デイリーライフ
daily life 日常生活
恋人でもなんでもない、赤の他人の男との共同生活は、清乃が想像していたよりも問題が少なかった。
ユリウスは気のいい少年だった。
大学のパソコンで彼の国を調べてみると、数年前の王族の写真が出てきた。今よりも幼かったが、自然な笑顔を浮かべる美少年の顔は、確かにユリウスのものだった。
本物の王子様なのだと再確認して、そんな人間に関わることが少し恐ろしくはなった。
彼は身分相応の高貴さだとか鋭さだとか、只者ではないと思わせる空気を確かに持っていた。
そんな空気を持っているくせに、彼は自分が清乃にとって厄介者であるという認識を正しく持っていて、彼女の迷惑になることを避けるよう常に気をつけていた。
気配りの仕方が絶妙なのだ。
清乃には異性と交際関係にあった過去はなく、身内以外の男性に対する免疫が低い。普通に会話はするが、触れることのできる距離感は苦手だ。かと言って、腫れ物に触るような扱いは居心地が悪い。
一般的な女性の感性だというのが本人の認識だ。清乃は同年代の同性よりも、少しばかり異性に対する忌避感を強く感じるだけだ。
まだ思春期か、と笑われることもあるが、それが自分なのだからどうしようもない。
そんな彼女の機微を察しているのだろうか。初日に脅すような真似をして以来、ユリウスは不用意に距離を詰めてくることはしなかった。
それでも、狭い部屋での生活でぶつかってしまうことは当然のように起こる。そのとき彼は大袈裟な反応はしない。
おっとごめん。
それだけだ。
ユリウスは自分が女性の脅威になり得る性であることを自覚していて、その上でそのことを相手に意識させないよう振る舞うすべを心得ている。
距離感の測り方はスマートな大人そのものだ。
平時の子どもっぽい態度も、弟扱いして心の平穏を保とうとする清乃に合わせてのことなのだろうかと勘繰ってしまうくらいだ。
そんな彼との同居は案外楽しく快適で、清乃は少しずつ警戒心をなくしていった。
清乃は片付けが苦手だ。
出来ないわけではない。来客があるときには自力で部屋を調えるくらいできる。
ゴミはゴミ箱。洗う必要のある衣類は洗濯機へ、ベランダに干して乾いた物はクローゼットに吊るすか畳んでタンスに仕舞うかする。気づけば増えている本は、一人暮らしには不必要と言われながらもこだわって購入した大きめの本棚へ。最後に残った小物はそれぞれ元の場所へ。
一人暮らしの部屋には使途不明の小物はあまり存在せず、そこまで出来たら後は埃をはたき掃除機をかけ必要なら拭き掃除をする。
手順は分かっている。毎日少しずつやれば快適な部屋を保てると頭では理解しているのだ。
理解はしていても実行に移せないから、汚部屋が出来上がるのだ。
そんな清乃の部屋に、王子様が現れた。
彼はキラキラした外見だけでなく、掃除の腕もなかなかのものだった。皿洗いもすぐに上達した。
大学から帰ると、物も埃も散乱していない床を歩いて、ただいま、と声をかける。
するとコタツに入ってテレビを観たり清乃が適当に借りてきた平仮名ばかりの絵本を読んだりしている美少年がおかえり、と返してくれる。平仮名片仮名はもう読める、もう少し難しい本を読みたい、と注文を受けることもある。
彼の日本語の読み書きレベルは幼稚園児から小一になろうとしているところだ。
本を選ぶのは楽しいから、清乃は了解、と軽く返事をする。図書館で自分用の小説を借りるついでに児童書を物色するだけだ。日本昔話とかいいかもしれない。漫画ならルビを振ってあるものも多いし、そろそろ清乃の蔵書を貸してやってもいい。
一般書は図書館で借りられる。最近は小説は借りるもの、図書館にない漫画は買うもの、とすることが多い。早く就職して好きな本を自由に買えるだけの経済力を身に付けたいものだ。
清乃が帰る頃には朝食に使ったフライパンや皿は洗われて所定の場所に仕舞われており、キッチンが綺麗に片付いているからすぐに昼食の用意に取り掛かることができた。
昼はあまり時間がないからパスタ、うどん、ラーメン、焼きそばの簡単な麺類のローテーションだ。自分ひとりだと億劫で具無しにしてしまうところだが、育ち盛りの少年が腹を空かせて待っているのだと思えば野菜をザクザク切って肉と一緒に炒めるくらいは苦にならない。
洗い物をする必要がない、というのも大きな理由だ。
俎板も包丁も鍋も、使い終わったら流しに置いておく。そうすれば、夕食の支度をするまでにユリウスが洗って仕舞っておいてくれる。
優秀な十七歳である。
三カ国をペラペラ喋ることよりも、そのことは清乃を感心させた。
丸四日が経った。
清乃は適当な野菜と豚肉を炒めて甘辛く味付けした物を乗せたうどんを啜りながら、ユリウスを見た。
彼が今着ているのはくたびれたトレーナーとジーンズだ。美形は何を着ても様になる、と言いたいところだが、まったく似合っていない。キラキラオーラが消えない分、却って残念な印象になってしまっている。
ほとんど清乃が友人から貰い受けてきたものだ。
弟が急に大きくなったって言ってたよね。今実家から弟がフラっと遊びに来てて困ってるの。手放したい服とかあったらもらえない?
