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「奥様、いけません。私などにそのような……」
「響きだけ聞くといやらしいから妙な声を出すのはやめろ、マーティン」
リーラがマーティンの看護にあたっている横で、クロードがぶつぶつと小言を言う。結局途中からはリーラの仕事を横取りして、クロード手ずからマーティンの世話を焼いている。
やりたいのなら最初からそう言えばいいのに、素直じゃない。
横たわったままのマーティンに食事を与えようとしていたのに、その役目を奪われ、リーラは暇を持て余していた。
リーラからの食事など断固受けつけないとばかりに抵抗したマーティンもだが、クロードもリーラをにらみつけてスプーンを奪っていく。
「あーん、なんて、俺もされたことがないのに」
怪我人じゃないのだから当然だろう。小鳥じゃあるまいに、なぜ平常時に、あーん、などする必要があるのだろうか。
もうマーティンの看護は全面的にクロードに任せることにする。リーラは初日で匙を投げた。
なにより本人が嫌がっている。どうやらこれまでの仕返しとばかりに毒入りスープでも飲ませられると思っているらしい。
(この屋敷の使用人はみんなわたしに失礼よね)
小さく憤慨しながらダイニングを通ると、鎮座するクロード(くま)を目にして気持ちがやわらぎ、思わず抱きついて頰にキスをした。
「今日もかわいいわね、わたしのクロード」
リーラはこのぬいぐるみを溺愛している。
ロロはクロードの愛犬であり、マーティン(ねずみ)は半野生。リーラのペットはこのくまのぬいぐるみだけ。使用人たちが引くくらい、存分にかわいがっていると。
マーティンの世話を終えたのか、クロードが背後にひっそりと立っていた。なぜか片手で顔を覆い、その耳は赤い。
びっくりしすぎて声を失ったリーラだったが、クロード(くま)の太い首に腕を回して、もっふりとした膝に乗り上げるというだらしない格好をしていただけに、気まずい思いをしながら床へと降り立った。
彼も夕食に来たのだろうか。ならばひとつだけ言っておかなければならないことがある。
「ここはもうこの子の席だから、譲らないわよ?」
屋敷の主人の席に、でんと座るくまのぬいぐるみ。クロードはしばし無言の攻防の末、ぬいぐるみのつぶらな瞳に降伏し、仕方ないとばかりにリーラの定位置のすぐ隣の席へとついた。
ロロといいぬいぐるみといい、彼はつぶらな瞳にめっぽう弱い。
「これだけ無駄に席があるのに、なんで隣に?」
「ふたりだけなのに端と端で食べろと?」
「そうは言ってないけど……」
リーラも席に着くが、慣れない位置関係に戸惑うばかり。
ただ……はじめの頃、彼との食事の際に感じていた、あの苦痛はない。それでも、苦しくはある。それは嫌な苦しさではなく、どこか焦ったいようなあま苦しさだ。
また傷つくだろうに。性懲りもなく。
自分で自分が情けなくなる。
「マーティンがよくなったら……今度は、一緒に行かないか?」
「行くって、どこに?」
「王都に」
リーラは目を丸くして隣を向いた。クロードはこちらを見ずに、ひたすら皿の上で肉の細切れを作っている。粗挽きほどの大きさとなった肉塊を、また切りわける。細切れに。リーラが答えるまで、延々と繰り返す。
「だけど……」
「嫌なら無理にとは言わない」
「嫌というか……」
華やかな場所にいる自分が想像できないのだ。立ち居振る舞いも、知識も不十分、ダンスも少ししか踊れない。それを差し引いてあまりない美貌も持ち合わせていない。
なのにロシェット伯爵家の妻として紹介させるのだ。気後れしかない。
クロードのことはまだ許してはいない。だけどそれはリーラとクロード間の個人的な問題であり、他家との間に持ち込むべき問題ではないことを重々承知しているし、対外的にロシェット伯爵家を貶めるつもりは毛頭ない。
リーラが個人的にクロードや使用人たちを恨むのはいい。それは当然だから。だが、リーラを連れていることで彼やこの家が、ほかの貴族から侮られるのではないか、そう思うとどうしても二の足を踏む。
というのは、きっと建前で……。
キンブリー前子爵への復讐心などなければ、クロードは身分も美しさも自身にふさわしいどこかの令嬢と婚姻していたことだろう。
きっと同じ場所にいても、リーラを目に留めることさえなかったはずだ。
だけどリーラは違う。もしデビューできていたのなら、ほかの娘たちと同じで、クロードに憧れを持ったはずだ。目が合っただけで浮かれて、微笑んでもらえただけで幸せ。ダンスの相手をしてもらえたのなら、それこそ舞い上がって喜んだことだろう。
そんな自分が、彼の隣にいるべきでないとわかっている。
うやむやになってしまったが、離縁する覚悟もした。
なのになぜ、期待させるようなことを言うのだろう。
