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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第六部
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第五章・青春のきらめき(その1)

 潮音たちが高等部の三年生になって、教室の雰囲気はこれまでと比べて明らかに変ったように感じられた。それは大学受験や進路選択が目前に迫って、生徒たちの間にも緊張感が高まっているということもあるが、特に中等部から松風女子学園に在籍している生徒たちにとっては、中学入学以来ずっと通ってきたこの学校や、一緒に過ごして苦楽を共にした学友たちとも間もなく別れの時が来るという思いが、ますます名残惜しい気持ちにさせているようだった。


 生徒たちの間には受験や進路の話をする者も増える一方で、教室の中では相変らず趣味や噂などをネタにおしゃべりに花を咲かせている者もいたが、潮音の様子はそのどちらとも違っていた。


 潮音にとって、もちろん受験や進路のことも気になってはいたが、潮音はそれよりも先に六月に行われるバレエの発表会に全力を注ぎ、その後で勉強に取り組もうとしていた。潮音は高校でバレエのレッスンを再開して以来、ずっと紫と一緒に舞台に立ちたいということを目標にしてきたが、紫が大学に進学したら自分は紫とも離ればなれになってしまうかもしれない、そうしたら紫と一緒にバレエの舞台に立てるチャンスは一生めぐって来ないだろうということをはっきりと感じていた。潮音はむしろこの夢を諦めるくらいなら、大学入試では一年くらい浪人したって構わないとすら思っていた。


 暁子はそのような潮音の様子を気にして、しばしば声をかけていた。


「潮音、バレエを頑張るのもいいけど、あんまり無理しすぎない方がいいよ。受験勉強だってあるんだから」


 しかし暁子からいくらこのように声をかけられても、潮音はそれを打消そうとするばかりだった。


「心配しないでよ。バレエの発表会が終ったら勉強するから」


 そのような潮音を、暁子は気づまりな表情でじっと見守るしかなかったが、それに対して優菜はやや違った見方をしていた。


「ここは潮音の好きなようにさせたらええんとちゃう? 潮音はあの通りの意地っ張りな性格やし、中学のときかて同じこと言うて水泳やっとったから」


 しかしそこで、優菜は語調を変えて声のトーンを落した。


「それに…潮音がバレエに打ち込んどるのは、潮音には峰山さんに憧れる気持ちがあるからかもしれへんな。もし潮音が男の子のままやったら、峰山さんに惚れとったんとちゃうやろか」


 その優菜の話を聞いたときの暁子の反応は、優菜が思ったよりさばさばしていた。


「そりゃ峰山さんはいいところのお嬢様で、あたしなんかよりずっと美人でかわいくて、勉強だけじゃなくて何だってできるもんね」


 その暁子の言葉を聞いて、優菜は暁子をなだめるように言った。


「アッコはあまり自分を人と比べて、引け目を感じることなんかあらへんよ。アッコはアッコなんやから」


 暁子は気恥ずかしそうな顔をしながら優菜に答えた。


「…潮音ってけっこう惚れっぽいじゃない。あいつは中学のときは尾上さんがいいとか言ってたけど、今度は峰山さんなんだから」


「アッコはやっぱり潮音のことが気になるんやね。でも潮音がバレエを頑張っとるのはそればかりやないと思うよ。潮音は自分が女になって以来、ずっと自分の手で何かをつかみたいと思っとったんとちゃうかな」


 優菜に説得されても、暁子はふとため息をつくのみだった。


「ほんとに潮音って強情なんだから。つらいときやしんどいときははっきりそう言えばいいのに」


 しかしそのとき暁子は、潮音が中学三年生のときにいきなり男から女になってしまった直後のことを思い出していた。あのときの潮音は、それまでの元気で快活な様子とは裏腹な、気の抜けたようなぼんやりとした表情をしていた。暁子はあのときの潮音は、やはり大きな何かを失ったような気がしていたのだろうか、だからこそその心の中の空洞を埋めようと、これまでいろんなことを頑張ってきたのだろうかと思っていた。それだけに暁子は、ますます潮音のことが気にならずにはいられなかった。


 暁子は放課後に学習塾に行っても、休み時間に潮音について考え事をすることがしばしばあった。そこで暁子は塾で仲良くなった鵜原碧からも、声をかけられることがあった。


「アッコは最近なんか考え事しとることがたまにあるけど、いったいどないしたん? もしかして篠崎君のことがやっぱり気になるわけ?」


 そう話すときの碧は、やはりにんまりとした表情をしていた。そこで暁子は、あわてて碧の邪推を打消そうとした。


「違うよ。そんなんじゃないってば。…あたしの隣の家に住んでて、ちっちゃな頃からずっと一緒に遊んでた子のことなんだけど、なんかいろいろ悩んでることとかあるみたいでね…」


 そこで碧は、暁子のことをねぎらうように声をかけた。


「その子のことはよう知らへんけど、アッコはその子の話し相手になってあげたらええんとちゃうかな。そばで話聞いてくれる人がおるだけでも、その子にとってはだいぶ助けになると思うよ。だから…アッコがその子の悩みを解決してやれへんからといって、悩むことなんかあらへんよ」


 暁子は碧に潮音の抱える複雑な事情を打ち明けたところで、それを理解してもらえるだろうかとは思ったものの、それでもその碧の言葉を聞いて、少しふっ切れたような気がした。


「ありがとう。碧がそう言ってくれて、ちょっとは気が楽になったよ」


 暁子の言葉を聞いて、碧はかすかに笑みを浮べた。


 ちょうどそのとき、少し離れた席で漣が次の授業の準備をしながら暁子と碧が話すのを聞いていた。漣は他人の色恋沙汰をめぐる噂話に軽々しく乗るようなタイプではなかったが、それでも暁子は潮音のことを話しているということは漣にも見当がついていた。漣は潮音も大学受験や進路についてどのように考えているのだろうということが気になっていた。



