23
「う……ん?」
朝日が昇ったばかりの、ほの明るい部屋でリーラは目を覚ました。
昨日の記憶が瞬時に蘇って来ると、慌てて手を動かそうとしたのだが、左手がまだ動かない。動揺を隠しきれずにおそるおそる目を向けると、毒の影響ではなく、その手は誰かに握られていたせいで動かせないだけだった。
ほっとしかけたが、いや待てと自分に突っ込む。
ベットに上体を預けるようにうつ伏せて寝ているのは、そのよく知る銀髪からクロードだろうことは判明している。慌てることはないが……。
一晩中つき添って、眠ってしまったのだろうか。リーラは自由な右手を伸ばして、その髪に少し触れた。自分のものとも、兄のものとも違う、見た目よりも固い髪質。そこには小さな葉っぱや小枝がついていた。
必死で探してくれたのだろう。身を清めもせず、リーラが起きるまでこうしてつき添って。
握られた手を、思わずきゅっと握り返した。
最低なクズ野郎なのは変わらないが、自分も大した人間じゃない。もしかすると似た者同士、ちょうどいいのかもしれない。
離縁したくないというのも、つまるところ、彼が自分以外とよろしくやっていることが許せないという嫉妬なわけで。
かといってこれまでのことを許したわけでもないので、リーラの心境は複雑だ。いろんな感情の糸がもつれあっている。
ロロにするみたいにわしゃわしゃなで回すと、クロードはむくりと顔を上げた。その深い海のような濃い青の瞳と目が合うと、ほっとしたような、泣きそうな顔をされて、また調子が狂わされた。
起き抜けになにか辛辣なことを言ってやるつもりだったのに、考えていた言葉は丸ごとお腹の奥に逆戻り。
「起きられるか?」
クロードは寝起きとも思えないシャキッとした様子で、甲斐甲斐しくリーラの背中を支えて起こす。彼は自分を背もたれにするように体を預けさせると、自由になった両手で手早くコップに水を汲み、リーラの口元へと運んだ。
「水だ。飲めるか?」
答えるよりも先に喉の渇きが勝って、こくりとそれを飲んだ。自分の手を使わず彼が飲ませてくれるので、最後は唇の端から少しこぼしてしまった。服の袖で拭こうとしたが、それより先に彼が清潔な布で拭い取ってくれる。
もはや調子が狂うどころの話ではなかった。
(どうしたの、この人?)
リーラは沈黙は金とばかりにおとなしくしていたが、クロードが使用人にセトを呼んでくるよう指示したことでちょっと背筋を伸ばした。
「まったくおまえというやつは! まぬけが聞いて呆れるよ!」
「ごめんなさい……。それと、探すようけしかけてくれてありがとうございます」
セトはふんと鼻を鳴らした。
「よくわかってるじゃないか。慈悲のかけらもないこの屋敷の住民どもは、ひとり残らず根性から叩き直してやりたいくらいだったよ」
「面目ない」
クロードがすでにしつけられている。さすがだ。
セトが散々文句を言ってクロードがたじたじになっているのをひそかに堪能して、回復したらまた改めてお礼を言いに行くことでセトは帰って行った。
入れ違いに、騒ぎを聞きつけたジーンがひょっこりとやって来た。
「調子はどう?」
彼はセトの座っていた椅子に腰を下ろし身を乗り出すと、リーラの背を支え続けていたクロードが邪険に押し返す。
「近い」
クロードがなぜか子を守る母虎のようになっているので、ジーンは笑いを噛み殺しながらも身を引いた。
新手の嫌がらせだろうか。気恥ずかしくて困るのだが。
「そういえば、あのメイドの子辞めるんだってね? 引き止めなかったのか?」
なんの話だろうか。リーラは問い返した。
「メイドの子?」
「アイビーだよ。出て行くみたい」
リーラは戸惑いながらクロードを振り返る。彼は難しい顔のまま、目をそらす。どうやら本当のようだ。
「あの子、辞めてほかに行くところがあるのか?」
「……いや、なにも聞いていない」
クロードは静かに首を振る。
行くところがあるのか、あてもなく彷徨うのか。
リーラはアイビーのことが嫌いだ。向こうだって同じだろう。
だからこそだ。
(一言の謝罪もなく辞めるなんて、そんなの……許さないわよ!!)