罪な男だ。
「ドレスなら用意するし、踊れないというのなら、俺と一曲だけ踊って後は休んでいてもいい。むしろ、その方がいいか。ほかのやつとは踊るな。既婚者でも未婚者でも、話しかけられたら冷めた目をして嫌味のひとつでも言ってやればいい。それくらいできるだろう?」
できるが。クロードの中のリーラはよほど性格の悪い協調性皆無の高飛車女らしい。少しへこむ。
「……もし、ご令嬢たちから嫌味を言われたら……」
クロード様と結婚するのはわたしだったのに! などと、ドレスに葡萄酒を引っかけられるかもしれない。
普段にはなく怖気づくリーラを、クロードが片眉を上げてめずらしそうに見下ろした。
「そんな女には、ねずみをけしかけて脅すくらいのことはすると思ったが」
「あちこちのねずみと仲がいいわけじゃありません」
罵られたこともないような温室育ちの娘たちになにを言われたところでさほど傷にはならないし、なんならスカートの裾を踏んで転倒させるくらいの仕返しはするかもしれない。
だけど。
リーラ自身を否定されるのはいい。そういう育ちであることは事実だし、やり返す気力はありあまっている。
でもクロードとの釣り合いが取れていないと失笑されたら。
恥ずかしい、と思う。
それに、言い返せない。だって本当のことだから。
その後はきらびやかな雰囲気に溶け込めず、ずっとスカートを握って耐えている自分しか見えなかった。
「俺のそばにいればいいだろう」
うつむきかけていたリーラは、はっとして顔を上げた。隣でひき肉と格闘しているクロードが、さも当然というように言う。
「敵意や害意のあるやつらからは守ってやるから、そんなに心配しなくてもいい」
ちょっとだけ、泣きそうになった。
守ってくれるのは、兄だけだと思っていた。
あれだけひどい態度しか見せていないのに、そんなことを言ってくれるなんて思わなくて。
リーラが承諾の意味でこくりとうなずくと、クロードが思いのほか嬉しそうに、そうか、と笑った。
「あちこちあいさつをしなければいけないから疲れさせてしまうかもしれないが、時間があれば王都の観光もしよう。そのぬいぐるみの売っていた店にはまだたくさん仲間がいたから、それも見に行こう。そいつも一匹では寂しいだろう。恋人でも見つけてやらないとな。ああ、それと、きみに似合いそうな服の店もあって……」
などと、クロードがあれこれ目まぐるしく予定を立てて行くのを、リーラは口を挟むこともできずに眺めていた。
後半はほとんど遊びの予定で、これではまるで旅行に行くみたいだと呆れてしまう。
(そういえば……旅行って、行ったことがなかった)
リーラは結婚するまで領地から出たことすらなかった。シーズンの間キンブリー一家は王都へと行っていたが、リーラは当然、連れて行ってもらったことはない。
あのまま彼らが生きていたら、いつかは無理やりにでも連れて行かれたはずだ。政略結婚の道具として。見初められれば儲けもの、お金さえあれば評判の悪い人にもほくそ笑みながら嫁がせただろう。
初夜で花嫁の体に傷があると知ったところでキンブリー一家は知らぬ存ぜぬで通したはずだ。もしかするとリーラは婚家を身ひとつで追い出されていたかもしれない。
クロードは確かにひどいことをした。だけど彼は非情にはなりきれなかった。根が悪人でないからだ。
少々感情で突っ走るところがあるが、リーラのことを考えて大切にしてくれようとしているのは充分感じている。
もしかすると自分は、不幸な結婚をしたわけではないのかもしれない。
わからなくなる。
幸せとはなにか。
自分の幸せとは。
「リーラ?」
呼びかけられて、散漫な思考を振り払う。
「いえ、ちょっと考えごとを」
「……嫌なら」
「いえ。〝わたしのクロード〟の恋人選びに、わたしが行かないで誰が行くというんですか」
クロードは苦笑いして同じ名前のぬいぐるみをちらりと見やる。
「……こんがらがるから、その名前はなんとかならないか?」
「慣れてください」
「それならそっちのクロードの恋人の名前は、リーラにするからな? そうすればこの、なんとも形容しがたい気持ちがわかるはずだ」
「いいですよ。お互いの名前をつけ合うなんて、ラブラブな恋人同士みたいですね」
言ってしまってから、その見当違いな内容に気づいて羞恥で首まで真っ赤になった。
罪悪感で優しくしてくれているだけなのに、なにを勘違いしているのか。
彼がリーラを妻として認めてくれているのは後悔と善意であって、好意ではない。
リーラを切り捨てられないクロードの、優しさに付け込んでいるだけなのに。
「そ、うだ、な」
ぎこちなく同意したクロードの顔は見れなかった。
そのまま沈黙が続く。
それでも、言葉のない時間さえも嫌ではない自分に困り果てる。
くまのクロードが、似たような顔をするふたりを優しい目で見守っていた。




