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 ジーンがロシェット家へと舞い戻ってきたのは、彼が出て行ってからちょうど、ふた月ほど経った日の午後のことだった。


 いの一番で迎えたロロには犬用のビスケットを、そしてリーラには、腕に抱えていた大ぶりの花束を手渡した。


「はい、おみやげ」


「わたしがもらってもよろしいんですか?」


「うん、きみにあげるために持ってきたからね」


 その紅色の花はキンブリー領の特産品だった。豊かな芳香をしており、玄関ロビーは一瞬で懐かしいその香りに包まれた。


「わざわざ取り寄せてくれたんですか? ありがとうございます! こんな風に男性からお花をもらったの、はじめてです」


 花束を抱きしめて、香りを楽しもうと鼻を近づけようとしたとき、横から伸びてきた無粋な手によって丸ごと奪い去られた。


「その辺の花瓶に活けておいてくれ」


 手近なメイドに指示するクロードに、恨みがましく視線を送る。


「心が狭いなぁ。リーラちゃんもそう思わないか?」


 そうつぶやいてリーラの肩に気安く手を置こうとしたジーンは、割り込んできたクロードによって阻まれ苦笑しながらその手を下ろした。


 腰を抱かれクロードの方へと引き寄せられたリーラは、その手をすげなく払って距離を取った。


「触らないでもらえますか」


 ぐっと、言葉を呑み込みなにも反論できずに引き下がるクロードを目にして、ジーンは大笑いした。


「あの不遜なクロードが、妻の尻に敷かれているじゃないか!」


 その言葉に引っかかりを覚え、リーラは目をぱちくりとさせた。


「知ってらしたんですか?」


「ああ、うん。気づいてはいたけど、黙って様子を見ながらきみたちに合わせていた。ごめんね?」


 クロードの苦虫を噛み潰したような顔を見やり、また笑いのツボを刺激されたのか、今度は腹を抱えて笑い出すジーン。浮かんだ目尻の涙を拭って、呼吸が整ってから、ようやく話を再開させた。


「で? やっと紹介してくれる気になったんだ?」


 クロードが嫌そうに顔をしかめながら、今回ははっきりと認めた。


「妻だ」


「はじめまして、ロシェット伯爵夫人」


 ジーンがリーラの手を掬い、甲に軽くキスを落とした。


 リーラの頰は朱に染まる。まるで自分がどこかのお姫様になったようで、ふわふわとした心地を味わっていると、横から地を這うような低いうなり声が響いた。


「なんでそんな顔をする。だいたい、俺だって花を贈ったじゃないか!」


 まったく心当たりのなかったリーラは懐疑的な視線をクロードへと投げた。


「それ、よその女にあげたのと混同してませんか?」


「あげた! 確かに! この間すみれの花をやっただろう!」


「ああ……」


 リーラは思わず遠い目をした。贈り物だったのか。そうとは知らず、おやつだと思って食べてしまった。なんなら、草でも食っておけくらいの意味合いかとさえ思っていた。


「その前にも贈ってやっただろう」


「いつの話ですか?」


「その……色々あって、きみが引きこもっていたとき、台車に」


 確かに部屋の前に置かれた台車には花が添えられていたが。


「あれは普通に食卓を彩るための飾りだと思いましたが?」


 リーラはなにも間違っていない。装飾と思っても不思議ではない。だって誰からもなんの説明もなかったのだから。


 愕然としているクロードに、リーラは無意識にトドメを刺す。


「あのすみれにしたって、メイドに手渡されるとき、特に贈り物だなんてこと言われませんでした」


 どうせ渡しておけと命令しただけなのだろう。人伝てにするから真心が伝わらないのだ。


 やり取りの最中もくすくすと笑っていたジーンですら、残念そうな視線をクロードへと注いでいる。


「プレゼントをメイドに任せるって……。同じところに住んでいるんだから、その手間を惜しんだクロードが全面的に悪いだろう」


 友人にもやり込められたクロードは、この件に関しては分が悪いと思ったのだろう、リーラにロロのブラッシングをするよう命じて追い払った。









「同席していてもよかったのに」


「あれを見るな、触るな、口説こうとするな。奪う気もないくせに」


「いいや? すべてを知ってもまだ彼女を虐げているのなら、今とは違う対応を取ったよ」


 そこに侮蔑の色を感じて、クロードは押し黙る。ジーンには見抜かれるだろうことはわかっていたが、自分の妻として彼女を紹介するには、嫌悪感が勝ちすぎていたのだ。あのときは。


