⑩ アルディス視点 弟が選ぶ未来
シストレイン子爵家のタウンハウスは、大きくも豪華でもないが隅々まできちんと整えられ居心地の良い雰囲気だった。
応接室に通され、人払いがされた後に俺は王太子殿下の前で膝をついた。
「アルディス・ハインツと申します。この度は寛大なご配慮、感謝いたします」
「ジークフリード・エル・アレグリンドです。王城で何度か顔は合わせていますが、こうした言葉を交わすのは初めてですね」
穏やかな王太子殿下の声には傲慢な響きはなかった。
「はい……我が主、フィリーネ皇女殿下におきましては、大変ご迷惑をおかけいたしまして……」
「ああ、その件については、今回は触れないことにしましょう」
王太子殿下は冷や汗をかきながら詫びる俺を遮った。
「フィリーネ皇女の行いに対し、ただの護衛にしかすぎないあなたが謝罪しても、なんの意味もない。また、我々があなたに抗議をしても、なんの意味もない。そうでしょう?ただ、お互いに嫌な気分になるだけです。なので、ここではそれは置いておきましょう」
ばっさりと切り捨てつつも、それは正論だった。
俺はさらに深く頭を下げ、恭順の意を示すしかなかった。
この王太子殿下は、ただの駒や装飾品としてではなく、俺を一人の人間として見ている。
レオノーラ姫も、きっとそうなのだろう。
「マックスと話をしてください。積もる話もあるでしょうから、私たちは席を外します」
そして、俺は弟と二人きりで広い室内に残された。
向き合った弟は口を引き結んで硬い表情をしていた。
「マックス……すまなかった」
「兄上、学園でのことなら謝罪は必要ありません。あれは、兄上が悪いのではないではありませんか」
そうかもしれないが、それでも。
「俺が、ついうっかりフィリーネ様におまえのことを話してしまったから。だからあんなことに……」
「キルシュではこれのことは知られた話です。兄上が話さなくても、いずれ耳に入っていたでしょう」
弟は左頬の仮面に触れながら言った。
弟は火竜の紋のおかげで幼いころから辛い思いをしてきた。
弟のことをよく知らない他人は、弟が火竜の紋を誇らしく思っており、仮面を被って出し惜しみしていると思っていることもあるが、実際はそうではない。
「すまなかった……フィリーネ様を止められなかった……また、おまえを守れなかった……本当に、すまなかった。キルシュに帰る前に、どうしても謝りたかったんだ」
「もういいのです。この前のことも、昔のことも……どちらにしろ兄上はなにも悪くない。その気持ちだけで十分です。もう謝らないでください」
弟は不愛想で無表情だが、実はとても優しい。
俺はその優しさに昔から何度も救われてきた。
そして、今もまた弟は俺を救ってくれてたのだ。
六歳も年上の兄だというのに不甲斐ないことこの上ないが、弟が変わらず優しいままだということが嬉しかった。
「それより……俺に訊きたいことがあるのではありませんか?」
「ある。もう、どこからなにを訊いていいのかわからないくらいある。だが、訊いてもいいのか?」
「ジークやレオに関わっていることは話せないこともありますが、俺のことは別に秘密でもなんでもないですよ」
王太子殿下と姫君を愛称で呼んでるのか。凄いな……
弟は入学直後に仮面のことで同級生に絡まれた時に王太子殿下に助けられ、そこからいつの間にか友人と言えるくらいの仲になった。レオノーラ姫も王太子殿下を通じて仲良くなり、シストレイン子爵家の長女キアーラ嬢とはレオノーラ姫を通じて友人となった。
その縁で夏の長期休暇の間はアルツェークのシストレイン子爵家の邸宅でお世話になることになり、そこで魔獣狩りをしていた。シストレイン子爵にはとてもよくしてもらっており、現在もこのタウンハウスに身を寄せている……
俺が質問をする前に、弟はこのように説明してくれた。
「もしかして、おまえが持ってたあのナイフは……」
「ジークから下賜されたものです。詳しくは話せませんが、いろいろとあったんです」
なにか王太子殿下に関係することで功績を挙げたということなのだろうか。
「おまえ……こっちで上手くやってるんだな。夏に友人がいるって言ってたが、どちらかといえば一匹狼やってるんだと思ってたよ」
「ジークたちがいなかったら、そうなっていたでしょうね」
そう言って肩を竦める弟は、俺が知っているのより随分と表情豊かになっている。
母から逃がすために留学させたのだが、それが予想以上にいい方向に働いたわけだ。