リーラは唇をわななかせながら、クロードを振りあおぐ。
「まだいるんでしょう? アイビーをここに呼んで」
「……なぜ」
「いいから、呼びなさい! あの子がわたしを突き飛ばしたせいで、毒草なんかの棘に刺さったのよ!」
この際、彼女を悪者にしてでも呼びつけなければ気が済まなかった。
クロードもジーンも、突然癇癪を起こしたリーラにも、その言葉にも驚いたようだった。まさかみんなして、ドジなまぬけが起こした事故だと思っていたのだろうか。それはそれで腹が立つ。
「いいから呼びなさい! 今、すぐ!」
「わ、わかった……」
クロードは使用人に今度はアイビーを連れて来るよう命じた。
しばらくして現れたアイビーは不服そうだった。
「なにか用?」
「アイビー、その口の利き方は……」
「あたし、もうこの屋敷の使用人じゃないんで」
そう言われてしまうとクロードに勝ち目はない。屋敷の人間でないのに言葉遣いまでとやかく口を出すわけにはいかないだろう。
リーラは正直、今は引っ込んでいろと、真剣に思った。こういうとき、男が女に口で勝てるはずがないのだから。
リーラはクロードを押しやって、アイビーと対峙した。
「あなた、よくもわたしを突き飛ばしてくれたわね。おかげでこのざまよ」
自分のせいだとは思っていなかったのか、強気だった態度が一瞬だけ、軟化した。
「そんなの、わざとじゃ」
「わざとじゃなくても、謝って。黙って逃げるなんて、許さないから」
アイビーは、ふてくされながらも、ごめんなさいと形ばかりのぺらぺらな謝罪をした。カチンと来た。
「ねえ、もういい? じゃあ、失礼しました」
さっさと背を向けたアイビーに、クロードが声をかけた。
「待てアイビー、行くあてはあるのか?」
彼女の肩が強張る。
「関係ないでしょ。もういい?」
行くあてなどないだろう。彼女の投げやりな様子から、このままだと娼婦にまで身を落としかねない危うさがあった。
だからこそ、クロードは引き止めたいのだと思う。
だがリーラは……。
出て行ってほしい。
できればどこか遠くへと。
初夜を奪われたあの日の恨みを、まだ果たしていない。
「待ちなさい。わたしは許さないと言ったわよ? 自由になんてさせない。次の勤め先を紹介してあげるから、そこに行きなさい」
「はぁ? ……なんの魂胆?」
疑うのは当然だ。リーラからの慈悲など、気味が悪いに決まっている。
だけどリーラは優しくはない。
頰をぶたれたことも、まだ忘れてはいないのだ。
「まさかキンブリーの屋敷とは」
リーラは実家へとアイビーを強制送致した。逃げないように見張りもつけさせる徹底ぶりで。
ヴェルデはリーラにはあまいが、自分には厳しい人だ。だから到底貴族とは思えない清貧な暮らしを送っている。
贅沢三昧だったキンブリー一家と、清貧な暮らしを営む領民たちの両方を見て育ったヴェルデは、人としてなにが一番大切なのかを身をもって学んだのだ。
いくら着飾っても、心の貧しさは隠しきれない。キンブリー前子爵も、子爵夫人も、その長男も。心が満たされないゆえに、ヴェルデとリーラへと怒りの矛先が向かっていたのだと、兄は冷静に分析していた。
しかし主人がそうならば、使用人たちも自ずとそのような生活になるわけで。
キンブリー子爵家は今まさしく、修道院のような場所だった。
どんなにねじ曲がった根性の人でも、ここで働けば真人間になるはずである。
(本当の修道院でないだけましよね)
給金は相場を払っているし、なにより、結婚もできる。
