鍵を開けた場合。
この場合は恐らく罠だろう。
が、罠を張る意図が見えない。
「さてさて、どうしたものかな……」
壱子は顎に手をあて、考えを巡らせ始める。
が、まもなく。
「……いや、単純な話じゃな」
そう呟いて、壱子はニヤリと笑った。
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平間は状況を全く飲み込めず、皇都の路地に佇んでいた。
朝早く叩き起こされた平間は、真っ先に「また拷問か」と苦虫を噛み潰したような顔をしてみせた。
案の定、連れて行かれた先には水の張られた巨大な桶がある。
しかも桶の底には”かまど”が設置してあり、ごうごうと火が焚かれていた。
熱湯責めを覚悟した平間に、牢屋番は桶に入るように促した。
抵抗しても仕方がない、と諦めた平間は、しぶしぶ桶に浸かる。
いい湯加減だったが、これも束の間だと思うと、逆に不快になってくる。
しかし。
待てども待てども、湯が煮えたぎるような熱さになる気配はない。
それどころか、手を縛る縄も切られて身体を洗うよう指示された。
「これはもしかして、風呂なのか?」
そう気付いてから間もないうちに、平間は近衛府から開放された。
──
何が起きたのか。
平間は全く分からなかったが、兎にも角にも、もう牢に入る必要はないらしい。
伊織の働きが功を奏したのか、あるいは佐田氏の誰かが手を回したのか。
その辺りの説明は、牢屋番は全くしてくれなかった。
「お待ちしておりました、平間さん」
突如背後から聞こえてきた声に振り向けば、三〇才ほどの落ち着いた女性の姿がある。
壱子に使える侍女・紫だ。
反射的にお辞儀だけ返した平間に、紫は近づいて口を開く。
「急ぎましょう。壱子さまがお待ちです」
表情を変えずに言う紫に、平間は目を見開く。
そして、ただ黙って頷くことしか出来なかった。
女性の歩みとは思えない早足で、紫は人通りの増え始めた路地を進んでいく。
すると、おもむろに紫が口を開いた。
「時に平間さん。私は最近、壱子さまにこう訊かれました。『子供とはどこからやってくるのか』と」
「世界一答えにくい質問じゃないですか、それ……。で、何と答えたんです? 」
「それはもちろん、殿方のアレを娘のアレにアレしたら出来る、と」
「ド直球じゃないですか! もっとこう、あるでしょう!?」
「あら、平間さんも知っていたのですか。予想外でした」
「……どうして馬鹿にされているんですかね、僕は」
「だって、あの可愛らしい壱子さまに手を出さないのですから。てっきりご存知ないのかと。ああご安心ください、私、見ても何も言いませんので」
「何を安心すれば良いのか分からないんですけど……」
呆れながら、平間は肩をすくめてみせる。
そしてふと浮かんだ疑問を、率直に紫にぶつけてみた。
「それにしても、どうして壱子はそんな事を紫さんに聞いたんですかね?」
「好奇心の塊のような方ですから、分からないことがあれば何でも訊かれますよ」
「そういうものですか」
「そういうものです。ただ、強いて言えば──」
言いかけて、紫は目を細めて平間を見る。
「壱子さまに月のものが来ました」
「……なるほど?」
「それだけですか」
「なぜ僕にこの話を?」
「興奮するでしょう?」
「しませんが」
「本当ですか? 意外ですね」
「紫さんは、僕を何だと思っているんですか??」
「健全な青少年だと思っていますよ」
そう言って、紫はにっこりと笑ってみせる。
妥当な、というよりむしろ過分な評価に、平間は怒る気を失くす。
開放された折に返された刀を撫でて悶々とする平間に、紫は笑みを崩さずに言う。
「でも考えてみてください。理論上は、もう壱子さまは子を為せるわけです。だとすれば、いつものママゴトのような誘惑も、妙な現実味を帯びるようになりませんか?」
「……紫さんは、僕をどうしたいんですかね」
「自惚れないでください。私は壱子さまに幸せになっていただきたいだけです」
「幸せに、ですか」
「ええ。あの方が欲しいとおっしゃるのなら、私は何だって差し上げるつもりです。仮に壱子さまが望めば、それがたとえ自分の眼の球であってもです」
まるで「当たり前でしょう?」と言わんばかりの口ぶりの紫に、平間は返す言葉が見つからない。
それくらいの心づもりでないと、大貴族の侍女を長年務め上げることは出来ないのかも知れない。
が、平間の目にはどうも歪んだ忠誠心のように見えた。
何も言わぬ平間に、紫は真顔に戻って口を開いた。
「冗談です、気が晴れたでしょう? 私なりの気遣いです」
「……どこまで本気か分かりませんが、他の人にはやらない方が良いですよ」
「まあ、平間さんったら大胆なんですから」
「何がですか??」
終始振り回されっぱなしの平間を無視し、紫は歩き続ける。
次第に建物はまばらになり、田畑が増え始めた。
そして間もなく、紫は足を止める。
そこは皇都の外れにある、何の変哲もない家の前だった。
「さあ、着きましたよ。この中です」
そう言って家の入り口を指し示す紫に、平間の脳裏に一つの疑問が浮かぶ。
「紫さん、どうやって壱子と合流したんですか?」
「壱子さまがいる場所に向かい、合流しました」
「はぐらかさないでください。どうやって壱子の居場所を知ったのか聞いているんです」
平間の問いかけに、紫はしばし考えこむ。
そして、ハッとしたように言った。
「もしかして、私を疑っています?」
「有り体に言えば、そうなります」
「なるほど、それは無理もありませんね。確かに、壱子さまが何者かに囚われることなど、今までありませんでしたから」
紫は何事もなかったかのように言うが、その表情はどこか硬さが残っていた。
思わず、平間は手に持った刀に意識を集める。
それに気付かず、紫は続ける。
「とは言え、私達も手をこまねいて見ていたわけではありません。詳しくは申し上げられませんが、佐田家には間者が多くおります」
「その証拠は?」
「玄風さまが今の地位を維持されていることです。これは公然の秘密ですが、佐田家はかなり女児の生まれやすい家系です。ゆえに非常に残念ですが、佐田家は皇宮での影響力を確保しにくい家なのです」
「そのことが、どうして間者が多くいる証拠になるんですか」
「この不利な状況を乗り切るための方策が、間者だからです。佐田に逆らう者あれば、これを察知し、機先を制して潰す。これが佐田家の採ってきた戦略です。毒や薬などの知識も、その一環で得られたものが少なくありません」
「つまり、多くいる間者たちが壱子を発見して、救出したと言うわけですか」
「そうではありません。確かに佐田家の手の者が壱子さまを発見し保護したわけですが──、そのとき、既に壱子さまは開放されておりました」
「は? それってどういう……?」
平間の問いかけは、突如開け放たれた戸の音に打ち消された。
思わず身構えた平間に、長い黒髪の何かが突っ込んでくる。
「ひーーらーーまーーー―っ!!」
黒髪は平間に勢いよく衝突すると、バッと顔を上げた。
「待ちくたびれたぞ! 怪我はないか? さ、入れ!」
平間を見て、満面の笑みを浮かべる少女。
見紛うはずも無い。
それは、平間があれほど思い焦がれた、壱子だった。
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