第五章・青春のきらめき(その4)
六月に入って間もなく、体育祭の当日が来た。その日は梅雨入り前で空は晴れているものの、どこか蒸し暑い日だった。潮音たち三年生はこの体育祭には競技者として参加はするものの、行事そのものの運営や進行は二年生以下に一任する形になっていた。
体育祭の花と言うべきクラス対抗の応援合戦も、中心になって行うのは二年生以下の生徒たちだったが、その中でひときわ潮音の目を引いたのは、二年生の樋沢遥子や壬生小春が松風女子学園の伝統とも言うべき学ラン姿で応援を行っていたことだった。遥子や小春がきびきびとした動作で応援を行うのを見て、潮音も自分自身が一年生のときに学ランを着て応援合戦に出場したことを思い出していたが、そこで潮音の隣にいた暁子が声をかけていた。
「なんかあたしたちが一年生だったときのことを思い出しちゃうよね。あのときはあたしも栄介から学ラン借りて応援合戦に出たんだっけ」
「あのときは私だって驚いたよ。今までこういうのに出たことがなかった暁子が、いきなり応援合戦に出たいって自分から言い出したんだから」
そこで暁子は、急にもじもじしながら語調を落して答えた。
「あのときはあんたが、ちゃんと高校生活になじめるか、ずっと心配だったんだ。だから自分だって学ラン着てみたら、少しはあんたの気持ちに近づけるかもしれないって思ったから…」
潮音はその暁子の言葉を聞いて、少しむっとした顔をした。
「私に対してそんなに変に気を使わなくたっていいよ。暁子は私のことなんか気にしてないで、自分の好きなことややりたいことやればいいじゃん」
暁子はそこで、潮音は自分に対して変におせっかいを焼くようなタイプこそ一番嫌いそうだと感じていた。そこで暁子は、返事をしながらあらためて応援合戦を行う後輩たちを見つめ直した。
「たしかにあの頃のあたしは、あんたがこの学校でちゃんとやっていけるか不安でしょうがなかったけど、あれから二年たってあんたはあたしが思ったよりずっとちゃんとやってるよ。…あたしがおせっかいだったなんてことくらいはわかってる。あたしは人のこと心配してるくらいだったら、まず自分自身のこと心配した方がいいのにね」
暁子が言葉のトーンを落すのを聞いて、潮音は心配そうな顔をした。
「だから暁子はそんな風に変に思いつめることなんかないじゃん。もっと素直で自然にしてりゃいいのに。そりゃ私だって、自分が女になってからいろんな面で暁子の助けがなかったら、ここまでやってくることはできなかったとは思ってるよ。…でも高校卒業してからは暁子のことを頼りにしないで、自分の力で何もかもしなきゃいけないのにね」
「潮音こそそうやって、変に強がることなんかないよ。そりゃ来年高校卒業して大学行ったらあんたとは離ればなれになるかもしれないけど、そこでもつらいときには話し相手になってくれるような友達作ればいいじゃん」
ここで暁子の「友達」という言葉を聞いて、潮音はこの高校で出会った個性豊かな生徒たちのことをあらためて思い出していた。潮音はこれまで、自分はなんとかしてこの学校でやっていこうと頑張ってきたけれども、周りの生徒たちもそれに応えてくれたからこそ、この女子校でこれまでやっていくことができたと感じていた。潮音は自分が女になった直後の、あらゆる人たちの視線から目をそむけていた頃のことを思うと、これからの人生で新しい出会いがあってもそれを恐れることなどないと意を新たにしていた。
そこで潮音は、あらためて応援合戦を行う後輩たちに目を向けた。ちょうど応援合戦は、今年高等部に進級した松崎香澄たちが手にポンポンを持って、チアガール姿で応援を行う番になっていた。潮音はこのチアガールの衣裳は、妻崎すぴかたちのファッション同好会がデザインを行ったものだということを前もって聞いていたので、自分たちが紫や他のクラスメイトたちと一緒に、生徒会やその他の活動で頑張ってきたことが後輩たちにもしっかりと受け継がれているとしっかりと感じていた。
さらに潮音は、昨年の夏にキャサリンの母親の小百合と会って話をしたときのことを思い出していた。今ここで後輩たちが受け継いでいる学校の伝統も、小百合をはじめとする先輩たちの代、いやそれ以前から連綿と受け継がれてきたものだと思うと、潮音はあらためて感慨深いものがあった。
するとそこに、美咲が姿を現した。美咲はまだ妊娠の初期で、見る限りは体形などにあまり変化は見られなかったが、それでも潮音は心配そうな顔をして美咲に話しかけた。
「先生…ほんとに大丈夫なんですか。今は大切な時期なんだから、あまり無理をしないで下さい」
しかし美咲は、この期に及んでも明るく振舞っていた。
「まだ大丈夫よ。それより学校のみんながこの体育祭で一生懸命頑張ってるの見ると、私だってじっとしてられないからね。さすがに競技に参加したりはしないけど」
潮音は美咲の明るくてお調子者なところは結婚や妊娠を経ても相変らずだと思っていたが、むしろこの美咲の明るさがあったからこそ、それで学校のみんなを盛り上げてきたのではないかと思うと悪い気はしなかった。そこで潮音の側も、美咲に話しかけた。
「先生…本当にありがとうございます。先生方が私のことを受け入れてくれなかったら、私の高校生活はありませんでした」
潮音があらたまった態度で礼を言ったのには、美咲も目を丸くした。
