⑧ アルディス視点 二人の姫君
フィリーネ様についてアレグリンドに行くことになった時、最初に思い浮かんだのは弟のことだった。
アレグリンド王立学園に通う弟に、運が良ければ会えるかもしれないと思ったのだ。
気が重い道中で、それだけが僅かな希望だった。
既に正式に断られているというのに輿入れを諦めきれないフィリーネ様は、絶対にジークフリード王太子殿下を説得すると息まいているが、フィリーネ様以外の面々は暗い表情だった。
アレグリンドの王城に到着して早々に悪い方の予想が正しかったことがわかった。
出迎えた王太子殿下は聞きしに勝る美しさの貴公子だった。
そして、その隣には王太子殿下と同じプラチナブロンドを見せつけるように高々と結い上げた美しい少女。
王太子殿下に駆け寄ったフィリーネ様は、その少女に阻まれた。
レオノーラ・エル・アレグリンドと名乗った少女は、王太子殿下の従妹で現国王陛下の姪にあたるということだった。
その後もレオノーラ姫は王太子殿下にぴったりと寄り添い、フィリーネ様が王太子殿下に接触するのをことごとく阻止し続けた。
王太子殿下もその周りも誰もそれを咎めないことから、敢えてそうしているのが明らかだった。
フィリーネ様はやはり歓迎されていなかったのだ。
その後もフィリーネ様は王太子殿下に突撃してはレオノーラ姫に撃退されることを繰り返した。
フィリーネ様が悪いことはわかってはいても、高飛車な態度で上から見下ろしながら嫌味と嘲笑をぶつけてくるレオノーラ姫への心象はかなり悪かった。
それが変わったのは、レオノーラ姫がフィリーネ様をお茶会に誘った時だった。
王太子殿下に輿入れしても不幸になるだけだ、と静かに諭すレオノーラ姫は王族にふさわしい気品に満ちていて、フィリーネ様の三歳も下の十六歳だというのが信じられないほど大人びていた。
これでフィリーネ様が諦めてくれるかもしれない、と期待したが残念ながらそれは叶わなかった。
あろうことかお茶をレオノーラ姫にぶちまけたのだ。
俺はあまりのことに心臓が止まりそうになりながら、直後に別の意味で驚愕した。
お茶はレオノーラ姫に届くことはなく、いつの間にか展開していた魔力障壁に遮られたのだ。
よく見ると、ティーセットや湯を適温に保つための魔法も使われていることがわかり、その巧みな魔力コントロールに目を見張った。
レオノーラ姫はただ美しく嫋やかなだけではなく、それ以上のなにかをまだ隠しているのだと感じた。
そして、それが確信に変わったのは、フィリーネ様が気まぐれにアレグリンド王立学園を訪れた時だった。
なんの許可もなく勝手なことをしてはいけない、と訴えてもフィリーネ様は癇癪を起こすばかりで俺たちの言葉は届かなかった。
「学園にはアルディスの弟もいるのでしょう?久しぶりに会えるかもしれないのだから、喜んだらどうなの!」
と叫ぶフィリーネ様は俺の弟ではなく、弟の頬にある火竜の紋が見たいだけなのだ。
俺は弟がそれを見られるのをどれだけ嫌がっているのを知っているというのに、フィリーネ様を止める術がない。
不甲斐ない俺にできることは、弟がフィリーネ様に見つからないことを天に祈ることだけだった。
俺の心からの祈りも空しく、弟はあっさりと見つかってしまった。
目立つ赤い髪で長身だからすぐに目についた。
「いたわ!あの子ね!」
小走りで駆け寄るフィリーネ様と、青い顔でその後に従う俺と侍女を見て、弟は逃げるわけにもいかず顔を強張らせた。
「キルシュの皇女、フィリーネ・セイレス・キルシュ殿下であらせられる」
俺が定型句を口にすると、弟は立ったまま騎士の礼をとった。
「マクスウェル・ハインツと申します。ハインツ伯爵家の三男で、アルディス・ハインツの弟です」
必要最低限の挨拶だった。その顔は伏せられており、声からはなんの感情も読み取れない。
「……アルディス。あなたの弟は、礼儀がなっていないのではなくって?」
フィリーネ様は、立礼が不敬だと言っているのだ。
確かにキルシュではそうなのだが、ここはアレグリンドだ。
我々がまだ知らないルールがあるのかもしれないと思っても、そう諭したところで聞いてもらえそうにない。
