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 食卓は重苦しい沈黙に包まれていた。


 カチャカチャとナイフとフォークが皿に当たる音だけよそよそしく響く。


 どうせなら今、その話とやらを済ませてくれればいいのにと思いつつ、リーラは黙々と皿の上を空にしていく。


 クロードはあまり食欲がないのか、大半を残していた。もったいないと、リーラは彼の分のパンも平らげた。


 彼がなにを考え、なにを後悔しているのかは、今日の使用人たちの対応である程度はわかっている。同情したのだろう。リーラに。これまでの仕打ちを後悔して態度を百八十度改めるほど、この体はひどかったのだ。


 そうすると、初夜に呼ばれず突き放されたのは、逆によかったことなのかもしれない。抱く気があったのに土壇場で興ざめされていたら。その方が傷つき、耐えられなかったかもしれない。


 きっと離縁を切り出されるのだろう。


 これまでのことを謝って、すべてなかったことに……。


 そう思うと不思議と少しだけ胸が苦しくなった。


 こんなところ、早く出て行きたいばっかりのはずなのに。


 そして苦行に近い夕食の後、リーラはクロードの後に続き彼の書斎へと招かれた。はじめて入るその部屋は、重厚な机と揃いの椅子、ぎっしりと詰まった色あせた本棚、そして形ばかりの応接セットがあるだけの単調な部屋だった。


 応接セットのソファに腰を下ろして、リーラは毅然とクロードと対峙した。


 こうしていると、最初に彼がキンブリー家へ借金の話を持ってきたときのことを思い出す。


 あのときはまだ、ほのかでも期待があった。


 今はその残滓すらない。


「それで話とは? これから洗濯物を洗って干さなければならないので、手短にお願いします」


 嫌味を織り交ぜつつ、リーラから口火を切った。


「洗濯物なら心配ない。メイドがすでに済ませているだろうから」


 それが心配以外のなんだと言うのか。ただでさえ少ない衣類を台なしにされてはたまったものじゃない。やっとお仕着せから解放されたというのに。


 リーラの表情から考えを読み取ったのか、クロードは本当に大丈夫だと請け負った。


「使用人たちには言ってある」


(それが信用できないって言っているのよ)


 しかし過ぎたことをいつまでも口論していても仕方ない。リーラはひとまず洗濯物のことは頭から追い出した。なにかされていたらクロードのシャツで庭遊び後のロロの足裏を拭いてやる。


「きみが、俺を含め、使用人たちを信じられないのはよくわかる。だけど彼らは、俺の指示に従って逆らえなかっただけなんだ。だからもう、きみに対してぞんざいな扱いをすることはないと保証する」


 彼が自らそう認めたのだから、使用人たちにリーラを蔑ろにしろと言ったのは彼で間違いないのだろう。


 だが、彼らだって人形じゃない。自らの意思を持ってそう行動していたのがわからないほど、リーラもばかじゃない。この屋敷が恐怖で支配されていないことぐらい一目瞭然だ。


 主人が命じたからと言って、本心でリーラを疎んじていなければ、その通りに行動するとは到底思えない。仕方なく従っていたのだとするならば、誰も見ていない裏で、声をかけたりしてくれてもよかったはずなのだ。


 そう、誰かひとりでも手を差し伸べてくれていたら……。


 リーラの中に、彼らを信じる気持ちが生まれていたかもしれない。


 だが現実はどうだ。


 誰も彼も、なんのためらいもなくリーラを傷つけた。


 許せるはずがない。


 許しを請うことすらおこがましい。


「無理して取り繕ってくれなくとも結構よ。次からは勝手に人の洗濯物に触らせないで。どうせまた、破かれたり泥をつけられたりして、無残な姿で返って来るだけなんだから」


 リーラが吐き捨てると、クロードはわずかに目を見開いた。そこまでしていると知らなかったのかもしれない。だが関係ない。後ろめたさを隠すことなく、彼は、すまなかった、と彼らの代わりに謝罪した。


 そんな彼をリーラはただただ睥睨する。


 その数文字しかない言葉だけで矛を収められると思っているのなら、あま過ぎる。それがますますリーラを苛立たせるだけだと、なぜ気づいてくれないのだろう。


 捨てるのなら、早く言ってほしい。


 リーラは決定的な言葉を待っていた。



 ――が。



「そんなことは今後二度とないようにする。きみがもし、どうしても耐えられないと言うのなら、離縁にも応じるつもりだ。だができることなら……償う機会を与えてほしい」


 一瞬ぽかんとした。


(償う機会って……)


