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 日が暮れていくのをこんなにもじっくりと見たのはいつぶりだろうか。


 リーラは首を回すことすら叶わない状態からまだ抜け出せずに、ようやく薄っすら開くことのできたまぶたの隙間から、橙の空を群青が塗りつぶしていくのをひたすら眺めていた。


 売り言葉に買い言葉だが、アイビーを逆上させたのはリーラ自身だ。


 つまり今の状況は自分で招いたものであり、今回ばかりはアイビーを恨むのはお門違いだと理解している。


 とはいえ、アイビーと出くわしたことが、そもそもの不運だったと、そのことだけが悔やまれる。


 こうしてじっくりと考え事をする時間が与えられたのだと、好転的に考えよう。


 自分の幸せとはなんなのか。


 まずはそこへ戻らなくてはならない。


 これまでは、結婚して、子供を産んで、育てて。そんな風に一般的な女性の思い描く幸せを、なんの疑いもなく自分の幸せだと信じてきた。


 幼い頃は王子様が助けに来てくれるのだと夢に描いていたが、実際助けてくれたのは実の兄で、一瞬でも王子様みたいだと思った相手は、自分を復讐の代替品としてしか見ていない最低な男だった。


 心を入れ替えて反省しているらしいが、彼の行動は少しずれているので、リーラの心にはあまり響いていないのが現状だ。


 ただ、なにかしようと努力していることは、認めている。


 リーラを喜ばせようと必死な様子は、前の彼からは想像もつかないものだ。


 たとえばこれが、贖罪などではなく、彼なりの不器用な愛情表現だったのなら。


 空回りだが、微笑ましく思ったことだろう。嬉しいとさえ感じたかもしれない。


 リーラは夜空に描く星を見つめて、形だけのため息をついた。これで呼吸器官まで麻痺する毒だったら、ため息をつく暇もなく死んでいる。


 もしリーラが死んだら――。


 兄は嘆き悲しむだろう。ロシェット伯爵家のすべての人間を生きたまま焼き殺すくらいのことはするはずだ。


 セトは、怒るだろう。自分よりも先に死ぬなどなにごとかと、死んだ後まで怒鳴られそうだ。


 ロロは……不思議に思うかもしれない。どこに行ったんだろうと、庭や屋敷を探し回ってくれるかもしれない。


 それなら、クロードは。


 あの人はリーラが死んだら、どう思うのだろうか。


(……わからない)


 いくつも想像は浮かぶが、すべてしっくりと来なかった。


 だけどどう思ってほしいかだけは、すぐに浮かんだ。


 後悔や罪悪感などではなく、純粋に、リーラに生きていてほしかったと、泣いてほしい。


 リーラだけのために、泣いて希ってほしい。


 そうすれば、最期だけは、夫に愛された妻のように逝ける。


(……まあ、そう簡単に、死にはしないけど)


 眼球が乾いてきたせいか、涙の膜が張った。


 もうどれくらい経ったのか。このままだと完全回復までは一晩かかるかもしれない。なんて厄介な毒なのか。比較的温暖なこの土地に救われた。


「……あ……うぅ」


 声を出そうと努力するも、舌が自分のものではないようにまるで言うことを聞いてくれない。


 意識が遠くへと旅立とうとしはじめたとき、ふと、誰かの声が聞こえてきた。


 リーラ、と、聞こえた気がする。


 信じられずにいると、明かりがこちらへと近づいて来るのに気づき、一生懸命声を張り上げた。


「ぁ、……う、……えぇ」


(助けて!)


 どうせ誰も来ないと諦めて強がっていたが、本当は心細くて、自分の愚かさにこれでもかというくらい打ちのめされていたのだ。素直に認めると滂沱のような涙があふれてきた。


 がさり、草が揺れる。そこから、ぬっと黒く湿った鼻先が突き出た。思わず息を呑んだが、草を割って飛び出してきたのは、クリーム色の毛皮を持つ大型犬。愛すべきロロであった。


 これほど歓喜したことはない。


(ロロが助けに来てくれた!)


 ロロはべろんべろんとリーラの顔の涙を舐め取ると、リードの先に繋がる人へ、わん、と吠えて堂々と胸を張った。


「えらいぞ、ロロ! まさかそんな特技があったなんて! さすが我が家の番犬だ!」


 こんなときでも先にロロを褒めるぶれないクロードに、リーラは呆れを超越して普段以上の冷静さを取り戻してしまった。


「リーラ? 大丈夫か!?」


 身じろぎひとつしないリーラの様子に、さっきまでロロを褒め称えていたその顔に、みるみる不安の色が押し寄せていく。


 こんなところにのんきに寝ているとでも思っていたのか。彼の中の自分はどんな人間なのか。


 ロロもリーラに遊んでもらえないことを不思議に思っているのか、リーラの肩をちょんと前足でつつき、わふぅ、と切なげな声をもらした。


「リーラ? おい! 聞こえてるのか!」


(うるさい。耳元で叫ばなくても聞こえてるわよ)


 そう返そうにも、毒と彼のロロ愛に、うめきをもらす気力すらごっそり奪われている。


 まさかロロに嫉妬する日が来ようとは。


 そこではた、と、今思ったことを振り返る。


(…………嫉妬?)