「そんなにかしこまる必要はないのよ。藤坂さんはこの二年余りの間、ほんとによく頑張ったと思うから」
美咲に言われて、潮音は照れくさそうな顔をした。するとそこに生物教師の山代紗智が現れて美咲に声をかけた。
「美咲、もう少しおとなしくしてなさい。身重なのだから」
「ありがとう、さっちんも心配してくれて。でもこうやってみんなで体育祭で盛り上がってるとこ見てると、私たちが生徒として学校行ってた頃から全然変ってないよね」
「ほんとにそうよね。たしかに先生の仕事は大変なことだっていっぱいあるけど、こういうの見てるとうちの学校に就職して良かったと思えてくるわ」
潮音も美咲と紗智は松風の中等部のときからの同級生だという話をかねてから聞いていたので、美咲と紗智は相変らず仲がいいのだなと思っていた。しかしそこで、紗智は潮音に顔を向けた。
「藤坂さん…よね。私もあなたのことは前から聞いているわ。あなたとは前からちゃんと話がしたいって思ってたの」
潮音がきょとんとしていると、紗智はあらためて潮音の顔を向き直しながら言った。
「藤坂さんはもしかして、自分はどうしてこの松風に入れたんだろうとか思ってるんじゃない?」
「え…その、私は今でも、中学三年までは男だった自分が、どうしてこの学校に入れたんだろうと思うことがあります」
その潮音の言葉を、紗智はうなづきながら聞いていた。
「私だって思ってるよ。私がどうして今松風に就職したんだろうかってね。私は大学を出てすぐに民間の会社に就職したけど、そこは仕事が毎日夜中近くまであってパワハラだってあって、そこで心身ともにすり減って会社を辞めた後は、何もやる気が起きなくなってしばらくニート生活をしてたんだ。そのとき美咲がうちの学校で先生を募集しているという話を持ちかけてくれなかったら、私だって今ごろどうなっていたかわかんないよ」
潮音は日ごろ真面目な先生として通っていた紗智の口から、自分が以前ニートだったという話を聞かされるとは思っていなかっただけに、意外そうな顔をした。そこで潮音は、思い切って紗智に打ち明けた。
「私は男から女になった直後は、しばらく学校にも行けなかったし、誰にも会いたくないって思っていました。でもこれじゃいけないと思って、なんとかしてこの学校を受験したのです」
その潮音の言葉に、紗智は深く感じるものがあったようだった。
「その気持ち、私だってわかるよ。私だって会社辞めてブラブラしてた頃は、人と会うことさえ恥ずかしいって思ってたもの。でも今では、自分にそういう経験があったからこそ、学校でちょっとつまづいた子がいても、その子に対して優しくできるようになったって思ってるよ」
潮音自身も、その紗智の言葉からは少し元気をもらえたような気がした。潮音はあらためてはっきりとした口調で紗智にお礼を言った。
「ありがとうございました。先生から話を聞いて自分も少し勇気をもらえたような気がします」
「それはいいけど、午後の種目がそろそろ始まるんでしょ。準備した方がいいんじゃないの」
紗智に言われて、潮音は午後の種目の準備にとりかかった。
潮音を見送った後で、紗智はふと息をつきながら美咲に話しかけた。
「美咲が早々に結婚するだけでなく、赤ちゃんまでできるとは思わなかったよ。それに比べたら私なんか何やってるんだろうって思うことがあるけどね。先生の仕事についていくだけで精一杯なのに」
「さっちんこそ私のことなんか気にしてないで、自分らしくしてりゃいいのに」
「その『自分らしく』っていうのがわかったら、だれも苦労なんかしないよ」
そう言いながら紗智は、体育祭の午後の準備にとりかかる生徒たちの姿を眺めて深く息をついていた。
午後になっても体育祭はさまざまな競技が続き、盛り上がりは最高潮にまで高まっていった。そしてクラス対抗リレーが一段落して体育祭がフィナーレを迎えると、高等部の三年生たちはみな満ち足りた表情をしていた。それは体育祭の場を通して仲間たちと盛り上がることができるのもこれが最後だと認識しているからだったが、むしろ自分たちは勝敗に関係なく全力を出し切ったのだから悔いはないと感じているかのようだった。
閉会式が終ると、潮音はさっそく紫と光瑠のところに行って固い握手を交わした。潮音としては体育祭でも自分たちを手助けしてくれた紫や光瑠たちに、なんとしても感謝の意を伝えておきたかった。紫や光瑠にとっても、中等部以来ずっと参加してきた体育祭に出場するのもこれが最後ということもあって、特別な感慨を抱いているかのようだった。
その姿には体育祭の準備や運営を担当していた二年生の小春や遥子、すぴかたちにとっても皆、胸にこみ上げてくるものがあったようだった。
「三年生の先輩たちも、私たちのことをちゃんと指導して下さってありがとうございました」
小春がかしこまった態度で潮音や紫たちにお礼を言ったのには、むしろ紫の方が戸惑っていた。
「二年生の子たちも、そんなにかしこまることなんかないのよ。来年は香澄たちがあなたたちの後を継いでしっかりやってくれたらいいのにね」
その紫の言葉に対して二年生たちはしっかり返事をしたが、潮音はここで後輩たちに囲まれる紫の姿を眺めながら、この体育祭だけでなくその直後に控えているバレエの発表会こそが、自分の高校生活の総決算だ、なんとしても紫の想いにこたえなければならないと感じていた。




