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 クロードが王都に向かったと聞いたのは、リーラが目を覚ましてすぐのことだった。


 せっかく捕えた仇敵のねずみが逃亡を図ったことに意気消沈していたマーティンから、そう起き抜けに聞かされたリーラは、もう一度目を閉じてしまおうかとも考えた。


 しかしぐずぐずと現実逃避しているわけにもいかず、すぐにジーンの元へと行き、彼の名誉を傷つけるような誤解をして逃げたばかな夫のことを謝罪しなければならなかった。


 ジーンはリーラ以上に呆れた様子で額を押さえると、すぐさまクロードの後を追ったらしい。


 弁明する機会も与えられず、置き去りにされたリーラはひとまず、ソファに座った。


 すでに社交界シーズンに向けて、多くの貴族たちが王都へと集まっているはずだ。初々しいご令嬢や妖艶なご婦人たちに、ロシェット伯爵はさぞ注目の的なことだろう。


 ムカムカする胸に手のひらを押し当てた。


 ひとり勝手に誤解して、怒鳴って、去っていったあの男のことは、もう頭から消してやる。


 いや、もう、人生から抹消すべきなのかもしれない。


「マーティン」


「なんですか、奥様」


「離縁も、紙切れ一枚で可能なの?」


「お互いの同意があれば申請自体は、署名のみで可能だったと思います」


 受理されるかどうかは別として、とマーティンは小さくつけ足す。


「じゃあ、それを用意して」


 マーティンはなにか言いたげに眉を上げたが、否とは言わなかった。


 彼も、早くリーラに出て行ってほしいと思っているのだろう。


 もしかするとそれが、誰にとっても最善のことなのかもしれない。


 クロードがリーラを信じていなかったように、リーラもまた、彼を信じきれてはいなかった。


 昔ならいざ知らず、どこかの綺麗なご婦人と浮名を流して来るだろう夫を待つのは、今のリーラには耐えられそうにもない。


 なんだかんだ言っても、クロードはリーラと結婚してから娼館にすら通っていなかった。アイビーを寝室に入れたのだって、偽装なだけで、実際はなにもなかったのだ。


 彼は一途に、復讐のことだけを考えていた。それはある意味、リーラのことだけを常に考え続けていたのと同義だ。


 リーラからすれば腹の立つ残念な夫なのだが、ほかの女性たちから見れば、容姿端麗でお金持ちの若くて将来性のある青年貴族なわけで。


「……」


 なにか口にしようにも、どんな言葉もついぞ出て来なかった。


 彼は、リーラが不貞を働いてジーンの子供を作ったと、とんでもない思い違いをしている。


 ならばリーラには、裏切りの果てに彼が取る次の行動が手に取るようにわかった。


 きっと、同じことをするはずだ。


 やられてそのままにしておける性格の人ではないから。


 リーラは早くジーンが誤解を解いてくれるよう願いながらも、ほとんど諦めかけていた。


 その一夜の過ちの末によそに子供ができでもすれば、使用人たちは諸手を挙げて大喜びをして、きっとリーラはお払い箱だろう。


 だが相手次第では、リーラがその子を養子として育てることになるかもしれない。それこそ、自分でそう宣言していた通りに。


 こんなにつらい気持ちになるとわかっていたら、あんなことは言わなかったのに。


(……もう疲れた)


 彼の口から決定的な一言を聞く前に、潔く自分から出て行こう。


 そう結論に至るまでに、さほど時間はかからなかった。






 マーティンが紙切れを用意するのに、一週間時間を要した。


 ここから王都まで、ちょうどそれくらいだろうか。そんなことを考えながら、リーラは妻の欄に自分の名前を書いた。


 はじめて書く家名が、まさか離縁の申請だとは思いもしなかったが。思わず苦笑する。


 兄は順調に借金を返していて、クロードがシーズンを終える頃には、ほぼ返済を終えていることだろう。


 リーラは離婚届をクロードの書斎の机の上に置いた。しっかりとペーパーウエイトを置いて。


 後は彼が帰って来てから考えればいい。


 リーラは静かにため息をもらし、主人のいない書斎を後にした。











 クロードは片っ端から夜会の招待に出席し、領地に置いて来たあれこれを考えないように、わざと忙しくしていた。


 すでにふた月先まで、ぎちぎちに予定を詰め込んである。問題を先送りしているだけなのだが、今のクロードに必要なのは、なにより時間だ。それにクロードがいなければ、リーラもすぐには離縁できないことだろう。


 王都について最初の日こそ、当てつけのようにあちこちで女性を引っ掛けて遊んでやろうと意気込んでいた。


(それなのに……)


