第四章⑤
二階へ上がると、二人は4号室に向かった。位置的には前崎の使っている3号室のちょうど真向かいである。
壊れたドアを慎重に退かし、中へ入れば、最初は微かな血の臭いが鼻をついたものの、加藤の遺体自体はベッドの上にあり、しかも掛け布団で隠れているため、一見すると何もなかったかのように錯覚してしまいそうだった。
錯覚、といえば……。
「加藤さんの部屋のドアは、本当に鍵が掛かっていたのか?」
前崎は、ふと、独り言のように呟いた。
昔読んだミステリー小説の中に、鍵が掛かっている演技をしていただけで、実は密室ではなかったというトリックがあったことを思い出したのだ。
すると、すぐ後ろにぴったりとくっついていた中原が言葉を返してきた。
「鍵なら掛かっていましたよ。起こしに行ったときに、私も確認しましたから」
「ドアノブは? ちゃんと回してみたか?」
「はい、もちろんです」
「……そうか……ということは、やはり間違いなく密室だったわけだ」
しかし、狙いとしては悪くない気がする。シンプルな場所でのトリックは、同じようにシンプルであるはずなのだ。
前崎は部屋の中をぐるりと見渡した。
ベッドのすぐ傍の窓際には、燃料用に割った角材が一本、立てかけられている。おそらく、護身用の武器にでもしようと思ったのだろう。それに全く手を伸ばせなかったということは、ベッドで寝ているところを、不意打ちで殺されたということだろうか。
しかし、今回は冴和木の部屋と違って窓も割れていない上に、あれだけ警戒していた加藤が、まさかドアの鍵を閉め忘れたということも考えにくい。ましてや、夜中に訪問者を招くなどという行為も同様だ。
――けれど、その相手が蕪木さんだったらどうだ?
蕪木と加藤の関係は少し気になるところだ。二人は何度か同じ部屋にいた。雑談に興じていただけかもしれないが、呼びかけたときの応対にどこか違和感があったことから、何かを隠していたようにも思える。本人に会ったら、訊いておくべきかもしれない……。
それから前崎は、壁のフックに掛けられた加藤の上着を調べた。内ポケットには部屋の鍵が入っていて、キーホルダー式のプラスチックタグには、4号室の文字が刻まれている。
――まさか、これが就寝時に盗まれていたなんてことはないだろう。加藤さんだって、当然、部屋を出る際はこの鍵を使ってロックを掛けていたはずだし、管理には特に気を遣っていたはずだ。
つまり、冴和木のとき以上に、隙が無かったことになる。
そういえば、外はどうだ? あのときのような足跡はあるんだろうか? ……これも確認が必要だった。
前崎は鍵を元の場所へ戻すと、ベッドの上に被せられた布団を捲った。後ろでは、思わず中原が顔をそむける。 血に染まったマットレスの上へ横たわる加藤の首筋には、鋭利な包丁が、持ち手の根元付近まで突き立てられている。
この包丁は、越後文化大のメンバーが持ってきたもので、台所の調理で使われていたものだ。冴和木の殺害にも、同じタイプの包丁が使われていたと記憶している。
「中原。一昨日の夕食調理後、使っていた包丁はどこに片付けたんだ?」
「ええっと、それでしたら、台所に置いてあるダンボールの中です。調理器具は、ひとまとめにして、あそこへ片付ける形になってましたから」
「ということは、誰でも使える状態だったわけだ」
「え、ええ、そうなりますね……」
犯人が凶器を用意してこなかったことを考えると、その行動は突発的とも考えられるが、逆に、お互いを疑心暗鬼にさせるための、計画的なものと取れなくもない。
――ふう……。
難しい表情のまま、前崎が掛け布団を直したとき。
「――――誰だっ!」
突然の声に二人が振り返ると、壊れたドアのすぐ外に、身構えた相羽が居た。
「キミたちか……部屋に居たら隣から物音がするから、てっきり犯人がいるのかと思ったよ……」
「すいません。ちょっと、調べたいことがあったので……」
前崎は軽く頭を下げてから中原と共に廊下へ出た。
「調べてたのは、事件に関したことか?」
「ええ、まあ。何か手掛かりでも無いかと思いまして……」
「……。それで、収穫は?」
「あまり、芳しくはないですね……」そこで前崎の脳裏にふとした疑問が浮かんでくる。「――そういえば、相羽さんは加藤さんの隣の部屋でしたよね?」
「ああ。そうだが」
「じゃあ、昨夜から今朝にかけて、彼の部屋で同じように、何か不審な物音はしませんでしたか?」
相羽は思い出すように腕を組む。
「不審な物音か……。いや、残念ながら全く分からなかったな。昨日は吹雪に加えて、雷も酷かっただろ?」
「確かに……」
そもそも、廊下を挟んでいるとはいえ、前崎の部屋も加藤の部屋の真向かいなのだ。それでも、いつ事件が起きたのかは、全く分からなかった。外が無音ならば、また違っていたのだろうが……。
ここまで、漠然とした不自然さはいくつか散見出来た。しかし、それがまだ明確な手掛かりとはなっていない。これでは、ますます混乱しそうになってくる。それでも前崎は、漏れかけたため息を必死にこらえ、前を向いた。




