16
クロードにアフタヌーンティーに誘われて、リーラは警戒しながらテラスへと向かうと、庭からロロが駆け寄ってきてわずかに気を緩めた。
ロロは最近お気に入りのおもちゃを放り出して、テーブルの上に並んだ食べ物を、愛らしいまん丸な瞳でくださいと要求する。
リーラがロロのために手近なものを手に取ろうとすると、クロードが真顔で制した。
「このままだとロロは肥満で早死にする。与えるのなら、犬用のおやつだけにしてくれないか」
リーラは小首を傾げて、催促するロロをつぶさに観察した。毎日見ているとわからないが、よく見ればはじめて会ったときよりも、首回りやお腹周りが太くなっている気がする。
「まあ、ロロ……あなた、おでぶさんだったの?」
そばにいたマーティンから受け取った犬用の骨を与えてみるが、もらえればなんでもよかったのか、ロロはそれを前脚で挟んでご機嫌に噛み噛みしはじめた。
リーラはねだられるままにあれこれあげていたことを深く反省した。ロロが死んでしまったら、唯一の癒しがなくなってしまう。なんのためにこの屋敷に居座っているのかわからなくなるくらいには、ロロは大切な存在だった。
マーティンに椅子を引かれて、また戻ってきた警戒心を纏いながらクロードと向き合った。
「それで、わたしになにかご用でしたか?」
ティーカップに飴色の紅茶が注がれる。リーラはここのところ離れ離れの空腹とじっくりにらみ合いをして、数秒後、敗北してきゅうりのサンドウィッチへと手を伸ばした。
最近は安心して食事ができる。本来これが普通なのだが、普通とは縁遠い生活に慣れすぎていた。
「うまいか?」
微笑ましげなクロードにそう訊かれて、なんとなく、使用人たちを素直に褒めるのも嫌で、リーラは浮かべていた笑みを消して、まあまあねと、高飛車に言った。夕食でなにか嫌がらせをされるかもしれないので、昼のうちにたらふく食べておこうと決めて次の皿へと早速手を伸ばす。
「……細いな」
リーラの手をじっと見つめていた彼がぽつりとそうこぼしたので、リーラはすっと手をテーブルの下へと引っ込めた。
「なぜ隠す」
「……変な目で見ていたので」
「変な目とはなんだ、人聞きの悪い! 俺はただ……どんな指輪が、きみには似合うだろうかと思っていただけで……!」
「ユビワ……?」
生まれてはじめて聞いた単語のように、リーラは片言でおうむ返しする。
指輪とはあれだろうか。指にはめる、装飾品のことだろうか。
子爵夫人が生前、宝石のついた指輪を両手にたくさんつけていたのを思い出した。それもすべて売り払い領民たちに還元したのだが、あんな醜悪な意匠でなければもっと高く売れたはずなのにと、ヴェルデが悔しそうにしていたことまで鮮明に蘇った。
「指輪、が?」
「ほら、あれだ。まだ結婚指輪を渡していなかっただろう」
もらっていないが、この国では必ずしも指輪の交換をしなければならないという決まりはない。また、独占欲の表れとも取れるそれを、つけない夫婦も多い。
つけないのであれば不要ではないかと、リーラは本気で思う。間違ってロロが食べてしまっても困る。
「特に必要ありませんが?」
クロードはその答えが予想外だったのか、秀麗な顔をひそめて黙り込んでしまった。
「用件はそれだけですか? それならもう失礼して」
立ち上がろうしたが、すかさずクロードに引きとめられて、行く手をマーティンに塞がれ、渋々着席し直す。
「だったら、式を挙げよう。女なら誰でも、ウェディングドレスに憧れがあるんじゃないか?」
リーラも乙女で、結婚式にはそれなりに憧れはあった。
リーラとヴェルデがちょこちょこ世話になっていた村でも、小さな教会で結婚式を挙げる若い夫婦を何度か見かけたことがある。
いろんな人がいたが、ひとつ言えることは、花嫁さんはみんな綺麗だったということ。
それはなぜか。この歳になれば誰でもわかる。