 久しぶりに参加した夜会で、熱心な秋波を送って来る女性たちひとりひとりに微笑みながら、会話を楽しんだ。それこそ他愛ない話から、今夜の誘いまで、色々と。


 熱心に口説いてくる女性もいたが、どうしてだか気持ちが乗っていかない。誰相手にも胸にさざ波が立たず、女性に魅力を感じないのだと気がつくと、当初の予定を返上してすべてを丁重に断っていた。


 社交界デビューしたばかりのみずみずしい娘や、豊満で艶やかな貴婦人もいたのに、惜しいことをしたとさえ思わない自分に驚かされた。


 好みが迷走しているだけ。そう言い聞かせたものの、どんな女ならいいのか考えると、浮かぶ顔はひとつだけ。


 妻が妻がと、断り文句に散々リーラを使っていたせいで、いつの間にか、ロシェット伯爵は愛妻家なのだと微笑ましく受け止められるようになり、いつの間にやら誰からの誘いもなくなっていた。


 それが一週間前のことである。


 連日の夜会三昧にやや疲労を感じつつ、王家主催の舞踏会に出たはいいものの、クロードは微笑みを貼りつけたまま悶々としていた。きっと異性に魅力を感じなくなる呪いがかかっているのだ。そうとしか考えられない。


 しかしリーラのことを考えると胸中穏やかにはいられないのだから、自ずと答えは出ているわけで。


(人の友人と不貞を働いた女なのに……)


 ふたりのことを考えると怒りに支配されてどうしようもなくなる。好意だけならまだ許せた。本当に、それだけならば許せたのだ。思い合っているだけならば。


 だがまさか、子供まで作っていたなんて、誰が思う。


 しかしふたりが仲良くなるそもそものきっかけはクロードだ。はじめから大切にしていれば、彼らが急激に親しくなることもなかった。これが自分の愚かさが招いた結果ならば、リーラの子供ともども、クロードが責任を持って養うのが道理である。


 ならばそれこそが、自分にできる唯一の償いの道なのではないか。


 まったく気は進まないし、かわいがれる自信もあまりない。だがジーンの子だと周囲に知れれば、それこそふたりの命が危機にさらされることだけは確実だ。


 それはだめだ。リーラの子は、表向き自分の子供として育てる。それが穏便な解決策である。


 子供は真っ当に育てる。しかし妻を寝取ったジーンのことは、一発殴らないと気が済まない。


 そう決めたときだった。


 胸倉を掴まれて思い切り、左の頬を殴りつけられたのは。


 油断し切っていたクロードは、派手に倒れ、周囲にいた着飾った娘たちが悲鳴を上げた。


 鈍い痛みを帯びた左頬を押さえつつ、自分を殴った相手を見上げ――クロードは盛大に顔をしかめた。


「殴りたいのはこっちだ」


「いいや、こっちで合っているよ」


 王家主催の夜会など絶対に出て来ないジーンが、正装して仁王立ちしている。そしてクロードの腕を掴むと、労りのかけらもなく力任せに引き起こした。それでも穏やかで少しあまめの整った顔立ちをしているので、今までクロードに群がっていた女性たちはわかりやすいジーンの方へと狙いを変えた。女は本当に、ろくでもない。


「なぜここに?」


「きみのせいだろう。話がある。さっさとここを出よう。さっきから王妃様がこちらをにらんでいるからね」


 にらみもするだろう。呼んでもいないジーンが颯爽と現れたと思ったら、瞬きするよりも早く問題を起こしたのだから。当然の報いだ。


 しかし自分も王族なんかに目をつけられたら困るので、クロードはなんでもないと周囲に配慮してから会場を出た。そして外で待っていたジーンにすぐさま殴りかかったのだが、蝶のようにひらりと避けられて空振りした。同じことが何度か続き、とうとうクロードは諦めた。元の素養が違いすぎて相手にならない。


「間男め。一発どころか百発でも殴ってやりたい気分なのに……」


 殴ったところで気は収まりはしないが。


「誰が間男だって? いい加減目を覚ませ、クロード。たとえ僕が女日照りだったのだとしても、人の、しかも友人の奥さんに手をつけるなんて外道なことを、するはずがないだろうに」


「言い逃れか? リーラの腹にはおまえの子がいるんだぞ!」


 ジーンは大げさな仕草で肩からため息をついてみせた。そこに反省の色はない。クロードが詰め寄ると、彼はまっすぐ手を突き出した。人差し指をぴしりとつき立てて。


「まずひとつ。リーラちゃんのお腹には子供はいない」


 それを聞いたクロードは、愕然とした。まさか、そんな恐ろしいことを……。震える手でジーンに掴みかかった。


「堕ろさせたのか!」


 こっちは育てる覚悟までしたというのに!


 人の命をなんだと思っているのだ!


