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「マーティン」


「……なんでしょう?」


「屋敷が広い」


 クロードは久しぶりに領地の屋敷に帰宅した。――ひとりで。


 使用人もみんないるし、愛犬のロロもいる。いないのはリーラだけなのに、屋敷全体がらんとして見えるのが不思議だった。


 あんな小さな女ひとりいないだけなのにと、クロードは自嘲した。少し前に戻っただけのこと。なにも変わらない。なにも――。そう自分に言い聞かす。


「奥様は……ご実家ですか」


「…………ああ」


 リーラは王都からひと足先に、兄とともにキンブリー領の屋敷へと帰ってしまった。もう二週間も前のことだった。


「……ちょうど今朝、これが届いたところなのですが」


 手渡されたのは簡素な封筒。宛名はここの住所。差出人は、キンブリー子爵家だった。


 クロードはなにか言いたげにしているマーティンを下がらせて、書斎にこもって紙とにらみ合った。


 ぺらぺらの封筒の封を切る。中にはたった一枚。ふたりの関係を完全断つ、無機質な書類だけ。


(いや、はじめから関係なんてものはなかった)


 ふたりは結婚できてさえいなかったのだから。


 手紙すらなかったことにクロードはひとり勝手に傷ついた。


 婚姻申請書の申請取り消しの用紙には、すでにリーラの名前が記されている。


 それがリーラが書いたものなのかさえわからない。それが、彼女のことをなにひとつ知らないという証拠のような気がした。


 あの夜、思いが通じ合ったと思った。


 いや、確かに通じ合ったのだろう。


 だが。


 それだけではだめだったというだけの話。


「……これが本当の復讐、か」


 ヴェルデの指摘通り、すべてにおいて詰めがあまいという自覚はあった。復讐するために連れ去ったリーラは復讐相手などではなく、あまつさえ彼女のことを好きになってしまったのだから、詰めがあまいどころの話ではない。


 はじめから躓いていたのだ。今ならわかる。初対面のあの日、キンブリー子爵家の玄関先で見たリーラを、無意識にほしいと思った時点で――。


 だからこそ、想定して来た数ある復讐の選択肢の中から、その場でリーラを妻にすることを選んだ。それが一番正しい復讐方法であると、自分に言い聞かせて。


 本当にあまい。あま過ぎる。復讐されている間はそばにいてもらえるのだと愚かな期待までしていた。それを復讐とは呼べないと、わかっていても。


 クロードは完全に打ちのめされていた。こうもあっけなく切り捨てられるとは思っていなかった。……思いたくなかった。


 彼女との関係は、他人。


 今までもずっと他人だった。……これからも。


 二度と触れることも叶わない。それどころか、会うことすら許されないかもしれない。


 いまのクロードは、彼女が別の男のものになるのを黙って見ているしかないのだ。


 ロシェット伯爵夫人として連れ歩いたが、ふたりは白い結婚で、そうでなくとも書類上は婚姻の事実もない。リーラがどこかの貴族へと嫁ぐことも可能だ。


 ヴェルデの目的はおそらくそれだろう。


 クロードを完膚なきまでに叩きのめして、リーラだけを救済する。


 クロードがリーラに惹かれるであろうことも予測済みだったのだろう。


 そしてそれをやってのけた。おそらくキンブリー一家を殺したときと同じように。無駄なく、いらないものだけ、切り捨てた。


 こんなことなら、あのとき理性を優先させるのではなかった。


(好きだと、愛していると、困らせてでも言えばよかった)


 どうせ捨てられるのなら。


 伝えておけばよかった――と。


 思ったところで、なにが変わるというわけでもないが。


 最後のあがきとばかりにギリギリまで記入するのをやめようかとも思ったが、クロードはその紙にペンを入れていた。


「最後くらいは男らしく、潔く……諦める……か」


 もういい加減、解放しなければ。


 これまでわがままを言ってつき合ってもらっていたのだから。


 そろそろけじめをつけるべきだ。これが彼らの復讐であるのなら、クロードは粛々と受けなくてはならない。それだけのことをしたのだから。


 自分の名前を書き終え、リーラの名前を未練がましく指でなぞっていると、ドアをかりかりと引っかく音が聞こえてきた。ロロだ。入れてと訴えるロロを室内へと誘い、しばらく抱きしめて癒しを享受した。


 ロロは不思議そうに、覇気のないクロードに鼻を押しつけてふすふすと匂いを嗅いでいる。もしかするとリーラの匂いを探しているのかもしれない。


「ごめんな、ロロ。リーラはもう……帰って、来ないんだ」


 わふぅ、とロロは不満げにしっぽをぺたんと床につけた。やはりわかっているのだ、本能的に。


「会いたいか? ロロがお願いしてくれれば…………いや、いくらなんでもそれは卑怯すぎるな」


 ロロならば、つぶらな瞳で見つめながら、ちょっと小首を傾げるだけで、リーラなど簡単に陥落するだろう。それが人として超えていけない一線だとは思いつつ、その案を捨てきれない自分に嫌気がさす。


