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「かわいらしい奥方ですな。ロシェット伯爵はああいったタイプがお好みでしたか」


「ええ。実は恥ずかしながら一目惚れで。社交界デビューしていない今しかないと、会ってすぐに拐って来てしまいまして。本当は屋敷の奥に隠しておきたかったんですがね……」


 クロードは鉄壁の対外向け微笑で、悠然と受け答えをする。一目惚れというところ以外は概ね本当だ。


 リーラの外見が好みかどうかは正直不明だが、リーラ個人のことははっきりと好みだと断言できた。


 しかも今日のリーラはいつも以上に愛らしく、そして美しかった。


 少女らしさを引き立てる淡い紫色のふんわりとしたドレスを選んだのだが、髪を結わえられて薄く化粧をほどこした彼女を目にして、クロードは純朴な少年のように言葉を失った。


 艶やかな黒髪に、最近ふっくらとしてきた桃色の頰、かじりつきたくなるような赤い小さな唇、そして不安そうに上目遣いで潤んだ藤色の目。くらくらした。クロードが抱いたら折れそうな細い腰の上には見覚えのない谷間まであり、慌ててショールを何重にも巻きつけるほどには狂わされた。


 少女と女の狭間の危うさを感じさせる装いとなってしまったのは、完全に誤算だった。


 そしてうまく褒められなかったことも悔やまれる。


 本当は、誰よりも綺麗だ、くらいのことはスマートに言うつもりだったのに。すべて吹き飛んだ。綺麗すぎたリーラが悪い。


 事実、この会場内で、リーラに勝る娘はいない。惚れた欲目もあるが、もし社交界デビューしていたら、彼女の前に独身男性がダンス待ちの列をなしたことだろう。


 彼女を妻として紹介して回る際には周囲に牽制することも忘れず、下心を持ってリーラを見ていたやつらはすべて記憶しておいた。なにかあれば容赦なく叩き潰してやる。クロードの冷徹なにらみが効いたのか、表立って彼女を口説こうとする男はいなかった。


 あくまで、表立って、だが。


 リーラは口こそ達者で存外たくましいところもあるが、男が簡単に力でねじ伏せられるような非力でか弱い娘でもある。


 自分が守らなければ。


 意気込み新たにリーラがいる場所へと目を移して――危うくグラスを落としそうになった。


「どうかされましたか、ロシェット伯爵?」


「あ、いえ……妻が見当たらなくて」


「ははは。姿が見えないだけでその狼狽っぷりとは。本当に愛妻家だな! どうぞ、探しに行って来てください」


 クロードは礼を言いその場から離れた。あちこちリーラを探し歩くが、どうやら会場内にいないようで見つからない。


 虫の知らせというのか、リーラがいないことに加えて、遠巻きに彼女をにやにやと観察していた侯爵家のろくでなし率いる社交界のごみどもが見当たらないことにクロードは焦りを覚えた。


 悲壮感いっぱいに妻を探し回るクロードに、みな友好的に情報を提供してくれ、会場の外へと出るのを見たという有力な証言を得るやいなや、すぐさま廊下へと飛び出した。


「リーラ! どこだ!」


 迷子ならばいい。よくはないが、まだいい。


(もしどこかへと連れ込まれていたのだとしたら……)


 クロードはぎりっと拳を握りしめた。あんな評判の悪いやつらがいると知っていたら、今日は連れて来なかったのに。


 髪をぐしゃりと乱して走っていると、庭から給仕をしていた少女が飛び出して来た。彼女はクロードを見ると大きく目を見開いた。泣いたのか頰には涙の跡があり、服のボタンがひとつ取れていた。


 一見して、彼女になにが起きたのかがわかった。クロードは彼女からほんの少し距離を取った。もしかすると男というだけで警戒させてしまうと思ったからだ。だがクロードの気遣いを無視して、彼女は前のめりに迫って来た。


「ロシェット伯爵様ですか!」


 今度はクロードが警戒を浮かべる番だった。


「そうだが……」


「奥様が!」


 涙交じりにそう言われた瞬間、警戒もなにも吹き飛んだ。


 クロードは彼女に導かれるまま庭を走り、つっかえつっかえなにがあったのか話す少女を労れないほどの猛烈な怒りが押し寄せる。


 窓が全開になった部屋が見え、ろくでなしどもの頭が見えた。クロードは無我夢中で壁につま先をかけて窓枠へと飛び乗った。


 リーラに覆いかぶさるように男がのしかかっているのが見え、激しい憎悪と殺意に目の前が真っ黒に染まったときだった。




「ばかにしないで! どんな顔でも、うちの夫はあなたよりも何億倍も素敵よ!」




 ぱちくりと濃青の目を瞬いたその刹那、リーラの右膝が、勢いをつけてのしかかる男の急所を直撃するのを見た。


「ぐあっ!」


 その男にしかわからない想像を絶する痛みに、思わずクロードも顔をしかめた。


(いや、あれは当然の報いだ)


 急所を膝蹴りされた男は脂汗の浮いた顔を歪めてリーラへと拳を振り上げたが、静かに室内に降り立ったクロードがその腕を掴んでとめた。


「人の妻に、手を出すな」


 ぎり、と骨の折れないぎりぎりの力加減で腕を握る。男は脂汗をにじませた苦悶の顔を浮かべ、その目に敗北の色をよぎらせたところで手を放してやった。


「命が惜しければ、今後二度と妻に近づくな。ここであったことは他言無用だ。破ったらなにをしてでも、どんな手段を使ってでも、地の底までおまえたちを追い詰めて後悔させてやる。わかったら、さっさと失せろ」