声をかけると、喜んでお下がりをまわしてくれた。
お礼は民法のノートでいいよ!
というのが大学生の定番の取引だ。
他にも合コン呼んで、というのもあるが、清乃は期待されていないから、言われたことがない。
格安店で購入した物とお下がりとで、最低限暮らせるだけの衣類は揃った。
そうして入手したつば付きニット帽、ぐるぐる巻いたマフラー、黒いロングコートにジーンズ。足元は百均で買った靴下と壊れやすいサンダル。モサッとして見えるが、この格好なら目立つまい、と同居生活開始から三日目にあたる昨日、必要な物を買い出しに出た。
食器はたまに来る友人用にと一通り揃っているから、あとは布団と靴くらいだ。
一緒に行きたいと訴えるユリウスの懇願に負けて、バスでホームセンターに向かった。
店内で一番安い布団一式を選んで、値引きされたスニーカーを試し履きしてみる。興味津々な少年のリクエストに応じてカップ麺も買っていく。残量が乏しくなった米や乾麺を買い足して、この際だからと洗剤など重い日用品もまとめてカートに入れていった。
「キヨ。これ以上はオレも持てない。どうするつもりだ」
王子様のくせに、荷物持ちをするつもりだったのか。紳士か。
「お姉さんに任せなさい」
このホームセンターでは、軽トラの無料貸し出しをしているのだ。
免許証を提示して手続きすると、店の前に置かれた軽トラの鍵を受け取ることができる。
ユリウスは訳が分からないという様子で黙ってついてくる。彼は運転席に収まる清乃を見て、ようやく今から何が始まるのか気づいたようだ。
「キヨは運転できるのか!」
驚きっぷりに少し引っかかったが、清乃は気分良く称賛の言葉を受け取った。
「もう一回言っとくけど、あたし大人だからね」
出身地の田舎では普通免許が必須だ。車が無いと生活できないから、高校卒業と同時に取得しておくのが一般的なのだ。高校生の小遣い増額交渉には応じてくれない親も、当たり前のように免許取得費用を出してくれる。
軽トラの運転は初めてだが、帰省時に運転の練習をさせてもらう親の車はマニュアル車だ。クラッチを踏むタイミングは身体が覚えている。
「かっこいいな! オレも運転したい」
「免許無いでしょうが。国際免許取ってから出直しな」
思いがけず少年の尊敬を勝ち得てアパートに荷物を下ろした後は、ひとりで軽トラを返却しに行ってバスで帰宅した。ふたり分のバス賃がもったいない、とユリウスは留守番させたのだ。
そう。数百円のバス賃を惜しみたくなるほど、生活費が厳しいのだ。
主に食費だ。最初に想定していた額では済みそうにないことに気づいてしまった。
お腹を空かせる子どもに我慢しろとは言いにくく、また成長期の身体に炭水化物ばかり摂らせるのもいかがなものか、と考えてしまうのだ。
掃除と皿洗いだけ、と言い捨てるにはユリウスの働きぶりはかなり清乃の生活の助けになっていた。バランスのとれた食事をお腹いっぱい食べさせるくらいは大人の義務のうちに数えるべきだろう。




