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 アイビーがいなくなったことで、使用人たちの態度がまた変わったと気づいたのは、リーラが寝室を出る許可を得たその日のことだった。


 なぜだろう。これまでよりもいっそう、距離を感じる。


 なにかされるわけでも、言われるわけでもない。どちらかと言えば怯えられているようだった。


 アイビーのことがあり、次は我が身とばかりに、極力リーラに関わらないようにしているのだろうか。


 どうも彼らは、リーラの不興を買えば即解雇と思っているらしかった。……アイビーのように。


 もう二度と彼らとの溝は埋まらないのかもしれない。そっちがその気なら、もうそれでもいい。


 リーラはこの際、アイビーが抜けた穴を補う新しい使用人を雇うことを思いつき、クロードにそれとなく進言したものの……。


「アイビーはよく働いてくれていたが、今の人数でもそれなりに回っているから、必要ないだろう」


 すげなく却下されて、食い下がったところで渋い顔。承諾は貰えず、こうしてわざわざ街まで降りて来てくすぶっている。


 求めていないことは進んでするのに。なに様だろう。書類上の旦那様なのだが。


 アイビーに言われたことをまだ気にしている情けない男のくせに。


「ため息なんかついて、どうしたんだい?」


 突然話しかけられて隣を見上げると、そこにいたのはジーンだった。ひとりで来たのか、クロードはいない。いつかの店で同じ果実酒を飲んでいたリーラの隣へと、彼はちゃっかり腰を下ろした。


「僕も同じものを」


 店員に注文するのを横目に、リーラは果実酒に口をつけた。


「お友達はよろしいんですか?」


 クロードへのわだかまりのせいでジーンに対してもつっけんどんなリーラだったが、彼は咎めることなくおかしそうに笑った。


「友人はどうも愛妻に愛想をつかされたようでね? 僕なんかに構っている暇はないらしい」


(愛妻? 愛犬の間違いじゃないかしら)


 クロードはリーラのことを負い目に感じていても、愛してはいないのだから、愛妻ではない。まだ全額返済していない以上、妻でもなくただの担保である。


(……)


 自分で断言して、傷ついている。どうしようもない。


「そういえば、ジーン様は奥様は?」


「いないよ」


「でしたら、婚約者様?」


 ジーンは注文した果実酒をひとくち飲んで、こともなげに言った。


「いないよ。恋人もね。子供なんて作った日には、妻子共々毒を盛られて殺されるのが目に見えてるからねぇ」


 リーラは驚いて、果実酒に入っていた小ぶりなベリーを噛まずにごくりと飲んでしまった。


 貴族だとは一目瞭然だったが、相当面倒な血筋の人らしい。これ以上詮索するのはやめた方がよさそうだ。


 しかしジーンは別段気にする様子もなく、できるだけ王都から離れてあちこちと地方を回り、信頼できる友人宅を転々としていると軽く言った。


「だけどこう見えて一応軍に籍は置いてあるから、戦争になったら出征しないといけない。もし妻や子供なんていたら、離れるのが寂しくなるだろう?」


 リーラは返す言葉が見つからずにそわそわと視線を彷徨わせた。


 今の治世で戦争が起こることはないと思うが、なにが起こるかわからないのがこの世の中だ。


 狼狽したリーラに、ジーンはぷっと噴き出した。


「安心して。今の国王陛下はそこまで馬鹿な人じゃないから。よほどのことがない限り、戦はしないって公言しているし」


「そんな会ったこともない人の言うことなんて信じられませんが……ジーン様がそう言うのなら、そうなんでしょうね。あなたの言葉は信じられます」


 ジーンは目をまん丸にしてから、ほかの客の視線が集まるほど大笑いした。


「国王を信じられないって、すごいことを平気で言うなぁ!」


 国王なんて、リーラからしたら遠くに住んでいる名前だけ知った見知らぬ他人だ。国のために身を粉にして働いているおえらい人なのは理解しているが、その姿をちらりとも見たことがないのだ。それなのに国王陛下の言うことだから間違いない、とは、軽々しく言えない。地位のある人が必ずしも正しいとは限らないのだから。


 とはいえ今の発言はいささかまずかっただろうか。


「今のでもし万が一、不敬罪に問われそうになったら、隣の国にでも亡命します」


「クロードも罪に問われたら?」


「国王陛下は馬鹿じゃないらしいので、きちんと爵位を持った貴族を、そんなつまらないことで罰したりはしないでしょう? それをするのは、馬鹿な王様と相場が決まっています」


「はは、そうだね」


「それにあの人はわたしを切り捨てればいいんだから、簡単な話で……」


 もしリーラが罪を犯したとしても、クロードは離縁するだけでいい。


「それができるほど薄情な人間ならよかったのにね……」


 やれやれとジーンが果実酒を飲む。


「ジーン様は、あの人のことが結構好きですよね?」


「人としてという意味なら、好ましいの範疇に入ると思うよ。それに普段のクロードって、感情がだだもれな感じが素直でかわいいだろう?」


 褒めているのか、貶しているのか。


「裏のある人間は苦手なんだ」


 兄とは合わないだろうなと思っていると、ジーンはリーラを向いた。


「リーラちゃんのことは好きだよ」


「ありがとうございます。わたしも、ジーン様のことは好きです」


 ジーンがにこりとしたので、リーラも微笑んだ。


 色恋関係なしの好意だとこんなに簡単に好きだと口にできる。


 ジーンは優しい。だけど、必要以上に親しくならないように一線を引かれているのもわかる。


 彼がリーラに触れようとするのは、決まってクロードがいるときだけなのだ。今もふたりの間には、ロロが入りそうなほどの隙間が存在している。


「クロードのことは?」


 リーラはなにも答えられなかった。


 それでも彼は、リーラが抱える気持ちのひとつひとつを丁寧に汲み取ってくれたのだろう。


「そっか」

 