「その……レオノーラ姫ととても仲良さげだったが……」
「レオは……友人です」
今、妙な間があったな。
これから友人以上の関係になる予定なのだろうか。
レオノーラ姫もまんざらではない様子だった。
弟はキルシュ人だが、魔力も身体能力も高く、将来優れた武人になることは間違いない。
その上で王太子殿下の側近にでもなるのなら、姫君の降嫁を望むことも可能だろう。
「卒業後は、アレグリンドに残るつもりか?」
弟はしばし逡巡し、それからはっきりと頷いた。
「……そうか。そうだな。おまえには、この国の方が生きやすそうだ。将来おまえと肩を並べるのを楽しみにしていたんだが……仕方がないな」
「……すみません」
「いいんだ。おまえが選んだ道なら、それでいい。父上と兄上も残念がるだろうけど、俺がなんとか説得するよ。それに……」
俺は溜息をついた。
「おまえがキルシュで軍に入ったら、今の俺みたいなフィリーネ様の専属護衛にされるだろう。あの方は、自分の思い通りにならなかったおまえが気になっていらっしゃるようだ。本来なら、皇族の護衛に任命されるのはとても名誉なことなのだが……おまえもフィリーネ様を見ただろう?俺がこんなことを言うのもアレなんだが、こっちの王太子殿下の方が仕えがいがありそうだ」
頬に手を触れられるほど近くでレオノーラ姫と接している弟なら猶更、あのような振る舞いをしたフィリーネ様に仕えたいとは思わないだろう。
「……ジークもレオも、一度も仮面を取って見せろと言ったことはありません」
明言を避けつつ、それが弟の答えだった。
「……レオノーラ姫は、仮面の下を知らないのか?」
「いや、何度か見られています」
「見られた?見せたのではなく?」
「一番最初の時は、事故のような形で仮面が外れてしまって。二回目もそうでしたね。三回目は……俺が自分から仮面を外して見せました」
家族の前でも外さない仮面を、レオノーラ姫の前で敢えて外して見せたのか。
それは、弟にとって勇気のいることだっただろうに。
というか、仮面を外すなんて、どんな状況だったんだ?
まさか……!いやいや、そんなはずないだろ。相手は姫君なんだぞ?
下世話なことが気になってしまったが、なんとか意識を軌道修正した。
「そ、それで、レオノーラ姫はなんと?」
「……気持ち悪くも不気味でもない、と。そんなことは一度も思ったことがない、と言ってくれました」
その時のことを思い出しているのだろう。
弟の紫紺の瞳は優しい色を湛えて細められていた。
「そうか……そうか。よかったな」
俺は、火竜の紋も含めて受け入れてくれる人と弟がいつか出会うことを願っていた。
この異国の地でそれが叶ったようだ。
それがわかっただけで、俺は満足だ。
「おまえは俺の弟だ。キルシュとアレグリンドに別れても、それは変わらないんだからな。おまえが元気でいてくれさえすれば、俺はそれでいい」
すっかり大きくなって俺とほぼ同じ高さになった弟の赤い頭をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
弟が部屋の外にいた侍従に話が終わったことを告げると、すぐに壮年の夫婦が現れた。
「ああ、あなたがマックス君の兄上ですか。私はラウル・シストレインと申します。こっちは妻のメアリーです」
「メアリー・シストレインと申します。まあ、マックス君によく似ていらっしゃるわ」
シストレイン子爵夫妻は、人の好さそうな笑顔で俺と握手を交わした。
「アルディス・ハインツと申します。弟がお世話になっております」
子爵はカイル氏と同じ色の瞳を細め、弟の肩に手を置いた。
「マックス君はカイルとキアーラにとっていい友人というだけではありません。詳細は伏せさせていただきますが、我が家はマックス君に多大な恩があります。シストレイン子爵家の名にかけて、アレグリンドでのマックス君の快適な生活を保障します。どうかご安心ください」
「マックス君は素直でとてもいい子ですわね。わたくし、三人目の息子だと思っていますのよ」
子爵夫妻の言葉に、弟が照れたように僅かに笑った。
驚いたことに弟はアレグリンドで両親のような存在まで得ることができたようだ。
ここで王太子殿下たちも応接室に戻って来た。
「マックス。ちゃんと話はできた?」
「ああ、できたよ。大丈夫だ」
レオノーラ姫は心配げな顔で弟の袖をそっと掴み、弟はそれに微笑みを返し安心させるようにその手をぽんぽんと叩いた。
これでまだ友人だというのか?弟の認識は大丈夫なのか?
