30
「わあっ……! 人が多い!」
リーラは馬車の窓から王都の街並みを眺めて感嘆をもらした。
マーティンが職場復帰を果たし、こうして予定通りふたりは王都へとやって来たわけだが。
「危ないからきちんと座るんだ」
子供みたいにはしゃぐリーラをクロードが座席へと押さえつける。舗装された石畳みの道はここまで来る道中の半分も揺れないというのに。過保護が加速している。
それでもたくさんの店や行き交う人の群れに、リーラの視線は釘づけだった。
遠くには荘厳と佇む王城も見える。遠いはずだった国王陛下が、急に近い人になった気がした。
(遠い人は遠い人だけど、物理的にね)
クロードは長い足を組みながら、肘掛に肘をついてため息をつく。
「おのぼりさん丸出しだぞ」
「だってこんなに人が多いなんて! 村の収穫祭の何百倍? 何千倍? これだけ人が多いと迷子になりそう」
「一見治安がよさそうに見えるが、貴族というだけで誘拐されることもあるし、そうでなくてもきみは女だ。ひとり歩きはするなよ。五体満足で帰りたいのなら、絶対に俺から離れるな」
クロードの冗談ではなさそうな釘刺しに顔をひきつらせ、ぶる、と震えた。無謀な冒険心は捨てた方がよさそうだ。
「わ、わかったわ……。だけど気をつけていても、もしはぐれてしまったら? どこに行けばいいの?」
「無駄に歩き回らず、下手に他人に話しかけるよりも、人目のある大通りの目立つ店の前で立っていてくれればすぐに見つけられる。大前提として、はぐれないでほしいが」
リーラは街行く人をちらりと見やった。フリルのついた黄色い日傘を差す貴婦人が、恋人らしい男性の腕に手を添えて歩いている。
なるほどねと、リーラはそれを参考にすることにした。うかがうように上目遣いでクロードへとお願いをする。
「腕を組んで歩いてもらえる?」
「! ああ、もちろんだ! 妻をエスコートをするのは夫の務めだからな」
「エスコートって、パーティーとか夜会とかだけじゃなくよ? ただ道を歩くときもよ?」
軽く脅されたせいか、すでに人ごみが少し恐い。人よりもはつかねずみの群れに囲まれている方が気持ち的に安心である。
「願ったり叶ったりだ」
リーラの恐怖心などまったく理解していないだろうクロードに頰を膨らます。
「もう、茶化さないで。そばから離れたら本気で怒るわよ。マーティンの二の舞にするから」
しばらくの静養のおかげですっかり本調子となったマーティンだが、トラウマから逃れられずにロロとは適度に距離を取りつつ、張り切って働いている。
「ねえ、聞いているの?」
リーラはクロードの腕に触れた。こんなにまじめに頼んでいるのに、この男は顔を背けて肩を震わせているではないか。
「笑わないでよ!」
「いや、笑ってるんじゃなく……」
「ほかに頼る人がいないんだから! この広い王都で、あなただけが頼りなのよ? わかってるの?」
クロードが馬車の壁に片手をついていっそう震え出す。まったく。なんのあてにもならない。
そうこうしているうちに王都にあるロシェット伯爵邸へと到着した。
リーラは王都の使用人たちと顔を合わせるのははじめてだったので、どのような扱いを受けるか探り探りだったが、みな一定の距離感を保ちつつもクロードの妻として受け入れているような姿勢だったので、ひとまず不安は払拭された。
「疲れているだろうし、今日くらいは休んだらどうだ?」
「だけどあなたは行くんでしょう?」
クロードはさっそく今夜から、夜会の予定を入れていた。一緒に来たのだし、いい加減リーラも行かなくてはおかしな噂を立てられるかもしれない。
今日のためのドレスは用意されている。今日だけでなく、これからのために何十着も。
リーラの瞳に合わせた薄紫のスカート部分がふわりとしたドレスや、クロードの瞳と髪に合わせた上品な濃い青とシックな銀のものなど、選ぶのに目が回りそうなほどだ。
色合いだけで言えば青系統の寒色が多い。薄紅のものやオレンジもあるが、鮮烈な赤や大人っぽい黒など、リーラが明らかに着こなせない色はなかった。
だがどれにも共通して言えるのは、露出が少ないものばかりだということ。
普段着も含め、これまではクロードの趣味で控えめな装いのものが選ばれていると思っていたが、これが彼の優しさによる配慮だと、さすがに気づかざるを得ない。リーラの古傷が見えないように、それでいて流行遅れにならないように、彼は一生懸命考えてくれていたのだ。
過去のことはまだ許せない。だけどそれ以上に、こんなの、好きになってしまう。引き返せなくなる。
