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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第六部
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第五章・青春のきらめき(その2)

 美咲が懐妊したことを知らされて、潮音はますますバレエのレッスンに熱心に打ち込むようになった。もちろん美咲が紫や潮音の舞台を直接見に来るわけではないとしても、潮音にとってはこのバレエの舞台を成功させることこそが、これまでややお調子者ながらも持ち前の明るく陽気な性格で学校を盛り上げてきただけでなく、高校入学以来かつて男だった自分自身をも受け止めて支えてくれた美咲に感謝の意を示すだけでなく、出産によって新たな門出を踏み出そうとしている美咲を祝福する道であるかのように感じていた。


 潮音は体育祭のときは美咲も生徒と一体になって応援したことや、文化祭の劇を応援してくれたこと、さらに北海道に修学旅行に行ったとき、美咲と一緒に川でラフティングをやったことなどを思い出して、自分の高校生活は美咲とともにあったことをあらためて実感せずにはいられなかった。


 それだけでなく、潮音は美咲が懐妊したという話を聞かされて、女性とは子どもを産む側の性であることをあらためて自らの問題として認識せずにはいられなかった。もともと男子として育ってきた潮音にとって、自分だって将来体の中に新しい生命を宿す日が来ることだってあるかもしれないと思うと、それだけで体の奥からぞくりとするような震えがこみ上げてくるような心地がした。


 そこで潮音がまず思い出していたのは、モニカのことだった。いつも明るく気丈な性格で潮音を温かく出迎えてくれたモニカだって、フィリピンから来日して流風を産み育ててきたのには、どれだけの苦労があっただろうかと思うと、潮音はあらためて胸に迫るものがあった。


 さらに潮音は、冬の寒い夜に家を飛び出した榎並愛里紗を迎えに来た、愛里紗の母親の榎並公江や、昨年の夏休みに潮音に会ったキャサリンの母親の小百合のことも気になっていた。公江だって薬剤師の仕事をしながらシングルマザーとして愛里紗を育ててきた苦労はいかばかりだっただろう、あるいは小百合がロンドンでキャサリンや弟を育てたときはと考えれば考えるほど、潮音は母親になるとはどのようなことなのかという答えのない問いに直面して、ますます疑問がもつれた糸玉のようにからまっていくような心地がした。


 しかし潮音がバレエの発表会に全力を注いでいたのは、そのためだけではなかった。潮音たちが発表会で演じる「人魚姫」は、潮音にとってもひときわ思い入れの強い演目だったからであった。


 潮音は幼い頃、綾乃から何度もこの人魚姫の絵本を読んでもらっていたことを思い出していたが、いざ自分が女になるという経験の後で「人魚姫」の物語を読み返してみると、人間の足を手に入れた人魚姫の苦しみや、それでも王子への愛を貫こうとした人魚姫の想いが、決して他人事とは思えなかった。潮音は人魚姫のことについて考えるたびに、かつて自身が女になってから間もない頃、海辺で流風に言われた言葉を思い浮べずにはいられなかった。


――潮音ちゃんだって少しはわかったんじゃない? あの人魚姫じゃないけど、二本の足で地面を踏みしめて歩きながら毎日暮らしていく、そして人と会って言葉を交わす、それが実はどれだけ大変なことか、そしてそれだけのことができなくて苦しんでいる人がこの世の中にどれだけいるかということが。


 潮音はこの流風の言葉を思い出すたびに、自分はその言葉を言われたころに比べて少しは、自分自身の足で地面を踏みしめて歩いていくための覚悟や、人と接していくための(すべ)を見つけることができただろうかと自問せずにはいられなかった。


 バレエで主役の人魚姫の役を射止めたのはもちろん紫で、王子の役を演じるのは栗沢渉だったが、潮音は自分がたとえわき役だとしても、全力で紫の演技を支えるしかない、そしてそうすることによって、人魚姫の想いにも少しでも近づけるのではないかと思うしかなかった。


 潮音がレッスンの合間の休憩時間にぼんやりとこのようなことを考えていると、そばに萌葱と浅葱の双子の姉妹が元気よく声をかけながら寄ってきた。


「潮音お姉ちゃん」


 萌葱と浅葱は、発表会で行われる「人魚姫」の舞台では、序盤に海の底の宮殿で人魚姫やその姉妹たちと一緒に遊ぶ魚たちの役で出演することになっていた。潮音はこの二人の屈託のない笑顔を目の当りにしたとき、少しほっとした気分になれたような気がした。萌葱と浅葱にとっては、始まったばかりの中学校生活がいろいろ新鮮なことばかりのようで、潮音に向けて学校についての話を目を輝かせながら口々に話してみせた。潮音もそれに笑顔で耳を傾けていた。


 紫はそのような潮音の様子を同じレッスン室で遠巻きに眺めながら、一年生のときに文化祭の劇でジュリエットの役を演じたときには、演技の厳しさに音を上げるばかりだった潮音が、自分からバレエのレッスンに熱心に取り組んでいることに対して、やはり潮音の心の中では何か大きな変化が起きたのだろうということを敏感に感じ取っていた。