「好きな人と結ばれて、みんなに祝福されて、そういう幸せの絶頂にいる人の晴れの場が結婚式であって、どうして好きでもない人と誰にも祝福されない結婚をしたわたしに、式を挙げる必要が? それにウェディングドレスなんて、着たいだけなら試着で充分じゃない」
こんな突拍子もないことを言い出すなんて、とうとう頭でもおかしくなったのだろうか。
リーラは口を半開きで言葉をなくしているクロードに真剣にそう思いはしたが、言わないだけの良心はまだ持ち合わせていた。
「……蛇蝎」
「?」
「なんでもない」
クロードはテーブルに肘をつき、頭を抱えてしまった。
そのあたりでリーラはようやく察した。贖罪のために、指輪を贈ろうとしたり、結婚式を挙げようと画策したのだと。
呆れてしまう。根本から間違っているのだから。それらはすべて、リーラが彼を好きだという前提がなければ無意味なものだ。
自信があるのだろう。この男は女性に好意を抱かれることを当たり前のこととして受け入れ過ぎている。
はじめて見たとき王子様のようだと思った容姿も、見慣れてしまえば感動もなにもない。
指輪なんかよりも、真摯な謝罪がほしい。何度でも。繰り返し。
だからといって許しはしないが。
どうもうやむやになっているが、まだ襲われたときの弁明すら聞いていないのだ。大方リーラの体を調べようとしたのだろうが、あのときはついに力尽くで奪われるのかと思い、恐怖で死ぬかと思ったのだ。実際心が折れかけた。
今だって急に近寄られるのは嫌だし、なにもされないとわかっていても、一定の距離の外にいてほしいと思っている。
「俺は……どうしたらいいんだ? なにをしたら、きみは満足する?」
「……さあ」
なぜ人に聞く。
そんなことリーラだってわからない。
最初に突き放したのは自分だろうに。
だが、契約書の内容を書き換えてもらわないうちは嘘でも従順なふりをしていた方がよかっただろうかと急に不安が押し寄せてきて、これ以上なにも口走らないようにロロをひとなですると、そそくさとその場を後にした。
幸い、クロードはうなだれたままだった。
*
最近めっきりとクロードに出会わなくなったせいなのか、寝室に鍵をつけるという約束がなかなか果たされず、痺れを切らしたリーラはドアの前にサイドテーブルを引きずって行き、バリケードとした。
そうして服を着替えようとして、はたと気づく。着る服がない。
厳密に言えば、服は山ほどある。しかしリーラが実家から持ってきた服だけが、ごっそりとなくなっている。
ごっそりと言うほどは持っていなかったのだが、気分の問題だ。
(とうとう、新手の嫌がらせが……)
昨夜眠ったときはあったはずなのだ。……たぶん。
リーラはため息をついた。これはもう、着るしかない。クロードが用意した服を。
夜着で歩き回れるほど、恥知らずではなかった。
(そうね、適度に動きやすく、装飾が少なく、なおかつ色味の落ち着いたもので……)
リーラは悩みに悩んだ末に、条件に合った一枚を手に取った。濃い青色のワンピース。ウエストに切り返しがあり、装飾も、スカート部分の裾にレースが縫い付けられているだけなので動きやすそうである。
貴族の服はひとりでは着にくいものが多いが、袖を通してみると意外と実用性を重視してあることがわかり、そのまま難なく着替え終えた。
とはいえ、さすがにそこそこ上質の生地を使っているので着心地もいい。寸法も図っていないのにぴったりなのは甚だ疑問だが、あまり気にしないことにしておいた。
少し気が引けるが、人の服を隠すくらいなのだから、多少汚しても文句はないのだろう。厩舎の掃除でもして来ようかと意地悪なことも考えたが、つまらない嫌がらせだとすぐに却下した。
部屋を出て無駄に広い屋敷内を闊歩していると、また妙な視線を感じて、じとりとそちらを見やる。そこにいた使用人たちが、雑巾片手になんとも言えない表情を浮かべていて、リーラと目が合うと、慌てて仕事へ没入するふりでごまかした。
(似合ってないということ?)