 それから少し経って世間がゴールデンウィークで浮かれるようになっても、潮音たち高校三年生の中には暁子や、医学部を目指している榎並愛里紗をはじめとして、学習塾や予備校に通う者も少なくなかった。しかし潮音は彼女たちを横目に、バレエの教室に向かっていた。


 潮音は自分自身でも、どうしてそこまでして自分はバレエに打ち込んでいるのだろうと思うことがあったが、そのたびに潮音は紫の表情を思い出していた。


 潮音が紫にはじめて出会ったのは、小学生のときに流風に憧れて森末バレエ教室に通い始めたときだった。潮音と紫は小学校の学区が別で、顔を合せるのはバレエ教室のときだけだったが、そのときから紫のバレエの実力は森末バレエ教室に通っている子どもたちの間でも抜きんでいて、教室の中でも一目置かれる存在になっていた。それだけでなく、紫はファッションセンスの良さでも、教室に通っている女子の中でも人目を引く存在だった。潮音はバレエ教室に通っている男子の存在そのものが珍しかったこともあって、教室を主宰している聡子からも可愛がってもらったが、潮音はその頃から幼心に紫のことを意識していた。特に潮音は発表会で踊る紫の演技には、目を引きつけられずにはいられなかった。


 しかし潮音は中学に入学する直前にバレエをやめてしまい、それ以来紫と顔を合せることも全くなくなって、紫の記憶も薄れようとしていた。そのような潮音にとって、自分が女子として通い始めた松風女子学園で紫と再会するとは夢にも思わなかったことだった。三年余りのブランクを経て再会した紫は、潮音の目にもただ「かわいい」とかいう言葉だけではくくれない、気品と威厳に満ちた少女へと成長していた。


 しかし潮音が紫に引きつけられたのは、小学生のときにひそかに感じていた胸のときめきを思い出したからだけではなかった。その頃の潮音は、自分は女子として松風女子学園の通うことを決めたとはいえ、なじみのない「女子」としての生活を目前にして、自分はこの学校の中でどのように行動すればいいのか、何を目標として目指すべきなのか、全くわからないまま暗闇の中を手探りでさまよっているような状態だった。そのような中でバレエだけでなく勉強もこなし、生徒会でもリーダーシップを発揮している紫の姿は、潮音に指針を示してくれたような気がした。潮音が高校に入ってから紫と共にバレエのレッスンを再開したのは、紫に少しでもついていきたいという気持ちがあったからだということを、潮音はあらためて思い出していた。


 それでも潮音の心の中からは、一つの疑念が晴れることはなかった――もし自分が男子のままだったら、「男」として紫にほれ込んでいたかもしれないということに。そして潮音自身、紫が森末バレエ教室の優れた男性のダンサーである栗沢渉と親しげにしているのを見ると、心の中にもやもやするものを感じたことも事実だった。


 しかし潮音はそのような雑念を振り払うためにも、バレエのレッスンにより集中しようとした。潮音が右も左もわからなかった高校生活の中で自分を支えてくれた紫の想いにこたえるためにも、この舞台をなんとしても成功させなければならないと決意を新たにすると、潮音の脳裏には体育祭、文化祭、百人一首大会、修学旅行など、紫と一緒に過ごした高校生活の思い出が次から次へとよみがえってくるような思いがした。


 休憩時間になると、紫が潮音に汗をぬぐうためのタオルを差し出しながら声をかけた。


「潮音も頑張ってるじゃない」


 しかし潮音はいざ紫を前にすると、自分がこのバレエを頑張っているのは紫のためだということを口にすることはできなかった。そこで潮音は無難な返事を返すことにした。


「いや…もうすぐ大学受験なんだから、それまでになんか高校生活の思い出になるようなことをやっておきたくてね」


 その潮音の表情を見て、紫は深くうなづいた。


「そう思うならとことんまでやればいいわ。潮音の場合、勉強だってもうちょっと頑張ってほしいけど」


 潮音が痛いところをつかれたとでも言いたげな顔をしていると、そこで紫は顔色を変えた。


「ところで話聞いてる?」


 潮音は紫が話題をいきなり変えたことに対して、いったい何があったのだろうといぶかしんだ。そこで紫は、きょとんとしている潮音にそっと耳打ちした。


「ちょっと前から一部で噂になってたけど、美咲先生に赤ちゃんができたみたいよ。この調子では今年の暮れくらいには産まれそうなんだってさ」


 その言葉に潮音はあらためてショックを受けずにはいられなかった。女子校に通うようになって、女性の体や出産のことについては以前よりも学校でしっかり習うようになっていたとはいえ、自分を高校入学から支えてくれた美咲に子どもができそうだという話をいざ聞かされると、潮音は自分が女になったという現実はどのようなことかを、あらためて突きつけられたような思いがした。


「連休が明けたら、このことは学校でももっと噂になりそうね。美咲先生に赤ちゃんが産まれたら、私たち生徒も何か贈り物でもした方がいいかしら」


 その紫の言葉も、潮音の耳には十分に入らなかった。

 新しい年が明けました。ここで新年の抱負を明らかにさせていただくと、この「裸足の人魚」はなんとかしてこの2026年のうちに完結させることを目標にしたいと思います。しかしどのようにして話をまとめて有終の美を飾れるようにするか、ますます困難なことになりそうです。たとえて言うなら、いよいよラスボスと対戦しなければならなくなったというところでしょうか。

 そういうわけで、本年も「裸足の人魚」をよろしくお願いします。

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