 激昂するクロードに、ジーンはもうお手上げだとばかりにされるがままだ。


「なんでまたそんなややこしい誤解を……。ああ、初恋もこじらせ過ぎるとこうなるのか……。妄想も大概にしてくれ」


「誤解とか、妄想とかなんなんだ一体! 堕ろさせたのかと聞いてるんだ!」


「きみの中の僕はどれほど極悪非道な人間なんだ! だからさっきから言ってるじゃないか! はじめからリーラちゃんは孕んでないって!」


「責任逃れか? リーラはおまえと子供と出て行くと言って」


「ね ず み !!」


 会話の流れにまったく関係ないあまりにかけ離れた動物がジーンの口から出現し、理解の追いつかなかったクロードは思わずジーンを掴んだ手を緩めていた。


「ねずみ……?」


 ねずみが今なんの関係があるというのか。


「いいかい、よく聞くんだ。きみでもわかりやすいように、噛み砕いて説明をするよ? きみの奥さんは、僕と出て行くという話をしたのではなく、マーティンが捕まえたはつかねずみを追い出すのなら、自分もねずみの親子と一緒に出て行くって話をしたんだ」


「はつか……、は?」


「は? って言いたいのはこっちだ。なぜそんな壮大な齟齬が起きながらも会話が進むのか知りたいものだね」


「ねずみ……が? なにって……?」


「だから! リーラちゃんが冷遇されているときにこっそり親交を深めていた、はつかねずみだ! 今は総数百数十匹の大家族らしい。捕らえられたのはその長で、ちなみに雄」


 雄ということは、彼、ということになる。


 リーラの言う彼がもし、ねずみであったのなら。


 ここから出してというのは、ロシェット家からということではなく、檻からで。


 彼と出て行く、は、ねずみ(雄)と出て行くということで。


 子供、は、ねずみの子供ということ。


 めまいがした。なにからなにまで、あますところなく間違っている。


 そしてそのねずみたちには、思い当たるふしがあった。


「あの厨房を荒らす、やたら賢いねずみどもか!!」


 使用人たちが何度も罠を仕掛けたというのに一匹たりとも捕まらなかった、あの忌々しいねずみ集団。


 まさかリーラがやつらの仲間だとは、思いもしなかった。とんでもない裏切りだ。


「たぶんそのねずみ。マーティンが捕まえて、きみのところに持っていっただろう? 覚えていないのか?」


 そう言えば、マーティンが意気揚々とそんな話をしていた気もするが、リーラとジーンが想いを伝え合っていたのを目撃したことですっかりと記憶の中に埋もれてしまっていたのだ。


 そこではっとして再びジーンへ詰め寄る。


「……そうだ! 告白してただろう!? 好きだって、酒を飲みながら!」


「ああ、あれ。聞いていたのか? もちろん好きだよ? クロードと同じくらい」


 クロードは虚をつかれて勢いが失速した。


「え、俺……?」


「お願いだから、変な想像はしないでくれないか? 普通に人としてだよ。もしくは、友人として」


「だ、だけど……リーラも」


「だから、人として、だろう? お互い。性愛ではなく、親愛」


 色恋うんぬんではなく、単に好意を伝え合っていただけ、と。


 すべてはクロードの、早とちり。


「人として……はつかねずみ……親愛……はつかねずみ……ああ、だめだ! 頭の中がねずみまみれで全然まとまらない!」


「それだけわかっていれば充分だと思うけど?」


 肩をすくめているジーンをちらと見やった。もはや聞く必要はないように思うが、彼の口から聞くまではまだわからない。


「……リーラと浮気は」


「していない」


「だったら……」


 自分はとんでもない思い違いの末にリーラを怒鳴りつけて、話も聞かずに逃げてきたことに……ならないだろうか。


 なんてことをしてしまったのだと後悔するも、彼女の潔白に一瞬浮かれてしまい、それでも、もうすでに愛想をつかされていることに思い至るとその場に崩れ落ちそうになった。


 元々愛想など、かけらもありはしなかったのだが。


「わかったら時間作って、謝罪しに帰ることだ」


 腰に手を当てるジーンに諭されて、クロードは胸を押さえてうめいた。潰された肺から、どうにもならない現状を絞り出す。


「……帰れ、ない」


「なんだって?」


「ふた月先まで予定を埋めてしまった……!!」


 こんなことなら面倒な夜会など必要なものだけ出席するように制限しておいたというのに。


 そもそもリーラを連れて来さえすれば。


 もっと言えば、あのとききちんと話し合わずに逃げたのが間違いだったのだ。


 今すぐにでも領地に帰ってリーラに謝りたいのに、茶会に夜会に舞踏会に、クロードの予定は山積み。多少は減らせても、気休め程度で帰っている時間の隙間はない。


 そんなクロードの横で、ジーンが処置なしとばかりに、ゆるゆると首を振った。






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