だったらセンスのない主人を憐れむべきだ。
それともリーラの服を隠した負い目でもあるのだろうか。
一応苦言を呈しておこうと、リーラは方向転換し、自室の隣の部屋のドアをノックした。一拍置いてから、続けざまに、コツコツコツコツ、と。
「うるさい!」
ドアの向こうでくぐもった怒鳴り声を発しながらも、クロードが出て来る気配はない。この部屋をノックするのは使用人くらいなものなので、待たせることに慣れているせいだろう。せめて「入れ」や「待て」と言えばいいのに、うるさいとは。
(マーティン一家をけしかけようかしら)
総勢百八匹のはつかねずみが集団で押しかけて来たら、さすがにクロードも転がり出て来ることだろう。
マーティン一家はひそかに、しかし着実に増加しつつあるのだ。
コンコンとしつこく陰湿に鳴らし続けて、ようやく、入室の許可が下りた。その頃には待たずとも勝手に入ればよかったと少し後悔していた。叩きすぎて、甲の関節が痛い。自業自得だ。
「失礼します」
リーラは念のため一声かけてから、ドアを開けた。
クロードの部屋は隣のリーラの部屋よりもずっと広い。それでも内装や家具は、アンティークと言えば聞こえはいいが、年季の入った使い込まれた無骨で重厚なものばかりだった。
書斎を見たときも思ったのだが、爵位を継いだ後も自分の好みに内装を変えたりはせず、あえてそのままにして祖父との思い出を大切に引き継いでいるのだろうか。
祖父との関係は良好だったのだろう。見た目に反して、思い出の詰まったものを大切にする古風なところがあるのかと意外に思った。
「……リーラ?」
部屋中をきょろきょろと観察していたリーラの前に、呆然とした様子のクロードが茶色いバスローブ姿で現れた。湯上りなのか、上気した肌で、銀色の髪からは水が滴り落ちている。
リーラは頭の先からつま先までをゆっくりと一巡して、絶句した。
訪問のタイミングを完全に見誤った。
うるさいと怒鳴るわけだ。
一刻も早く退出すべきないのだが、不覚にも、彼の体に見入ってしまった。
男性のこんな無防備な姿、見たことがなかったせいだ。繊細な体つきの兄とは違い、バスローブの合わせ目からたくましい胸板がのぞいている……。
頰に熱が集う。リーラは慌てて目を引き剥がした。
しかししばらくの間、お互い一言も発しなかった。
どれくらいたった頃か、クロードがリーラから目を離さないまま、ぽつりとつぶやいた。
「その服……」
そうだった。リーラは本来の目的を思い出した。いくら芸術品のようだからと言って、男の体に見入ってどきどきするなんて恥ずかしいことをしている場合ではない。
相変わらず頰を紅潮させながら、文句が口をついて出かけたとき、クロードが不自然に、ふいっと目をそらした。そちらに気取られ、出鼻をくじかれてしまった。
「なに?」
「いや……それを、選ぶとは思わなかったから……」
リーラは改めて自分を見やる。濃い青のワンピースだ。裾のレースは銀の糸で、精緻な花の模様をしている。
(青と銀……?)
どこかで見た組み合わせだと思いながら前を見て、また自分を見下ろす。
「……」
なんてことだろう。意図せず、クロードの色を纏っていた。
「に、似合うな」
ぎこちないお世辞にリーラは唇をへの字に曲げた。
「無理に褒めていただかなくとも結構です。それよりも、わたしの服を返して」
「ああ、あのボロ雑巾のことか。それなら、名実ともに雑巾になった」
「ボロぞ……え?」
リーラはくわっと目を見開いた。
(まさかまさかまさか! さっき見かけた使用人たちが使っていたあの雑巾……)
どことなく見覚えがある気がしていたのだ。
リーラの服は隠されていたどころか、目の前にあったのだ。変わり果てた姿となって。
唖然とするリーラに、クロードはこともなげに言った。
「代わりに同じ枚数買ってやる」
めまいがした。
実家から持ってきたものだが、すでに彼が称した通り、ボロ雑巾と化していた。自分に手持ちのお金があれば新しいものを買っているくらいには、薄汚れていた。
それでも、だ。人の私物を勝手に処分するなんて。
ふらふらしながらテーブルに手を突きうなだれたリーラの肩に、クロードが少し慌てた様子で手を置いた。
「気分でも悪いのか?」
「……悪いに決まってるじゃない」
リーラはクロードの手をぞんざいに払うと、肩を怒らせてつかつかとドアへと向かった。
もうここには用はない。
だってリーラの服はすでに、ボロ雑巾となってしまったのだから。
文句を言ったところで手遅れだ。
ドアノブに手をかけ、最後にちら、と振り返った。なにを怒っているのかわからず戸惑っている風のクロードに、ますます不快感が募る。
「こんな服、二度と着ないわ!」
馬小屋で転がってボロ雑巾にしてやろうと、固く決意した。