「そういうプレイならいいけれど、違うだろう? 僕はきみに言ったはずだ。復讐なんてつまらないことはやめろ、と」


 クロードは今度こそ完全に言い返すことができなくなった。


 すべてをジーンに話していたわけではない。ただ、ぶどう酒の出来が素晴らしい年があって、そのときに限界まで試飲させられ、酔わされて、少しだけ、昔のことを話してしまったことがあった。


 もちろんキンブリーの名は出していないし、そのときはまだなんの計画も立てておらず、漠然と恨みつらみをもらしただけだった。


 ジーンは一体、どこまで知っているのか。


 あますところなく筒抜けなのかもししれないと思うと、クロードはもう、観念するしかなかった。


(だから嫌だったんだ。こいつにリーラを見せるのは)


 ジーンは人を見る目がある。それは内面的なことだけでなく、外見的なことも含めてだ。一度目にした人間の顔だけでなく、身長や体格、癖まですべて細かに記憶しており、普段と違う行動言動を決して見逃さない洞察力があった。


 生まれつきそうであったわけではない。そうでないと生きて来られない環境に身を置いていたからだ。


 二度三度と暗殺されかけたら誰でもこうなると笑っていたが、誰にでもできることではない。


 本人すら気にしていない足の不具合に目ざとく気づいたのは、そういう事情があってのことだった。


 それがなければ今もリーラの心を殺し続けていたのかと思うと、クロードはジーンに頭が上がらない思いだ。


(元より頭の上がらない人だが)


 ジーンはやれやれとため息をついてソファにもたれかかった。


「きみに会いに来たと言ったのは本当だよ。人の家庭の事情に口を出すつもりもなかった。実際ギリギリまで、きみの良心を信じていたんだけどね」


「思い切り引っかき回したじゃないか」


「きみのためだ」


 ジーンはまっすぐクロードを見据えて断言した。リーラのためではなく、なぜクロードのためなのか。やはり彼のことは深く理解できない。


 彼は独り言のように言った。


「きみがめんどくさい相手を敵に回すからだ。僕は貴重な友人をそう簡単に失いたくはなかった。だから、自分のためとも言えなくもない」


「めんどくさい相手?」


「きみは気にしなくていいよ。世の中にはそういう手合いがいるというだけの話。きみたちの関係が改善されたから、差し当たって問題はないはずだ。……それよりもきみたち、ずいぶんとおもしろいことになっているじゃないか」


 前よりもいびつな関係になっていたけどね、とジーンが笑いながら言う棘のある一言を真正面から受けて、クロードはうなだれた。


「おもしろくはない」


「そりゃあクロードはおもしろくないだろう。なにせ、愛しい妻の心が永遠に手に入らないんだから」


「愛しい?」


「おや? 自覚なし?」


「自覚? リーラにはイライラかモヤモヤしかさせられていないが?」


 なにをしてやっても喜ばない。これではなにひとつ償えていないのと同じだ。


 それなのにジーンから花を受け取ったとき、手にキスされたとき、リーラはクロードには決して見せない乙女の顔をした。


 自分には願っても向けてもらえない微笑みを見せた。


 腹の奥がじくりと疼く。


「まあ、それでもいいよ。僕から言えることは、自分の行いの責任は持て、ということぐらいだな」


「……わかっている」


 リーラがどれだけ騒ごうと、この国の法でクロードが罰せられることはない。


 だから生涯をかけて償っていくしかないのだ。


「生涯って。重っ。この分だと離縁される日も近いかな」


 クロードはむっとした。


「離縁はしたくないと、彼女が言ったんだ。……どこかの好色な爺の後妻になるよりはましだと思っているんだろうが……」


「え? なんで自分が好色な爺より上だと思っているんだ?」


「どう考えても上だろう! 自分で言うのもあれだが、見た目も悪くないし、若くて健康で、育ちが悪いことは認めるとしても、その分他人よりも努力したし、なにより愛人を囲うような甲斐性もない!」


 ジーンが目を丸くしてから、噴き出した。なぜ笑いを提供してしまったのか本気でわからない。


「自分のことは自分で見えないものというけれども。ここまでとは。一番大事なことが抜け落ちているよ」


「ほかに、なにかあるのか?」


 ジーンはとんとんと、指で胸を叩いた。


「心。内面」


 今度こそ完全に打ちのめされたクロードだった。





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