 仲間の男たちはクロードの静かな怒りに恐怖して逃げ出した。もともと弱い相手にしか威張れないような小物たちだ。置いていかれた侯爵家のガキもクロードを忌々しげににらみつけてから、足をもつれさせながら転がり出て行った。


「リーラ! 大丈夫か? なにも……されていないな」


 クロードはすぐさまリーラを抱き起こした。


 見た限りではドレスに乱れもなく髪型が少し崩れているくらいだ。靴はどこへいったのか、裸足の踵に血がにじんでいてカッとしたが、それが靴擦れによるものだとわかると冷静さを取り戻した。


 藤色の瞳はぼんやりとクロードを映していた。血の気が引く。また心だけどこかへと行ってしまうのではと、耳元で大きく名前を呼ぶと、うるさいと返されてしまい少しへこんだ。


「……リーラ?」


 リーラの細い腕が、クロードの背中へと回り、捨てられた子猫のように震えながら胸に顔を埋めて来た。気丈に戦っていたが、やはり恐ろしかったのだろう。クロードは小さなその背中を慰撫すると、彼女はさらに背を丸めた。


「怒ってる?」


「心配させられた分は、怒ってる」


「だって……女の子が襲われてたのよ」


「知ってる。その子に連れて来てもらった」


 リーラがはっとした様子で顔を起こしたので、安心させるために口を開いた。


「彼女は無事だ」


「よかった……」


 リーラは胸を押さえて、大きく息を吐いた。


「もっと早くに来れなくてすまない」


「なに言ってるの? 助けてくれたじゃない。少しも遅くなかった」


「だったらなにを悲しんでいる?」


 クロードの言葉にリーラは驚いていたように顔を上げた。悲しげな表情をしている自覚がなかったのだろう。隠す必要がないとわかると、彼女は顔を隠すようにうなだれた。


「……あの女の子と、記憶もないお母さんのことを重ねて、ちょっとしんみりしていただけ。……ごめんなさい」


「謝ることでは」


「だけど、偽善、よね。その結果あなたに迷惑をかけて。たぶんわたしは、ずっと、お母さんを助けたかったんだと思う。その結果わたしが生まれなくても、それでも……」


 リーラの肩は小刻みに震えていた。クロードよりも強く、死んだあの男を憎んで、恨んで、未だに苦しんでいる。支配から逃れてなお、その血の繋がりが彼女の心を縛りつけている。


 クロードは悲観的になっている彼女を膝に乗せて、手を握りながら、励まそうと思いついたことをそのまま口に出していた。


「そんなことないんじゃないか? きみの母親と誰か別の男の人との間に、きみは生まれていたかもしれないだろう」


「え?」


「それできみは街で評判の美少女に育ち、復讐のためにキンブリー領に訪れた俺がきみを見初めるんだ。そして俺は葛藤の末、復讐を放り出してきみに求婚する――。どうだ? どうせ仮定の話なんだから、わざわざ自分を苦しめることではなく、楽しいことを想像した方がよくないか?」


 リーラはその藤色の瞳をこぼれんばかりに開いた。


 それから泣き笑いの顔になって、クロードの胸に額を押し当てた。


 たぶん泣いているのだろう。クロードは彼女の気が済むまで、胸を貸し続けた。









 リーラが静かに泣いている間も、クロードがたくさん仮定の話をしてくれた。


 孤児院から逃げ出したクロードが命からがらたどり着いた村でリーラに助けられて、幼い恋心を育み、大人になって再会して恋人となる話が一番気に入っている。


「あなたとわたしは、恋に落ちるかしら?」


「落ちるんじゃないのか? きみは俺の顔が好きだから」


 その自信は本当にどこから来るものなのか。もはや尊敬に値する。


「顔が好きって、口にして言った覚えはないけど」


「そうか? さっきもそんなようなことを言っていたじゃないか。あのクソガキに。俺の方が、その……す、素敵、だと」


 今さら赤くなったクロードにリーラも赤面した。


(き、聞かれていたの……)


「それは別に顔だけと言うわけじゃなく……」


 そちらの方が問題だろうか。あ、と思って口を閉ざしたが、案の定クロードに顎を掴まれて目線を合わされる。真剣な顔にたじろぐが、顔を固定されてそらせない。


「俺のこと、嫌いじゃないのか?」


「……今は、嫌いじゃない」


「……本当に?」


 疑り深いそのまなざしに対抗心がぐんと前につき出た。


「本当よ!」


 今回だってこれまでだって、冷遇されていたときですら、彼はリーラの危機にいつも助けに来てくれていた。だからさっきだって、それほど恐いとは思わなかった。


「そういえば、ありがとうって言ってなかったわね。助けてくれてありがとう、クロード」


 リーラが素直に感謝の言葉を告げると、クロードの目が大きく開かれた。


「名前……」


「様をつけろって? クロード様?」


「いや、そうじゃなくて。はじめて名前を呼ばれたから……驚いた」


「そうだった……?」


 クロード(くま)に、クロードクロードと気安く呼んでいたのでそんな感じはしなかったが、思えばはじめてかもしれない。


「一生、呼んでもらえないと思っていた……」


 クロードがくしゃりと顔を歪めた。彼はリーラが思っていたよりもずっと、苦しんでいたのかもしれない。


 許すわ――と。その一言が言えたのなら、きっと彼の心は今よりはずっと軽くなるのだろう。


 わかっていても、どうしても言えなかった。……まだ。


 だから代わりに、別のことをした。


 許しを口にできない代わりに。



 ちゅ、と――。



 たくさんの気持ちを乗せて、彼の頬に唇を寄せた。






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