 それ以上なにも言わずに果実酒を傾ける。


 不思議なもので、この人が夫だったらよかったのにと思わないほど、自分の夫がクロードであることに慣れてしまった。


 離縁すべきか否か。


 その答えは出ないまま、気づくとリーラは二杯目を注文していた。








 使用人の件で、リーラがすねて出て行ってしまった。


 なかなか帰って来ないことに焦ったクロードは、リーラを迎えに出かけて、そして、見てしまった。親し気に肩を並べてカウンターに座るふたりのことを。


 そうして、やめておけばいいのに、ふたりの邪魔をしようとして、聞いてはいけない会話を聞いてしまった。



 ――リーラちゃんのことは好きだよ。



 ――ありがとうございます。わたしも、ジーン様のことは好きです。



 微笑み合うふたりに、頭が真っ白になったまま、クロードはその店を静かに逃げ出した。


 今のは一体なんだったのだろうか。


 いくら反芻しても、告白以外の結論に至らなかった。


 ジーンははじめからリーラを気に入っているようだったし、リーラも彼の名前を呼ぶくらい心を許している。


 クロードに至っては、未だに名前どころか、旦那様とすら呼ばれたことがないというのにだ。


 どこをどう帰ったのかわからないが、クロードはいつの間にか庭でロロを抱きしめていた。


 とっさに逃げ帰ってしまったが、もし思いを告げ合ったふたりが今夜、帰って来ないなんてことになったら……。


 蒼白となったクロードは立ち上がった。しかし今さら引き返したところでときすでに遅し。いくら気持ちが盛り上がったとしても、後先考えずそんな思い切った行動にはさすがにでないだろうと、再びロロの毛皮に顔を埋めた。


(リーラは、ジーンが好きだったのか……)


 ショックだった。


 傷つく資格などないというのに、胸がえぐられたように痛む。


 どんなに嫌われていても夫婦だ。長年そばにいたら、いつの日か振り向いてくれるだろうと、心のどこかで慢心していた。



 もしリーラがジーンとの恋を貫くために離縁したいと言ったのなら――。



 クロードはなんとしてでも阻止するだろう。


 別に自分の気持ちを最優先したからではない。どう考えても、ジーンが誰かに本気になるとは思えないからだ。


 もし思い合っていたのだとしても、ジーンがリーラと結婚することはまずない。


 だがクロードがそう説得したところで、果たして彼女が信じてくれるだろうか。


 前に、本命がいたらクロードなんかとはとっくに離縁していると言っていた。


 ならば、ジーンと結婚できなくとも離縁という道を選ぶかもしれない。


 そうなればリーラの気持ちは、永遠にこちらへ向くことはない。


 アイビーにつけられた心の傷が、また痛みを伴って疼き出す。


 クロードは焦っていた。リーラから決定的な一言が出る前に、なにか行動しなくては、と。


 これといって案はない。もはや憎しみでもいいから、気持ちを繋ぎとめておかなければ、彼女は自分の元を去っていく。


 彼女の幸せを願い笑って送り出すなどという芸当、クロードにできるはずがなかった。


 ジーンはずっとここにいるわけではないので、離れたら気持ちが薄れるかもしれない。


(いや、その距離が逆に恋しさに拍車をかけるかもしれない)


 考え過ぎて思考がおかしくなってきた。そんなクロードを心配して、ロロが顔を舐める。


「ロロ……」


 ロロとの絆を深め合っていると、屋敷の方からマーティンが鼻息荒く駆けてきた。その手にはなにやら鉄製の籠のようなものがあったが、クロードはちらっと見るにとどめた。中を確認する気力は今はない。


「クロード様! ついにっ! ついにやりましたぞ!!」


 興奮するマーティンには悪いが、今は本当に、それどころではないのだ。クロードは生返事をする。


「……そうか」


「ええ、ええ! 苦節数ヶ月、ようやく、やつとの戦いに終止符が……!」


「……そうか」


「処分のほどはクロード様のご指示に従いますので、こちらをお部屋に置いておきます。よろしいですね?」


「……ああ」


 人の気も知らないで騒がしいマーティンは意気揚々と屋敷へと戻っていった。


 そんなことよりも、リーラとジーン、ふたりの様子をつぶさに観察しておかなければ。


 もし思いつめた顔で話があるとでも言われたら――。


 それこそ決定打だ。


(俺は、どうしたら……)


 そのとき、腕の中のロロが耳をぴくりと動かして、しっぽを振りながら、わんと吠えた。


 クロードは門扉へと重たい視線を向けた。


 どうやら彼らが、帰って来たらしかった。





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