17
クロードは使用人たちの手にある雑巾の中に、見覚えのある青が交じっていることに瞠目し、その場で動きを止めた。
「あの、クロード様……?」
あまりにもその雑巾を凝視するものだから、雑巾片手に使用人たちが目配せしながら困惑している。
「その、雑巾は? どうしたんだ」
「これでしょうか? 山積みされた雑巾の在庫の中にあったものですが……」
クロードはそれを聞いて、腹の底に湧き上がった怒りを抑えるために、深呼吸をした。彼らに当たっても、仕方ない。
「いい。わかった。すまない、続けてくれ」
雑巾になったものは元には戻らない。
クロードは方向転換した。この時間ならば、セトのところから帰って来ているはずだ。
顔を見た瞬間怒鳴らないように、何度も自制自制と言い聞かす。
それでも心のうちで叫ぶくらいは許されるはずだ。
(ふざけるな! 似合っていただろう!)
普段から麻や木綿の子供っぽいワンピースばかりを着ていたからか、あの青いワンピースを着たリーラは年相応に、いや、それ以上に大人びて見えた。しかも数ある服の中から真っ先に自分の色を身につけてくれたことに、感動さえ覚えたというのに……。
決して安いものではないが、高価なものでもない。ロロと遊ぶことを想定して、貴族の娘が身につけるものとしてはかなり劣るくらいのものだった。
だが。
まさか雑巾に成り果てていると、誰が思う。
(だめだ、怒鳴らない自信がない)
結局のところ、ショックだったのだ。
リーラの服だって、よく見ると裾は擦り切れていたし、しみやほつれもあった。なによりしつこい泥の汚れで汚かったのだ。許可は取らなかったが、捨てるに値するものだった。これだけは断言できる。雑巾に生まれ変わっただけ、服も喜んでいることだろう。
それなのにだ。クロードの贈った服は一回着ただけのほぼ新品で雑巾行き。
胸が押し潰されそうだった。
なにを努力しても、そう簡単に許されようとは思っていない。それほど酷いことをした自覚もある。後悔も。
それでも、やっても無駄だからと誠意を見せないのは違うはずだ。
それなのに、よかれと思ってしたことがいつも裏目に出てしまう。指輪も、結婚式も、服も。全部。
嫌われていて当然だ。だがそう頭で理解していても、彼女の言動に一喜一憂させられている自分がいる。
彼女に抱きしめられたときから、クロードはどこかおかしくなった。
まるで恋でもしているかのようだ。
(……ばかばかしい)
自分を嫌いだとわかっている相手に好意を抱くはずがない。不毛だ。振り向いてくれるはずがないのだから。
首を振ってありえない思考を飛ばし、彼女の部屋へ急ぎ足で向かう。
リーラは部屋にいるのか、誰かと話す声が聞こえて来た。
クロードは眉をひそめる。リーラがロロ以外で他愛ない話をする相手が、この屋敷にいただろうか。
怪しみながらそっとドアを開けて中へと入ったが、自分はこの屋敷の主人だ。なにをこそこそする必要があると思い直して、堂々とリーラを探す。寝室のドアが、少し開いている。そこからくすくす笑い声が聞こえて来た。
その瞬間、頭の中が真っ赤に染まって、クロードは蹴破るようにドアを押し開けて寝室に突入していた。
「誰を連れ込んだ!!」
急にクロードが怒鳴りながら入って来たからだろう、リーラはびくりと体を震わせると、素早く机の下に隠れた。
(俺は地震か)
クロードは剣呑な獲物を狩る狼のような鋭い目つきで寝室を見渡すが、誰かが隠れている様子は見られない。念のためベッドの下や壁と棚との隙間、さらにはベッドカバーまでめくって家探ししたが、やはり人の気配は皆無だった。
沸騰していた血が引いていくと、机の下で震えているリーラの姿に激しく動揺した。
なにか気をそらせるものはないかとぐるりと見渡すと、目の端になにか白いものが横切った。
ばっとそちらへと顔を向けたが、そこに誰かいるはずもなく、壁と壁のつなぎ目に、ごく小さな穴がぽっかりと空いているだけだった。
(あんな穴、あったか……?)