というか、仮面の下を見せた時は一体なにを
「アルディス・ハインツ殿」
再び下世話な方向に意識が傾きかけたところで王太子殿下に名を呼ばれ、俺はぱっと姿勢を正した。
「マックスはキルシュからの留学生で、アレグリンド王家の家臣ではない。そういう意味では、私にとって唯一の純粋な友人です。私のような立場の者からすれば、とても得難い存在なのです」
弟は、王太子殿下には卒業後にアレグリンドに残りたいということを打ち明けているのだろう。
王太子殿下も弟を大事にしてくれているようだ。
俺としても願ってもないことだ。
「王太子殿下。一つだけ、質問をすることをお許しいただけますか」
「ええ、答えられることならなんでも答えますよ」
鷹揚に頷いた王太子殿下の空色の瞳を、俺は真っすぐに見つめた。
「なぜ、弟なのですか?王太子殿下の友人候補は他にもたくさんいたのではありませんか?」
王立学園には、たくさんの生徒がいるはずだ。
その中で、なぜわざわざ留学生の弟を選んだのだろうか。
「正直に言いますと、最初は火竜の紋というのが気になって近づいたのです。少し話をしてみて、マックスは私に全く媚びないことに気がつきました。当時の私としてはそれが珍しかった。異国からの留学生で周りに誰も頼れる人がいないのに、自分から孤立するような態度のマックスがなんとなく放っておけなくて、それからも学友としてつきあっていたのですが、マックスは媚びないだけでなく、私になにも求めてこなかった。欲しいものがないかと尋ねても、なにもいらないと言うのです。私を王太子としてではなく、ただの人間として扱ってくれる。それが私にとってどれだけ価値のあることか、おわかりいただけますか」
わかる、と思う。少なくとも想像はできる。
輝くような美貌の王太子殿下も、きっと人知れず苦労を重ねてきたのだろう。
弟の強さと優しさは、きっとこの方の支えになる。
「話してくださってありがとうございます。マックスは、私の大切な弟です。どうか、マックスをよろしくお願いいたします」
俺は人生で一番心を籠めて礼をとった。
「もちろんです。ご心配なきよう……矛盾するようで申し訳ないのですが、どうか、このことは内密にお願いします」
「承知しております。今日のことは、フィリーネ様にも父にも一言も漏らさないと、この魂に懸けて誓います。弟は寮に不在で会えなかった、ということにいたします」
「そうしてもらえると助かります」
俺の弟が王太子殿下の友人だということがフィリーネ様に知られたらなんて、考えるだけでも嫌になってしまう。
レオノーラ姫と寄り添うように立つ弟は本当に幸せそうな顔をしていた。
そんな弟に、俺も胸の奥が温かくなった。
「どうか……どうか、弟をよろしくお願いいたします」
俺は再度深く頭を下げた。
俺がタウンハウスを辞する際に、
「もしどこかに亡命をなさるなら、アレグリンドを最初の候補に挙げてくださいね」
と王太子殿下に囁かれた。
冗談っぽい口調だったが、美しい空色の瞳は全く笑っていなかったのを俺は見逃さなかった。
王城に戻り、フィリーネ様の客室に向かうと護衛仲間が泣きそうな顔で駆け寄ってきた。
「アルディスさん!どこに行ってたんですか!」
フィリーネ様がいるはずの客室からは、なにやら喚き声が聞こえる。
また癇癪を起こしているようだ。
「アルディスさんはどこだって、ずっとこんな調子で、もう本当に大変だったんですから!」
のっそりとした熊のような外見から彼はフィリーネ様に冷遇されている。
忠誠心も厚く腕の立つ軍人だというのに、なんとももったいないことだ。
ついさっきアレグリンドの王族に会ったばかりの俺は、フィリーネ様と比べその落差に溜息をついた。
「俺、このままアレグリンドに亡命しようかな……」
「やめてくださいよ!俺、本気で泣きますからね!」
大男に涙目で迫られ、俺はまた溜息をつきながら客室の扉を叩いた。