 そんな飼い主の葛藤などいざ知らず、ロロは器用に椅子へと前足をかけ、なにを思ったのか、机の上に置きっぱなしにしてあった紙を、ぱくんとくわえた。


 その一瞬の犯行にクロードがあっけにとられて動けずにいるうちに、ロロはドアまでとたとた歩き、よっこいしょと持ち上げた前脚でドアノブを押し開けると、そのまま華麗に逃走した。


 クロードの悩みの原因がこの紙だと判断して持ち去ったのか、はたまた新しいおもちゃだと思ったのか、それともリーラの匂いが残っていて恋しくなって持ち去ったのか。


 いずれにせよ、ロロが大事な書類を盗んだことに間違いはない。


「ロロ! 返しなさい!」


 慌ててクロードが追いかけると、ロロは遊びだと思ってますます逃げる。しっぽがぶんぶん大回転している。


「ロロ!」


 ロロは散々庭を走り回ってクロードを疲弊させると、今度は屋敷の中へと舞い戻り、飛び込んだ先にいたマーティンへと一直線に突撃していく。


 逃げる暇もなく膝を震わせ青ざめるマーティンに、しかし、ロロはぶつかりはしなかった。マーティンぎりぎりで足を止めると、ぱたぱたとしっぽを振りながらその場でおすわりをしている。


 そしてクロードから盗んだ戦利品を、マーティンの前でぺっと吐き出した。ロロなりの前回のお詫びだろうか。なにも考えていない可能性の方が高いが。


 へたりとその場に腰を抜かしてしまったマーティンに、クロードはすかさず駆け寄った。


「大丈夫か!?」


「また……また……ギックリ、いくかと思いました……」


 弱々しく訴えるマーティンにクロードはロロの代わりに謝った。


「すまない。……ロロ、だめだろう」


 叱るもロロは満面の笑みで、はっはっと舌を出している。まったく反省の色はない。


「あーあ、こんなにして………………よくやった」


 つい本音がこぼれたが、よくよく考えると、これはまずいのではないだろうか。


 ロロのよだれでべとべととなった紙は、リーラの名前もクロードの名前もすっかりにじんでしまっている。これでは受理されないだろう。


「新しいものを用意するか……。それだとまた向こうに送らないといけないな……」


 嘆息をもらしながら、いっそ手ずから持っていくかと考えていたところで、その紙をじっと見ていたマーティンがおずおずと口を開いた。


「クロード様」


「なんだ」


「それは……?」


「ああ……これか。リーラの兄に、してやられた。俺たちの婚姻は、成立していなかったらしい。マーティン、同じものを用意できるか?」


 空元気で笑うクロードに、マーティンの憐れみのこもった視線が突き刺さる。


「クロード様……」


「慰めはいらない。もう諦めたんだ。もう……」


 これから先、リーラの幸せを願って生きる。


 きちんと、決別して。


 しかしそう決めた先から後悔が押し寄せてきて、長年自分を支えてくれたマーティン相手だからか、気づくと少しだけ弱音を吐いていた。


「すまない、マーティン。俺は、後継を残せそうにないかもしれない……」


「お願いですから、後生ですからそちらはまだ諦めないでください」


 もしかしたらこの傷が癒えて、また新しく妻を迎える日が来るのかもしれない。


 想像したが、無理だった。


 未来のことなどなにひとつ見えはしなかった。


「……無理だ」


「ですが」


「無理なんだ……」


 クロードは頭を抱える代わりにロロをかき抱いて毛皮に顔をうずめた。


 ほかの女ではだめなのだ。リーラでなければ意味がない。


 このロシェット伯爵家は自分の代で断絶するしかない。


 クロードはもう、そこまで追い詰められていた。


 すっかり投げやりで気力をなくしたクロードを、マーティンは無言で凝視している。あまりになにも言わないので、とうとうクロードは顔を上げて怒鳴った。


「なんなんだ、女々しくて悪かったな! そうならそうとはっきりと言え!」


「女々しいのはその通りでございますが……」マーティンは否定せず、しかしクロードの顔をまた正面からしっかりと見つめると、やるせなさそうにうなだれた。「あなたは本当に、お父上によく似ておられますね……」


「……は?」


 驚いた。マーティンがクロードの父親の話をするのは、はじめてのことではないか。今は亡き祖父以上に、マーティンは父のことに関しては口が重かった。


 祖父の代から支えているのだから知らないはずがないだろうが、クロードから聞かない限りは、あえて自ら語ることはなかった。それをなぜ今さらと思うクロードの顔に、老いた手を伸ばして、マーティンは眉尻を下げる。


「こんなに、やつれてしまわれて……」


 実際リーラがクロードの元を去ってからのこの二週間、なにも喉を通らず、まともな食事は受けつけないようになっていた。やつれた自覚があるだけに、なにも答えられずにいると、マーティンは一転して、厳しい口調でこう言った。