記憶を手繰りながらもクロードはリーラへと視線を戻すと、改めて現状が最悪であることを認識した。壁の穴のことなど放り出して、すぐさまこの場にふさわしい言葉を探した。謝罪以外、ありはしなかったが。
「怖がらせて悪かった」
リーラは膝を抱えて、沈黙を貫いている。全身から拒絶を発しているが、クロードは諦めずにしゃがみ込んで話しかけた。
「誰と話をしていたんだ?」
精一杯の優しい声音は、不快そうな一瞥によってもろく崩れ去った。やはり間男だったのだろうか。実は室内には入れず、窓の外と内で話していたとか。
見知らぬ青年が窓の外から身を乗り出してあまい睦言をささやき、リーラが楽しそうにくすくす笑っている想像をすると、腹の底からむかむかしてきた。
「おかしいだろう。寝室からしゃべり声がするんだから。間男を連れ込んだら、ただじゃおかないからな」
「間男ですって?」
リーラが信じられないというように顔を歪めた。失敗したと思ったときには、リーラからの鋭い反撃を真正面から受けていた。
「もしそんな人がいるのなら、それは間男じゃなくて本命でしょうね」
うっとクロードがうめくと、リーラはつんとしながらトドメを刺した。
「そしてわたしに本命がいるのなら、あなたなんかとはとっくに離縁しています」
あなたに恋を捨ててまでしがみつくほどの魅力があるならまだしも、と。リーラはクロードの自尊心をがりがりと削っていく。
「……け、経済力はある」
「そうね。お金で妻を買えるくらいにね」
ぶすりと言葉が刃物のようにつき刺さった。
彼女はクロードのことを、はじめからそういう見方をしていたのだ。それなのに文句も言わず嫁いできた。そして確かに、歩み寄ろうとしていた。
それを手ひどく突き放したのは、ほかでもない、クロード自身。
彼女が寝室に誰かを連れ込んでいたとして、それになんの問題があるのだ。そこで彼女と見知らぬ誰かの幸せを願えてこそ、償いではないのか。
だが今はクロードの妻だ。名ばかりでも、妻だ。不貞は許さない。が、今それを言ったところで何倍にもなって返って来るのは目に見えている。
「あなた、なにしに来たの?」
未だ机の下から出てこないリーラは警戒と、少しの興味の間で瞳が揺れ動いていた。それがなんなのかわからないが、クロードは身構えながらも声を絞り出してここへ訪れた理由を端的に言った。
「……雑巾の話だ」
「あら? わたしの服でできた雑巾の話?」
「そっちじゃない。俺が贈った服の話だ」
「なんの話かしら?」
わかっていてとぼけているのが丸わかりの雑な演技だった。悔しくなって、クロードはもういいと話を終わらせた。服なんてまた買えばいい。今度は全部青にしてやると誓いながら部屋を出て行こうとすると、背中に、愉快さをひた隠して冷たく装ったような妙な声が飛んできた。
「クローゼットの中を確認したらいかが?」
腹立たしいことだが、ほかの服もやられていないかの確認のために、クロードはクローゼットを開いた。そして真っ先に目に飛び込んできたものに、クロードは虚をつかれて固まった。
銀のレースの濃い青のワンピースだった。
雑巾になったはずのそれが、綺麗な状態で吊るされている。
混乱したが、これがここにあるということは、無事だったということなのだろうか。それが目で見た事実なのだから。
「だったらあの雑巾は……」
そこではたと気づく。担がれたのだ。リーラに。
似たような色合いの端切れやなんかを、わざわざ雑巾を縫って、在庫の山に紛れ込ませておいたのだ。
一度雑巾になった服は戻らない。それを身をもって知るように、そのためだけにこんな手のかかる仕返しをした。
もしかすると新品のワンピースを雑巾にできる度胸がなかっただけなのかもしれないが……。
クロードは思わず笑っていた。
自分がこんな子供じみたいたずらに引っかかり、あまつさえ翻弄されるとは。
リーラが机の下で、「やってやったわ、ざまあみろ」と満足そうな顔をしているのだろうと思うと、また笑えてきた。
こんなつまらないやり方でしか復讐できない娘だ。ほかに男を作るなど、思いつきもしなかっただろう。
さっきひとりで笑っていたのも、これを想定して思い出し笑いならぬ、想像笑いをしていたのかもしれない。
今思い返せば、相手の声などしなかったではないか。
疑ってしまったことは申し訳ないが、紛らわしいことをするリーラも悪い。
今朝届いた手紙の内容を教えてやろうと思っていたが、やめた。
クロードはクローゼットを閉めながら、当日まで、ヴェルデが来ることを黙っておくことに決めた。
それもつまらない小さな意趣返しだなと思いながら。