フィリーネ様の機嫌が急降下していくのが見て取れた。
今は休み時間なのか、大勢の生徒が遠巻きにして成り行きを見守っている。
こんなところで癇癪を起こされたらマズい。
「マックス」
俺は申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら、弟に声をかけた。
すまないが、今は従ってほしい。
俺の気持ちを酌んでくれたらしく、弟はフィリーネ様の前に膝をついた。
これで一度息をついた俺だったが、すぐにまた胃がキリキリと痛むことになった。
「本当に仮面をつけているのね。わたくし、火竜の紋というのをずっと見てみたいと思っていたのよ。見せてご覧なさい」
弟がなぜ仮面をつけているのか、その理由など考えたこともないのだろう。
フィリーネ様は歌うような声で、さも当然なことのように命じた。
しかし、弟は顔を伏せたまま動かなかった。
「どうしたの?聞こえなかった?仮面を外しなさいと言っているのよ?」
フィリーネ様はそのちょっとした好奇心を満たすためだけに、弟の心を踏みにじろうとしている。
俺は体中から血の気が引く思いだった。
「仮面を外して見せろと言っているのよ!わたくしに逆らうつもりなの!?」
まだ動かない弟に、痺れを切らしたフィリーネ様は弟の顔に手をのばし……
「なにをしている!」
突然響いた鋭い声にその動きを止めた。
人垣を割るようにして現れたのは、レオノーラ姫だった。
ただ、あまりにもいつもと違うその姿に俺たちは揃って目を丸くした。
俺たちが毎日目にしていたのは、豪華なドレスを身に纏い、艶やかなプラチナブロンドを威嚇するように高々と結い上げているレオノーラ姫だった。
それなのに、今のレオノーラ姫は、長い髪をポニーテールで一つにまとめ、なぜか男子生徒の制服を着てなんの装飾品も身に着けていない。
王族の姫君とは思えない装いだった。
そして、弟の仮面を剥がそうとしたフィリーネ様に、レオノーラ姫は怒りを露わにした。
魔力が漏れ出し空気を震わせるほどの激しい怒りに、俺は気圧された。
弟もフィリーネ様ではなく、レオノーラ姫の言葉に従った。
それが全てを物語っているようだった。
レオノーラ姫はここでも鋭い舌鋒ながらもフィリーネ様を諭そうとしていた。
だが残念ながらフィリーネ様にその言葉は届かず、また癇癪を起こしたフィリーネ様はレオノーラ姫に平手打ちをしてしまった。
俺はまた心臓が止まりそうになりながらも、レオノーラ姫がフィリーネ様の動きを完全に把握していたことが見えていた。
レオノーラ姫は軽く目を瞑っただけで眉一つ動かさず、体を傾ぐこともなく敢えて平手をその白い頬で受け入れたのだ。
そんなことができる姫君がいるなんて信じられない思いだった。
美しく、嫋やかで、聡明な姫君。
レオノーラ姫はやはりそれ以上のものを秘めていたのだ。
懲りもせずにまた手を振り上げたフィリーネ様を抑え込み、俺はレオノーラ姫の前から一刻も早く姿を消したくて王立学園を去った。
去り際にちらりと後ろを振り返ると、レオノーラ姫をすでに多くの女生徒に取り囲まれているのが見えた。
それだけ慕われているのだろう。
その日の夕刻、謁見の間に引き出されたフィリーネ様は王立学園の規律を乱し王族を害したとしてアレグリンドからの永久追放を言い渡された。
王太子殿下は美しい笑顔のままで激怒しており、その体からはレオノーラ姫に似た波長の魔力が漏れ出しフィリーネ様を震えあがらせていた。
よく見ると、壁際で控えている騎士たちの中にも必要以上に険しい顔でフィリーネ様を睨みつけている者がちらほらといる。
ここでもレオノーラ姫の人望が垣間見れた。
俺はフィリーネ様のことを、子供っぽいところはあっても天真爛漫な可愛い姫君だと思っていた。
専属護衛に指名された時は本当に誇らしかった。
だが、初めて他国の姫君を間近で目にして、そうは思えなくなってしまった。
フィリーネ様とレオノーラ姫。
身分としてはフィリーネ様の方が上だが、その資質は比べるまでもなかった。
与えられた客室に戻り、また癇癪を起こして泣きわめくフィリーネ様を侍女たちが宥めるのを見ながら、暗澹たる気分になった。