「選び切れないのなら、俺が選ぼうか?」
染まった頰を見られないようにリーラはうなずいて、クロードに丸投げした。
真剣に、しかし嬉々としてクロードが選んだのは、淡い紫色のドレスだった。控えめに開いた胸元ときゅっと引き締まった腰の部分に、リボンがあしらわれている。ふんわりとくるぶしまで覆うスカートは下に行くつれ色味を増していて、裾のレースは一見白に見えるが、よく見ると銀色の糸が使われていた。
クロードは自分の色を着せたがる癖がある。そのせいでリーラの普段着の半分は青い。今回も青を選ばれると思っていただけに薄紫は意外だったが、やはりさりげなく自分の色を入れていた。
(色味に特にこだわりはないからいいけど……)
愛妻家という設定に拍車がかかりそうだ。
こちらに来てはじめてリーラについた侍女に着せてもらい、鏡を見る前に髪を編んで結い上げられて、顔には薄く化粧も施された。
夜会に行く前に疲れ果てたリーラは、高いヒールの靴をはいてよろよろとした足取りでクロードの元へと向かう。
クロードはすでに正装して玄関ホールで待っていた。足音に気づいて振り返った彼に、リーラは思わず息を呑んだ。
普段は下ろしている前髪を後ろに流すことで、隠されていた野性味と大人の男の色気があますことなくさらしている。遮るもののないその怜悧な濃青の瞳を向けられただけで、リーラは呼吸ごと囚われた。
(かっ、こいい……わ)
派手でないものの、自分の魅力を引き立てる装いを熟知しているようで、上から下まで一分の隙もない。
見惚れて、ほぅ、とため息をつく。このまま口を開けば好きだと困らせるようなことを言ってしまいそうで、すぐに表情を引き締めた。自分にはない華に少しの羨望を残しつつ、そつなくクロードを褒める。
「とてもよくお似合いですね。髪を上げているところをはじめて見ました。銀色の狼みたいで素敵ですよ」
しかしクロードからはなにも反応が得られず、リーラは戸惑う。お世辞も浮かばないほど自分はひどい格好をしているのだろうか。使用人の新手の嫌がらせだろうかと焦っていると、クロードがぐぐっと眉を寄せた。額をさらしているから、そのしわの深さがくっきりとよくわかる。
(そんな顔をするほど、ひどいってこと……?)
落ち込んでいると、クロードが使用人に指示を出してショールを持って来させた。そしてなんの説明もなく、リーラの肩にかけて胸のところできつく縛る。なにやらぶつぶつと文句をつぶやきながら。
「華奢だと思って油断していた……。誰だ、胸を寄せて上げたやつは」
胸の底上げが気に入らなかったらしいが、あいにく詰め物はしていない。
「自前ですが」
最近栄養豊富なものをたくさん食べさせてもらっていたから、少しだけふっくらとしてきた。
それにリーラの母もヴェルデの母も、華奢なわりには胸が豊かな人だったらしいので、リーラもそうなる可能性が高い。あくまで可能性の話だが。
「なおさら悪い! くそっ、少し胸元は開いておいた方が今の流行りだなんて言葉巧みに誘導されて騙された! これでは変態どもの餌食にしてくれと言っているようなものだ!」
(胸元が開いてるって、ギリギリ谷間が見えるか見えないかくらいの程度なのに。大げさな)
「血走った貴族のガキどもに物陰に引きずり込まれるのが目に見える!」
これでもかとショールの束にラッピングされたリーラは、もうどうにでもしてくれとばかりに遠い目をしていた。
自分だってまだまだガキの範疇だろうに、という突っ込みも心の中だけで留めておく。
「このうなじも、後れ毛も、誰を誘う気なんだ! マフラーはないのか、マフラーは!」
「さすがにそれは」
止めたが、止まらず。
やり終えたクロードは、もっこりしたもはや誰なのかすらわからないリーラの惨状を見て、さすがにやりすぎたと反省したのだろう。ショールを一枚だけ残して、後は取り下げた。
「それで? 似合ってるの? 似合ってないの?」
「に、似合って、る」
クロードが頰を染めつつ、口元を手で隠してもごもごと言った。
女性をすんなりと褒められないようでは社交界の荒波を渡って行けないだろうが、一旦ロシェット伯爵という役に入れさえすれば、すらすらお世辞が出てくるタイプなのだろう。素のクロードは八割がた、どうしようもない。
リーラは呆れ混じりのため息をつき、クロードの腕へと、しっかり手袋をはめた手を添えた。
「エスコートは期待していますよ」
「ああ、任せておけ」
その自信はどこから来るのだろうか。リーラはそっと苦笑した。