もちろんほかのところに行きたければそうすればよかったのだが、クロードがリーラに賛同したのだ。
やはり自分の元にいた使用人を、身ひとつで放り出したくはなかったのだろう。ヴェルデのところなら近況を知ることもできて、安心安全と判断したようだった。
リーラにしたことを罪に問われたくなければキンブリーの屋敷に行けと、脅しまでかけたほどだ。
さすがに蒼白となったアイビーはリーラをにらんでいたが、やがて諦めたように受け入れた。
出て行くと啖呵を切ったものの、結局のところ、行くあてなどなく困っていたのだろう。
恩情をかけたわけじゃない。彼女が身を落として、逆恨みの末後ろからぶすりと刺されたくなかっただけのこと。
それにたぶん、知ってほしかったのだ。
兄が後を継いで、昔とは様変わりしたあの土地のことを。
まだまだこれからのところもあるけれど、それでも、彼女に見てほしかったのだ。
きっとこんなことでもなければ、足を踏み入れようとは思わなかったはずだから。
押しつけがましい自己満足だが。
それにアイビーも、ここから離れれば、まともな感覚を取り戻すかもしれない。なぜこんな男に執着していたのかと、目が醒めるはずだ。
(……こんな男)
りんごを剥いている憂い顔のクロードを横目に、リーラは嬉しかったり腹立たしかったりと、感情の振り幅が大きすぎてさっきからずっと疲弊している。
「アイビーがいなくなって寂しいの? 愛人役を頼んだくらい、仲良しだったものね」
「まだ疑っているのか?」
「まあ、そうね」
「だったら、その心配はないとはっきり言える。アイビーは……俺のことが、嫌いだったみたいだから」
クロードはしんみりとしながら、無駄にかわいくうさぎの形にしたりんごをフォークに刺して、リーラへと手渡した。
(この人、頭沸いてるのかしら)
ぽかんとするリーラに気づかず手にフォークを握らせると、彼は深い嘆息をもらした。
「もしかして、なにか言われたの?」
「……ああ。かなりきついことを」
(あの子は普段からそうじゃない)
クロードの前では猫をかぶっていただけで。
「なにを言われたのかは知らないけど、人の言うことをいちいち真に受けていても神経すり減るだけよ。なんて言われたの?」
クロードはちら、とリーラをうかがう。その仕草がかわいいと一瞬でも思った自分に呆れ果てる。こんなの、自分の趣味が悪いか、被虐趣味の性癖でもあったとしか考えられないのに。
(極限状態で自分を監禁した犯人に恋をする心理、というやつかしら?)
それならわからなくもなかった。きっとそうだ。
「いや、言わない。さらに落とされる気がする」
アイビーはなかなか核心をついた辛辣なことを言い捨てていったらしい。
リーラはしゃくりとりんごを食む。
……というか。
この男、なぜ人の部屋に居座り、りんごまで剥いているのだろうか。この屋敷の主人だろうに。
「暇なの?」
「暇なわけないだろう!」
「だったらどうぞあちらに」
リーラは出入り口のドアへと手のひらを向けた。
「……」
「どうぞ?」
「……まだ、看病する人が必要だろう」
「暇な人にお願いします」
「暇な人が、この屋敷にきみ以外いると思うか?」
真顔で言われてリーラはむっと眉を上げた。それではまるでリーラがタダ飯ぐらいの役立たずな寄生虫みたいではないか。
「お帰りはあちらです」
リーラの声の調子が鋭くなったことでようやく怒らせたことに気がついたクロードだったが、なにか言う暇を与えず追い出した。
「誰のせいで暇なのよ」
リーラは腹立ち紛れに、目の前のりんごを音を立てて噛みちぎった。