「いいですか、クロード様。あなたのお父上は、恋人に捨てられて体を壊し、亡くなりました。わかりますね? この意味が」


 まったくわからない。


「……どういうことだ?」


 聞き返すと、マーティンが真顔でクロードの肩を掴んだ。ヤギのような真顔をずいっと近づける。


「このままだとあなた……死にますぞ?」


 クロードは絶句した。


 父は母に捨てられたと思い、病んでしまった。クロードは今まさしく、父と同じ道に足を踏み入れたところなのではないか。このままの状態が続いたら、近い将来……。


 そんなことはない、大げさだと笑い飛ばすこともできずに血の気の失せた顔でマーティンを見返すことしかできなかった。


「こんなところばかり似なくてもいいでしょうに。血は水よりも濃いということですかね……。しかしこれは、由々しき事態です」


 また医者を呼びつけたり変な薬を取り寄せようとするかもしれないと、我に返ったクロードはやんわりとマーティンの手を肩から外し、落ち着かせようと試みた、が。


「いくらなんでもこんなことで死には」


「こんなことで、あなたのお父上を失ったのですぞ!!」


 そう断じられてしまうと、ぐうの音も出ない。


 あれほど遠い存在だったはずの父親が、これほどまでに身近に感じられるようになる日が来るとは思いもしなかった。できれば違う形であってほしかったが、血は争えないということか。


「あなたのお父上は、先代様がどんな女性を勧めても見向きもしませんでした」


「……だろうな」


 その気持ちは痛いほどよくわかった。


「あのとき、無力な我々は、あの方が日々弱っていくのを見守っていることしかできなかったのです。悔やんでも悔やみきれません……!」


 マーティンがおいおいと泣く真似をする。


「おまえたちが気に病むことではないだろうに」


「いいえ! あのとき、もし我々が違う行動を取っていたならばと、今でもそう思うときがあるのです。ただ見守るだけでなく、主従関係など捨て置き、発破をかけていればと……!」


 クロードは首を振る。そうしたところで父が動いたかどうかは、もはや誰にもわからないことだ。恋人が亡くなっていることを知ることで、さらに気落ちして死期が早まったかもしれない。


 マーティンの目がぎらりと光った。


「いいですか、クロード様。私は心を鬼にして言います。あなたの選択肢はふたつしかありません。このままなにもせずにのたれ死ぬか、奥様を無理やり連れ戻して嫌われながらも生きる道を選ぶか!」


「……。それしかないのか」


「ええ! ふたつにひとつでございます!」


 究極の二択過ぎた。突然突きつけられた重たい現実にあぜんとしていたクロードだったが、マーティンの真に迫る叱咤激励に、思いのほか冷静になった頭で考えた。


 ロロのよだれが乾きはじめた紙を、おもむろに手に取る。

 

 なにをくよくよしていたのだろうか。


 あの劣悪な孤児院で生き延びたのだ。自分の心はそれほど弱くはないはずだ。


(このままのたれ死ぬ? 冗談じゃない)


 ごちゃごちゃしていた思考が一気に吹っ切れた。


 リーラのため、リーラのためと言いながら、彼女が本当はなにを望んでいるのかを、彼女自身の口からなにも聞いていないではないか。


 彼女はどんな思いでここに名前を書いたのか。


 彼女は嫌いな男に唇を許すような軽薄な女じゃない。


 本気で別れたいと願っていたのなら、あの夜会の夜、クロードのことを受け入れたりはしなかっただろう。


 兄の意向に従ったのだろうかとも考えたが、それもしっくりとこなかった。彼女は貴族ではめずらしい、自分の意思を持った女性だ。大切なことは自分で決断する。


 そこでふと、自分に優しい解釈が浮かぶ。


 だがもし、これが、クロードのためだったら――。


 気持ちが一気に浮上したが、すぐに急降下する。それはあまりに都合がよすぎる。


 いくら考えたところで、クロードにリーラの考えなどわかるはずがない。


 ロロのよだれが乾きはじめた紙を、丁寧に折り畳んで言った。


「……マーティン、書類の用意を頼んでもいいか?」


「クロード様!」


「そうじゃない。俺は、親父とは違う」


 クロードは安心させるようにマーティンの肩を叩いて微笑んだ。疑り深い彼を喜ばせるための一言も、もちろん忘れない。


「軽めの食事を用意してくれないか?」


 マーティンが破顔し、ご飯と聞きつけたロロが傍で勢いよくしっぽを振る。


「ええ、ええ! もちろんでございます! 胃腸に優しいものをご用意いたしますので、少々お待ちくださいませ!!」


 厨房へと駆け出していくマーティンを見送って、クロードは苦笑した。


 なにをするにしても、まず食べなくてははじまらない。


 悩むのは、今度こそ立ち直れないくらいにこっぴどく振られてからでも、遅くはない。



 死ぬのはもっと後でいい。





次回最終話です。

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