 あれだけのことをされたのに、まだ、縛りつけようというのか。贖罪という名の牢獄に、まだ居続けないとならないのか。自分の意思で。


 ふざけるなと叫びそうになるのを、スカートを握りしめることで必死でこらえた。


 彼がこれほど弱り切った様子で、謙虚にリーラにこうべを垂れることなど、この先二度と訪れはしないだろう。


 考えようによっては、これは千載一遇の機会だ。


 どれだけ自尊心をずたずたに引き裂かれようと、やるべきことが目の前にあった。


(だめよ、耐えて……わたし)


 兄のためならば、悪魔にだって心を売る。


 乾いた唇をしめらせてから、リーラは慎重に言った。


「離縁は、しません」


「……そうか」


 安堵するクロードに、この契機を見誤ることなく、すかさず攻め込んだ。


「実家の借金の利子なんですが、法律の定める範囲内に改めてくれませんか?」


 しおらしくうなだれていたクロードが驚いて顔を上げた。それほど図々しい要求をしたつもりはなかったが、少しだけ心配になった。


「無理なら構いません……忘れてください」


「いや、いい。大丈夫だ。もとよりそうするつもりだった」


(なんだ……そうだったの)


 だがとりあえず契約書を書き換えるまでは、リーラは自分を抑えておとなしくしていようと思った。


 大仕事を終えて肩の力を抜くのをクロードがじっと不躾に見つめて来るので、リーラは一秒前の決意を忘れて、不快感をあらわに眉を上げた。


「なんですか?」


「いや……てっきり、借金をチャラにしてくれと言われるかと思ってた」


「借りたものを返すのは当然のことでしょう。それがたとえ、身に覚えのないものであっても。借用書がある以上、キンブリー家がロシェット家へ返すものです」


 ここで借金のすべてを免除されても、ヴェルデが納得しないだろう。彼の性格上、誰かに借りを作ることをよしとしない。


 それにだ。仮に借金がなくなったところで、リーラの気は収まらない。それではまるでお金で解決するようで、納得いかない。


 リーラはごく浅くため息をついた。


 あの男、キンブリー前子爵。死んでなおリーラを苦しめる。あいつらが死んだと知ったとき、リーラは涙を流した。――嬉しくて。


 たくさん苦しんだ分、これから先の人生は緩やかでも上向きになっていくのだと信じて疑わなかった。


 あのとき、人の死を喜んだのがいけなかったのだろうか。


 だからこんな目に遭っているのだろうか。


「……なぜ」


 どうして。


 償いなんていらない。


 だけど。


 ――許さない。


 彼が望む通り、離縁だけはしない。


 離縁したら彼は、家のために再婚することになるだろう。家柄のいい従順で貞淑な妻を迎えるのだろう。これまでのことを忘れて、ほかの誰かと愛のある家庭を築こうなど、許さない。絶対に。


 リーラのつぶやきを別の意味に受け取ったのか、彼は話しはじめた。


 贖罪の言葉とともに。


 昔話を。









 クロードの父親は、ロシェット前伯爵のひとり息子としてこの世に生を受けた、生粋の貴族の子息だった。


 体の弱かった妻は跡継きの息子を産み落とすと、すぐに儚くなったという。


 ロシェット前伯爵は家督争いを憂い、あえて後妻を娶ることなく、ひとり息子を後継として厳しく育て上げた。


 息子が成人すると、ロシェット前伯爵は当然、家格の近い貴族の娘と婚わせるつもりで準備を進めていたのだが、当の息子は親の知らぬ間に、ロシェット家に仕えるメイドの娘と懇ろになり、彼女を妻にするのだとロシェット前伯爵を激怒させた。