 まさか。


 毒のせいで頭がどうかなったとしか思えない。


 動揺しているリーラの体を抱き起こして、クロードは必死に叫び続けている。リーラの気も知らないで。


 わんわん、ロロが飼い主を叱咤するように吠えた。


 それでようやく我に返ったのか、彼はリーラをしっかりと抱き上げると、ロロ先導の元屋敷へと急ぐ。


 揺られながら、リーラは自分の感情を受け入れ切れずに、意識を闇へと投げ捨てた。









 捜索隊に見つかったことを伝え、リーラを腕に抱いて屋敷へと急ぎ帰り着くと、セトが厳しい顔でぴくりともしない彼女の体を調べ、手のひらにいくつかあった傷跡に納得の顔をした。


「まぬけな子だね、あれほど気をつけろと言ってあったのに」


「大丈夫なのか? このまま死んだりは……」


「縁起でもないことを言うんじゃないよ! 体が痺れて動けないだけさ。一晩も経てばすぐに元通り動くようになる」


 クロードは安堵で、リーラを寝かせたベットに倒れ込みそうになった。


「様子を見といてやるから、あんたは自分のやるべきことをやっておいで」


 クロードは彼女の意を汲み、リーラはセトに任せ、捜索に出ていた使用人たちが全員戻って来ているかの確認をしてから、セトの相手をしてくれていたジーンに感謝を伝え、そして――最後に、アイビーに向き合った。


「どうして最初から言わなかった」


 アイビーはセトに杖で打たれたことですでに戦意喪失していて、クロードの質問にも素直に答えた。


「確かに偶然会ったけど、それとは関係ないと思ったから……」


「おまえがなにかしたわけじゃないんだな?」


 落ち込んでいたアイビーが弾かれたように顔を上げた。疑われたことがよほどショックだったのか、泣き顔で猛抗議した。


「あたしがあの人をわざと怪我させて置き去りにしたって思ってるんですか!」


「思ってるかどうかじゃなく、事実の確認だ」


「言い争いはしたけど……そんなこと……」


 尻すぼみになるアイビーに、クロードはこめかみを押さえて小さくため息をついた。


「いいか、アイビー。次はないと言ってあったはずだ。彼女は俺の妻だ。言い争うことも本来なら許されることではない」


 これまでだって言い聞かせていたのだが、アイビーにはなかなか受け入れ難いことだったらしく、仕方ないのでしばらくはふたりきりで接触しないよう取り計らっていたのだが。


(こんなことになるのなら、もう少し監視の人数を増やしておけばよかった)


 リーラはクロードの妻だ。味気ない紙切れ一枚の繋がりしかないが、それでも妻の欄に自分の名前を書いた以上、ロシェット伯爵夫人なのだ。


 使用人たちとリーラの間にある壁は、まだまだぶ厚く高い。どうしたら彼らが彼女のことを受け入れてくれるのかと頭を悩ませていると。


「クロード様は……あの人のことを、愛してるんですか?」


(愛してる……?)


 そんなはずがない。そうやって否定すればいいのに、毒にでも侵されたように、なぜか思ったように口が動かなかった。


 彼女を妻として扱い、できる限りの自由を許し、望むことを叶えることで喜ばせようと柄にもなく努力している。


 それはすべて、贖罪のためだ。


 なのに。


 それだけだと断じられる自信が、今確かに揺らいでいる。


 彼女の言動に一喜一憂する。


 離縁されたくない。


 これから先は自分のそばで安心して暮らしてほしい。


 できることなら自分の子供を産んでほしい。


 ずっとそばで、笑っていてほしい。



 なにより……誰にも取られたくない。



 さっき彼女が反応しないのを見て、失いたくないと思った。



 これは。



 この感情は。



(まさか……)



「あの人は、苦しめばいいって」



 はっとしてアイビーを見た。彼女は悲しげな笑みを浮かべて、クロードを夢から現実へと突き落とした。



「クロード様が愛されることなんて、たぶん一生ないよ」



 なにも言い返せずにいると、アイビーが自分から暇を申し出た。


 引き止めることも、できなかった。


 アイビーが残した棘が心に刺さったまま、クロードは彼女の背中が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。


 なにをしても、愛されない。


 当然ではないか。


 無理にでも笑おうとしたが、無理だった。


 許されないことよりもつらいことなど、あるとは思わなかった。


 セトと交代して、クロードは眠るリーラの手を握った。


 月明かりに照らされた滑らかな頰に触れる。こんなこと、起きているときには決して許してくれないだろう。


 聞こえていないからこそ、クロードは素直に告げた。


「愛されたいなど……そんなおこがましいことは、思っていない」


 言えた義理ではないと、誰よりもクロードが知っている。


 恨んでいても、憎んでいてもいい。


「そばにいてほしいだけなんだ……」


 我ながら傲慢な願いだ。


 こんなことを口にすれば、彼女は喜んで離れていくことだろう。


 いつかのジーンの言葉を思い出す。好色な爺の方がましだと。もしかするとその通りなのかもしれない。


 だけど、手放せない。


 それが彼女の幸せだとしても。


 アイビーのおかげで自覚した。


 自分はリーラを、愛しているのだろう。


 苦しめるだけなのに。


 苦しむだけなのに。



(……愚かだ)



「早く目を覚ませ」



 クロードはリーラの手の甲を、額へと当てた。



 冷たい目でもいいから。



 蔑むような目でもいい。



 だから。



 早く目を覚ませと、クロードはただそれだけを願った。




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