19
書斎の前でうろうろしていたリーラは、そのドアが開くと、ぱっと顔を輝かせた。
クロードと事務的な会話をしながら応接室から出てきたのは、数ヶ月ぶりに再会した兄。屋敷に訪れるなりクロードとの話し合いに入ってしまった彼に、リーラはようやく涙をこらえて駆け寄った。
「兄さん!」
リーラの元気そうな様子に、ヴェルデは顔を綻ばせて飛びついてきた妹の体をぎゅっと抱きしめた、が。
「リーラ……痩せた、ね?」
ヴェルデから笑みが消えた。最近はかなり食生活も向上しているので、これでも増えた方なのにとリーラは唇を尖らせて抗議した。
「太っただの痩せただの、安易に女性の体型について口を出しては嫌われるわよ?」
リーラは変わらないな、と目を細め、ヴェルデは体を離した。兄こそ最後に会ったときより痩せている。
だけどお互いを憂い合うのも今日までだ。
クロードは契約書の内容を大幅に見直した。利率を修正すると同時に、これまでの利息の過払金は元金返済へとあて、毎月の支払いは収められる範囲内で構わないなど、こちらに有利な条件をいくつか追加して再度契約を結び直したのだ。
するとすでに半分近く払い終えていることが判明し、一年も待たず、キンブリー子爵家の借金は全額返済を終える計算になるらしい。
リーラはこの件に関してのみ、クロードに感謝した。直前まで教えてくれなかったことを不服に思っていたが、それも水に流してあげてもいい。
「ありがとうございます!」
兄に会えた嬉しさも伴い、満面の笑みを彼へと向けた。
「あ、ああ……」
どこかぎこちない返事をしたクロードを無視して、リーラはすぐにヴェルデへと向き直ると庭へとぐいぐい手を引いて歩いた。ロロを紹介するためだ。
「あのかわいいわんちゃんなら、到着して一番にお出迎えしてくれたよ」
「ちゃんとあいさつはしてないでしょう? 最低でも三回はボールを投げてあげないとだめよ。それに夜には白きMの一族も紹介するから!」
ヴェルデはふ、と優しげに笑む。
「ぜひそうしておくれ。彼らが何者なのか、これでようやく謎が解ける」
はつかねずみと知ってもヴェルデならきっと驚かないはずだ。楽しみでたまらない。これから先もずっと兄がそばにいてくれたらいいのに。リーラは小さな子供のようにそう思った。
庭でロロと飽きるほど戯れてから、設えられたベンチにふたり並んで腰を下ろすと、ヴェルデがおもむろに口を開いた。
「ごめんね、リーラ。僕が未熟なばかりに、きみにつらい思いをさせて」
「わたしはこの通り元気よ?」
「……今は、だろう?」
リーラは言葉に詰まった。
やはりわかってしまうのか。兄に心配かけまいと明るく振舞っていたが、隠す必要がないのなら。肩肘張っていたが、それもすべて抜け落ちてしまった。
「……兄さんのせいじゃないわ」
すべてあいつのせいだ。死んでなお人のことを縛り続ける、あの男の。
「だけど苦しんでいるときに、僕はなにもできなかった……。もしリーラが、一言でも助けを求めてくれたら、ロシェット伯爵を殺してでも助けに来たのに……」
(そう思ったからよ)
だからクロードや使用人たちへの恨みつらみは決して書いたりしなかった。兄ならやりかねないし、なんなら計画も立ててすでに準備段階へと入っていたかもしれない。
クロードはろくでもない男だが、領民たちに慕われているのを知っている。今クロードがいなくなれば、彼らが困る。ロロも悲しむ。
それに。これに関してはリーラとクロードの問題だ。
彼のことは心底軽蔑しているし許しもしないが、前キンブリー子爵に抱く憎しみとは、まったく違う。
彼の気持ちに同調してしまったからかもしれない。彼の過去の話を聞いて、正直、殺したいほどには憎めなくなった。自分の手で前キンブリー子爵を殺してやりたかったという気持ちは、痛いくらいに共感できた。
だけどリーラは、そんな大それたことを行える度胸も、事故に見せかける巧妙さも、持ち合わせていない。平凡な娘だ。
リーラの世界は兄がすべてだった。
だけど今は少し違う。
ヴェルデは一生大切な兄だが、もう彼だけがリーラのすべてではない。
「これは夫婦の問題なんだから、兄さんは絶対に、口を出さないで。もちろん手もよ? わたしだって、いつまでも守られてばかりの弱い女の子じゃないわ」
ヴェルデがわかったよと言いながらリーラの肩を抱き寄せ、頭をぽんぽんと労うように叩いた。
「それでも。僕はずっとリーラの兄さんだ。お金を返し終えたとき、リーラがここではないどこかへ行きたいと願うのなら、なにも気にせずひとまずうちに帰っておいで。そのままずっとうちにいてもいいし、もしどこかへお嫁に行きたいのなら、新しい嫁ぎ先も探してあげるから」
ヴェルデは本心からそう言っているとわかり、泣いてしまいそうで、リーラは蝶を追いかけ回っているロロへと視線を固定しながら、自分の気持ちを素直に吐き出した。
「離縁はしない」
「リーラ、無理しなくていいんだ。もし出戻ることを気にしているのなら大丈夫。リーラひとりを養うくらいわけないよ。それに本当はね、リーラにはいくつかいい嫁ぎ先の候補を見つけてあったんだ」
「離縁したわたしが嫁げるところなんて、誰かの後妻くらいでしょう?」
ヴェルデは意味深に微笑んだ。
「別に貴族でなくてもいい。そうだろう? リーラに好きな人ができて、相手もリーラのことを想ってくれるのなら、貴族も平民も関係ない。それで充分じゃないか。自らの幸せを放棄してまで、ここにしがみつく必要はないんだよ」
「わたしの、幸せ……?」
そんなこと、考えたこともなかった。
いや、忘れていた。セトとの会話も。
あの頃、どれだけ冷遇されようとも、自分の幸せを探そうと決めたじゃないか。平凡でも人並みに幸せになりたいと、思っていたはずなのだ。
(すっかり……忘れていた)
自分は、クロードが再婚するのが許せないと、妻の座に固執しているのだろうか。
やられたらやり返さなければ気が済まないと思って。
復讐からはなにも生まれないと、彼が証明したばかりなのに。
だったら、このまま彼の妻でいるのは、間違っているの――?