 厳格な家と生涯に一度の恋。天秤にかけて悩んだ末、彼は彼女を選ぶこととなる。


 家を捨て駆け落ちを決意するが、そのときすでにメイドは解雇されていて、彼にも厳重な監視がつけられており、思うように計画は進められなかった。


 それを友人に相談すると、彼は自分が仲介役になると請け負った。


 友人を介して何度もやり取りをし、駆け落ちの日時と場所を決め、いざ当日。



 その場所に彼女は現れることはなかった。



 土壇場で怖じ気づいたのだと友人は慰め、人を疑うことを知らなかった彼はそれを鵜呑みにして信じてしまった。


 愛した人に裏切られたことで気力を失い、彼は数年の後に、とうとう病床にて息を引き取る。


 これに慌てたのはロシェット前伯爵だ。後継が自分より先に死んでしまったのだ。大切なひとり息子が。


 あのときメイドとのことを反対しなければ。後悔してもときすでに遅く。


 しかしそんな折、気落ちするロシェット前伯爵は思いがけない話を耳にする。


 例の息子の友人が屋敷に訪れたのだ。情報を買わないか、と。


 その男は初対面のときからどうにも胡散臭く、何度も息子に友人は選べと言って諭したが、結局最後まで聞き入れてもらえなかったことを苦々しさとともに思い出した。


 そんなこともあり、すぐに追い返そうとしたのだが……。


「例のメイド、あいつの息子を産んだらしいんですよ。あなたの孫です。もし居場所を知りたければ……わかるでしょう?」


 その話に、飛びつかないはずがなかった。


 藁にもすがる思いで言い値を払い、足を運んだ劣悪な環境のその孤児院で、ロシェット前伯爵は息子そっくりの男の子を見つけた。


 それがクロード。


 後にクロード・ロシェット伯爵となる、自分だった。


 よくある話だ。


 使い古された陳腐な物語。


 貴族の庶子など、本気で調べたらあちらこちらからぽろぽろ出てくることだろう。


 自分は運がよかった。あの孤児院から抜け出せて、綺麗な服を着せてもらい、お腹いっぱい食べることができる。


 多少厳しく教育を受けたが、理不尽な体罰とは比べるまでもなかった。


 クロードは母親のことを恨んではいない。相手が貴族ならば、身を引くことを選んだのも、わからなくもなかったからだ。


 祖父のことも、恨んではいない。はじめこそ憎んでいたが、共に暮らすうちに、彼がなにを思って両親の恋路を反対したのかを理解したからだ。


 貴族としてなに不自由なく育った父が、いきなり労働者としてやっていけるはずがなく、逆に庶民の母が教養もないまま貴族の元に嫁いだところで、住む世界の違いに苦しんだだけだろう。


 しかしクロードは、父親のことだけは、どうしても理解できなかった。


 彼がもう少し、理性的な大人だったら。


 そうしたら、なにか変わっていたかもしれない。


 しかしそれも過ぎた話だ。


 今こうしてまともな暮らしを送れていることに感謝しなくては。


 クロード自身、なんの疑いもなく、そう思っていた。



 真相を知るまでは――。



「父の友人を名乗る男は定期的に屋敷に訪れては、祖父に金を無心して帰って行く。祖父もその男を快くは思っていないようだったが、俺の件を恩に感じていたんだろう。表立って邪険にはしなかった」


 しかしクロードは不思議に思うことがあった。


 なぜあの男は自分のことを知っていたのだろうか。母は父にどこへ行くのかも言わずに消えたというのに。


 ひとつ違和感を覚えれば、後は泡沫のように次々と疑惑が浮かんでくる。


 なにより一番不自然と感じたことは、自分がいた孤児院が、彼の領地にあったということだった。


「あいつは知っていたんだ。そもそも母は駆け落ちに怖じ気づいて逃げたのではない。嘘の時間と場所を教えられていたせいで、お互い会えなかっただけだった。父に裏切られたと思い嘆いていた母を、あの男は……」


 領地に連れ込み、自分のものにしようとしたのだ。はじめから母が目当てだったのだろう。後から調べてわかったことだが、若く美しい女が何人もあの男の毒牙にかかっていた。


 しかしいざ囲おうとしたそのとき、彼女はすでにクロードを身ごもっていた。


 庶子とはいえ伯爵家の血筋を引く子だ。この子供には色々と使い道がある。


 女と金づるを手にできると喜んだキンブリー前子爵だったが、そううまくことは運ばず、クロードの母は産後の肥立ちが悪くクロードを産んですぐに死んでしまった。腹いせのように、クロードは孤児院へと入れられた。領地で一番、劣悪な環境の孤児院へと。