 潮音がバレエのレッスンから帰宅してその日の夕食が済むと、潮音は母親の則子に食事の後片付けと食器洗いは自分でやるからと申し出た。


 則子がどうしたのかといぶかしんだので、潮音は思い切って美咲が懐妊したことを則子に話した。次いで潮音は、それを機に自分も妊娠や出産をして母親になるとはどういうことかを考えずにはいられなくなったが、そう思うと自分が母親である則子のことを大切にしなければとあらためて感じたと則子にはっきり打ち明けた。則子は潮音の話を最後まで聞くと、思わず表情をほころばせていた。


「潮音も素直なところがあるじゃない。でも潮音の気持ちもわかるけど、そんなに気を使ってくれなくてもいいのよ。それに…女の人だからといって必ず子どもができるわけじゃないの。子どもができなくて悩んでる女の人だって大勢いるんだから、そのような人たちのこともちゃんと考えてあげなさい」


 潮音は則子の言葉に納得したような表情をした後で、台所で食器洗いにとりかかったが、それを綾乃もにんまりとした表情で眺めていた。綾乃は潮音が女になった頃の情緒が不安定だった頃の様子をよく知っているだけに、潮音の成長した様子がことのほか嬉しいようだった。潮音の父親の雄一は、どこか気まずそうな表情をしていたが。


 潮音は自室に戻ってから、弁護士の仕事について高校生向けに書かれた本をあらためて広げてみた。潮音はそもそも自分が弁護士になれるかすらわからなかったが、仮に自分が弁護士になれたとしても、女性として弁護士の仕事をするにはどうすればいいだろうか、これがもし昇だったら、この問題についてどのように考えて助言をくれるだろうかと考えていた。


 そこであらためて潮音は、紫の家族と一緒に食事をしたとき、紫の父親の亮太郎から、自分は悩んだ経験があるからこそそれを活かして弁護士になればいいと勧められたことを思い出していたが、そのためには弁護士としてどうするべきなのか、その答えはまだ出ていないと感じていた。



 連休が明けると、生徒たちの話題は美咲が懐妊したことで持ちきりだった。これについては学年主任の牧園久恵からも、美咲が産休に入るのは秋になってからだが、すでにその前から美咲の仕事の負担を減らすという話があった。そこで久恵は、妊娠は大切でデリケートな話題なのだから、あまり面白半分や興味本位で取り上げていいようなことではないと生徒たちに釘をさしていた。


 放課後に潮音と暁子、優菜が三人で帰宅の途についたときの話題も、自然と美咲の話になった。しかし暁子は学校の廊下を潮音や優菜と連れ立って歩きながらも、潮音が美咲の妊娠のことを学校の他の生徒たちよりも気にかけていることに気がついていた。


「もしかして潮音は自分がもともと男の子だったからこそ、先生に赤ちゃんが産まれることがもっと気になるわけ?」


 潮音はそれに対して、軽く首を振りながら答えた。


「それもあるけどさ…。美咲先生には高校でだいぶお世話になったからね。もし美咲先生がいなかったら、私はこの学校でここまでちゃんとやってくることなんかできなかったと思うよ」


 そこで優菜が口をはさんだ。


「そう思うのはええけど、それやったら潮音がもっと勉強頑張ってええ大学に入るんが、みさきちにとって一番の恩返しになるんとちゃうかな」


 潮音はそこで、痛いところを突かれたと言わんばかりに気まずそうな表情をした。


 ちょうどそこで、潮音たちが樋沢遥子や壬生小春とすれ違うと、遥子の方が先にあいさつをした。


「藤坂先輩もこれから家に帰るのですか?」


 遥子の声のトーンの元気さは相変らずだった。そこで潮音は遥子に声をかけた。


「樋沢さんたちはちょうど今、体育祭の準備で忙しいの?」


「はい。今いろんなクラスから応援合戦でどんなことをするか、案が続々出ているのですよ」


「フットサル同好会との両立も大変かもしれないけど、頑張ってね。すぴかたちのファッション同好会が、応援合戦でどんな衣裳をデザインするか楽しみだな」


 遥子が笑顔を浮べていると、優菜も遥子と小春に声をかけた。


「体育祭が終ったら、それからすぐに二年は修学旅行やな。みんな楽しみにしとるんとちゃうの」


「はい。すでに班分けも決っているのですよ。私も北海道で牧場体験などをするのが楽しみです」


「小春は牧場体験だよね。あたしはラフティングで、すぴかはハンドメイドだけど」


 遥子たちが修学旅行を楽しみにしていることは、話し方からも明らかだった。その後で小春は、あらためて潮音たちに話しかけた。


「ところで美咲先生のことですが、私たち二年生の間でも噂になってますよ。もし赤ちゃんが産まれたら生徒会も何かした方がいいでしょうか」


「それは今の二年生たちが考えることじゃないかな。ともかく美咲先生に元気な赤ちゃんが産まれたらいいのにね」


 潮音が答えると、遥子と優菜も別れのあいさつをしてその場を立ち去った。潮音たち三人が廊下を靴箱へと向かう途中で、暁子が潮音に声をかけた。


「やっぱり潮音って後輩たちとも仲いいじゃない」


 暁子の言葉を、潮音は照れ笑いを浮べながら聞いていた。

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