それでも。
もう少しの間だけは。
せめて借金がすべて返済し終えるまでは。
なぜだろう。
不幸でいたい。
それに、クロードがほかの誰かと幸せを築くことを、やはり、どうしても許せないと思うのだ。自分の幸せなんかよりも、ずっと。
「気持ちの整理がつかないだろうから、今すぐ答えを出さなくてもいいよ。だけど返済を終えたら、一度兄さんと一緒に帰ろう? リーラに優しい我が家に」
ぽたりと手の甲に涙が落ちた。立て続けに、いくつも、いくつも。
ヴェルデはそれ以上なにも言うことなく、妹の頭を日が沈むまで、何度も優しくなで続けた。
*
ヴェルデが帰ってからというもの、リーラは目に見えて気落ちしていた。
食事もいつもの半分も喉を通らない様子で、クロードが話しかけても生返事。減らず口が懐かしくなるほどだ。
慰め方ひとつわからないクロードは、一般的な女性相手にするように、花を贈った。華美なものではなく紫色の野の花を選んだのは、リーラをイメージしてのことだった。
しかしその愛らしい花は花瓶に飾られることなく、その日のうちに砂糖漬けとなり、後日彼女の口に収まったという。
クロードは憤慨したが、リーラが喜んだのならそれでもいいかと怒りを鎮めた。次からは食べ物を贈ろう。
しかし次に贈った焼き菓子はリーラの腹に収まることなく、テーブルに置きっ放しにされていたのをロロがペロリと平らげたと聞き、ますます腹回りの怪しくなってきた愛犬の食事をダイエットメニューに変更するはめとなってしまった。
ならばと、ロロと遊べるおもちゃを贈ると、返ってきたのは呆れたような一言。
「本当にロロが大好きなのね……」
ロロと遊ぶことを強要したと思われたらしい。すぐに誤解を解こうとしたが、ロロと遊ぶことはやぶさかではなかったらしく、彼女はさっさと庭へ行ってしまった。
こうして連日惨敗続きのクロードは、自信を失いつつあった。
自分が女性の目を惹く容貌をしていることはよく理解していたし、幸いにも体格にも恵まれた。貴族となってからは優雅な立ち居振る舞いも身につけた。
少し前までは、独身貴族の中で一、二を争う優良物件だったはずなのに、この体たらく。
「ロロになりたい……」
ロロは飼い主の切実なつぶやきに首を傾げるばかりだった。
クリーム色の毛皮に顔を埋めると、日差しの匂いがして癒される。
リーラも、ロロだけはかわいがっている。それはロロが動物だからというわけでもないだろう。
ロロはリーラに冷たく当たらなかった、唯一の存在だからだ。逆を言えば、はじめから彼女を歓迎していたら、クロードや使用人たちとも問題なくうまくやれたということなのだ。彼女は物怖じしない性格で、相手の出方次第では社交性も認められる。
実際孤児院でも子供たちに優しく接していたし、セトやそこに出入りする客、定期的にリーラの診察する老齢の医師相手には素直に受け答えをし、微笑んでさえいる。クロードにはつんとして嫌味しか言わないというのに。
ヴェルデがいなくなってからというもの、リーラの笑顔はついぞ見ない。
あのとき、はじめてクロードに向けたあのやわらかな笑顔。胸をわしづかみにされるほど、美しい笑みだった。
もう一度見たいと思ってはいても、彼女の顔を見ることすら食事のときくらいなもので、最近ではクロードの姿を見かけようものならリーラは回れ右してどこかへと行ってしまう。小さな意趣返しすらない。
それがなぜか寂しくて、戸惑っている。
相手にさえされないことがこれほど虚しいものだとは思いもしなかった。
まだ罵られている方がいい。その間は彼女の目はクロードに向いているから。
兄と再会した今、リーラが見据えているのは先の未来だろう。借金から解き放たれた、後のこと。
離縁しないと言ったが、いつまでとは明確に決めていない。
もしかすると借金返済と同時にこの家を出て行こうとしているのかもしれない。
クロードにはそれを引きとめるすべはない。
伯爵家にとっては喜ばれることだろう。
なのに。
クロードの気持ちはますます暗澹としていく。
せめてここにいたいと思わせることができたら、なにか変わるのだろうか。
女を喜ばす方法ならばいくらでも思いつくのに、リーラを喜ばせる方法はなにひとつ思い浮かばない。
そうこうするうちに、再び彼がやって来た。
なぜか腕に、大きな花束を抱えて。