 クロードはひと息つくと、顔を上げた。


 正面では、黙って耳を傾けていたリーラが、血管が透けるほど青い顔で、苦痛に耐えるように頰を強張らせていた。


 あの男と似ても似つかない、美しい娘だ。母親に似たのだろう。好色なあの男の好きそうな、神秘的な色を持った娘だ。


「本当に、すまなかった」


 何度目かの謝罪をすると、リーラはそれまで詰めていた息を吐き、腑に落ちたというようにつぶやいた。


「だからあいつは、メイドにばかり……」


 なんのことかと彼女を見つめていると、さらに顔色を悪くした彼女はついには手で額を覆ってしまった。


「大丈夫か?」


 心配して駆け寄りかけたクロードに、彼女は反対側の手を突き出し制した。


「わたしと兄は……メイドの子です。兄の母は小さな商家の娘でしたが、わたしの母に至っては、家名すらない孤児でした」


「庶子とは、聞いていたが……」


「あの男は、ある時期からメイドにばかり執着して手をつけるようになったそうです。街で気に入った女がいたらメイドとして働かせて……」リーラはきゅっと眉を寄せた。「その結果が、わたし」


 クロードは彼女の言わんとすることを正確に理解した。吐き気がする。手で口元を覆った。今にも喉の奥から酸っぱいものが上がって来そうだった。


 あの男は、ほしいものはなんでも手に入れないと気が済まない男だった。クロードの母親が手に入らなかったから、ほかのメイドを代用品として扱ったのだ。手に入れられなかった女への報復のように。


 そんな理由で、彼女はこの世に生を受けた?


 ますます心が潰れそうになった。


 一番の被害者は彼女じゃないか。


 すべてを告白することで、少しでも同情心を買えたらという下心がなかったかと問われたら、はっきりと否定はできない。


 だがすべてを話したことで、許しを請うどころか、彼女をさらに傷つけたことは確かだった。


 そのことに打ちのめされていると、彼女は視線をそっと外へとそらした。窓の外の底知れぬ闇の方がましだとでも言うように。


 クロードのことなど、もはや視界に入れたくもないのだろう。


 かすかなため息が聞こえた。


 びくりとして、彼女の横顔をうかがい見た。そこに表情らしいものはなにもなかった。


「馬車の縄に、数ミリ、傷をつけてあったそうです。崖のカーブで確実に切れ落ちるように、計算して」


 突然の独白についていけずに戸惑うクロードをよそに、リーラは少し寂しげに眉を下げてこちらへと微笑み、続けた。


「わたしが知ってるのはそれだけだから……あれが、どんな最期を迎えたかまでは、教えてあげられないわ」


(ああ……)


 自分の手で復讐を遂げられなかった相手は。


 自分の子供に、殺されたのか。


 当初からあったわずかな違和感。


 馬や御者が崖下から見つからなかった理由。


 御者は仲間だったのだろう。おそらく馬を犠牲にすることを、彼女はよしとしなかったはずだ。その結果が、崖下のあの三体の死体。


 事故死を装った、完全犯罪。


 簡単にできることではない。


 何年もかけて用意周到に計画し、どれだけ縄に傷をつければいいかを綿密にデータを取って調整していったに違いない。


 リーラはその口ぶりから、ことが起こるまでなにも知らされていなかったのだろうと推測した。


「そう、か……」


 あの儚げな印象の彼女の兄が……。


 水面下で復讐のときを狙っていたのだ。クロードよりもずっと昔から。


 クロードが手を下すまでもなく。


「きっと苦しんだでしょうね」


 そうでなければ許さないというように、リーラは窓の外をにらみつけている。


 その横顔に見惚れながら、ふいにクロードの頰を涙が滑り落ちた。


 どうして泣いているのか、自分でもわからなかった。悲しいからなのか、苦しいからなのか。


 リーラがクロードに気づき、忌々しげな顔で立ち上がった。そのまま出て行くと思った。だけど彼女はクロードのそばまで来ると、不本意そうに、そっと頭を抱きしめた。


 彼女の薄くやわらかい腹に額があたる。クロードは母親に抱かれたことはなかったが、こんな気持ちなのかとまた涙がこぼれた。


 その瞬間、なにかがふつりと切れる音がした。無意識に自分の中に張っていた、負の感情に紡がれた固い荒縄。


 彼女は自分たちの不利になる証言だとわかっていてなお、クロードに真実を教えた。


 それを愚かな自分は、彼女の慈悲だと都合よく解釈した。


 だからクロードは、なにも聞かなかったことにした。


 リーラの背に片腕を回す。


 そして沈黙を守ることで、片手だけでも、彼女たちの罪に加担していたいと、そう願った。





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お・ま・え・が・泣・く・な はっ、すみません、また‥‥
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