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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第六部
278/296

第三章・暁子の春(その4)※挿絵あり

 一月も下旬になって神戸の街ではルミナリエの準備が進み、暁子もようやく塾に慣れつつあったが、その頃松風女子学園では恒例の百人一首大会が近づきつつあった。そんなある日の昼休み、紫はカフェテリアで昼食を取りながら潮音に声をかけた。


挿絵(By みてみん)


「潮音は今年は百人一首大会には参加しないの?」


 紫に質問されて、潮音は気恥ずかしそうに首を横に振った。


「いや、去年紫に誘われて出てみたものの、芽実に全然歯が立たなかったからね。応援するのはともかく、百人一首大会に出るのはもうこりごりだよ」


「『芽実』って、書道部の柚木さんよね。あの子だって百人一首は強いからね」


「芽実は去年の百人一首大会のときから気になってたけど、修学旅行で一緒の班になってから仲良くなれたんだ。でも今回の百人一首大会では、芽実だけでなく琴絵だってずいぶん乗り気になってるよね。特に琴絵は体育祭や文化祭なんかでは、みんなが盛り上がっている中で一人だけ乗り切れないような感じがするのに」


「そりゃ私たちの学年が百人一首大会に参加するのはこれが最後だからね。琴絵も芽実も中等部からずっと百人一首大会に出てきたからこそ、この最後の大会は悔いが残らないように頑張ろうと思ってるんじゃないかしら」


「琴絵には私もちょくちょく文芸部の部室に誘ってもらって、そこでお世話になったからね。ところで紫は今年の百人一首大会には出るの?」


 その潮音の質問に対して、紫は胸を張って答えた。


「ああ。私だって百人一首大会は今回が最後だからね」


「紫もこういうのには熱くなる性分だね」


 しかしここで潮音がふとカフェテリアの窓際に目をやると、昨年の大会で好成績を収めていた国岡真桜が、窓際の席に腰かけてぼんやりと外を眺めていた。潮音は昼休みでも一人でいる真桜の様子が気になっていた。


「国岡さんは今度の大会に出るのかな」


「あの子はいつも通りのマイペースよね。最近になって少し明るくなったし、友達と話もするようになってきたとは思うけど」


 紫も真桜のことは少し気になっているようだった。



 それからしばらくして、百人一首大会の開催される日が来た。いざ大会の本番の幕が開くと、紫や真桜もいいところまで勝ち進んだものの決勝トーナメントで敗退し、決勝戦は大方の下馬評通り琴絵と芽実の一騎打ちになった。


 いざ決勝戦の火蓋が切られるとこの二人の間でデッドヒートが繰り広げられたが、結局優勝を手にしたのは琴絵だった。とはいえ勝負がついた後で、琴絵と固く握手を交わしたときの芽実は、全力を出し切ったから悔いはないとでも言いたげな、すがすがしい表情をしていた。


 百人一首大会が一段落し、潮音が制服の上にコートを着込んで玄関で靴を履き替えると、冬の澄みわたった青空から穏やかな陽が降り注いでいた。しかし潮音が校舎を出たところで、背後から元気よく声をかける者がいた。潮音が声のした方を振り向くと、そこには一年生の樋沢遥子、壬生小春、妻崎すぴかの三人組が並んで立っていた。


「藤坂先輩は百人一首大会に出なかったのですか?」


 遥子に尋ねられたので、潮音は決まりが悪そうに答えた。


「いや、私はちょっとね…。でも壬生さんだってがんばったじゃん」


 実際に小春は準決勝で芽実に敗れたとはいえ、その前には真桜を破るなど一年生の中ではなかなかの奮闘ぶりを見せていた。そこで照れた顔をしている小春に代わって遥子が答えた。


「今年は寺島先輩と柚木先輩が強かったけど、もうすでに来年は小春が優勝するんじゃないかって言われてますよ」


 遥子の言葉に小春は当惑したような顔をしたが、そこで潮音は遥子に尋ねてみた。


「来年は遥子やすぴかも百人一首大会に出てみたら?」


 遥子はそれに対して、すぴかとそろって照れ笑いを浮べながら答えた。


「いや、あたしたちはそういうのちょっと苦手だから…。百人一首ってこんなにエキサイトするんだって知らなかったけど」


 そうやって潮音が後輩たちと話していたところにちょうど暁子が通りかかったので、潮音は遥子たちに別れのあいさつをして暁子と一緒に帰宅することにした。


 二人で駅に向かう途中で、潮音は暁子に声をかけた。


「一年の子たちは元気でいいよね。この四月からあの子たちが中心になってみんなを盛り上げてくれたらいいんだけど」


「あんたって後輩の子たちともずいぶん仲いいよね」


 そう言いながら暁子は、潮音の顔を見てふと息をついた。


「でもやっぱり今回は琴絵も芽実もいつになく熱くなっていたじゃない。あの二人は中等部のときからずっと毎年百人一首大会に出ていて、ライバル同士で対戦するのもこれが最後になるからかな」


「あんたも出ればよかったのに」


「いや、去年紫に誘われるままに出場してみたけど、私なんか芽実に全然歯が立たなかったよ」


 潮音はふと息をついて話題を変えてみた。


「ところで暁子こそ年明けから塾に通い始めたけど、そっちの方はどうなの? やっぱり勉強大変じゃない?」


「学校と塾とに両方行ったら、そりゃ大変だよ。でも勉強も以前に比べてわかるようになったし、同じ塾に通っているほかの高校の子とも友達になれたよ」


「私も今はこの六月にある発表会まではバレエを続けたいけど、それが終ったら塾か予備校に行った方がいいかな…」


 潮音が戸惑い気味の表情をすると、暁子は潮音をねぎらうように声をかけた。


「あんたってけっこう頑張り屋だよね。大学入試の方が大切なんだから、バレエが大変だったら無理して続けることないのに」


「いや、バレエだって始めた以上何も結果を出せないでやめたら、それこそ後悔すると思うから…」


 そこで暁子は、潮音が今バレエで結果を残さなければと意気込んでいるのは、やはり潮音が男から女になった経験と何か関連があるのだろうかといぶかしんでいた。しかし潮音はそのような暁子の心の中などそ知らぬかのように、暁子に声をかけた。


「でも塾って男子も来てるんでしょ? 久しぶりに男子と一緒の教室で勉強してみてどうなんだよ」


 そこで暁子は呆れ顔になった。


「潮音のバカ。何の目的でわざわざ塾に行ってると思ってるの。あんたこそちゃんと勉強しないと知らないよ。でも…以前あんたの誕生日にも来た、若宮漣って子がいるよね。あの子と塾で一緒になったんだ」


 そのとき潮音は、漣の名前をこのようなところで聞くとはと驚かずにはいられなかった。


「私もこのところ忙しくて漣にはなかなか会えなかったけど…塾で漣に会うなんて、案外世の中狭いものだね。漣はちゃんと元気でやってるの?」


「ああ。あの子のちょっと引っ込み思案なところは相変らずだけど、それでも塾にも真面目に通ってるし、勉強だってちゃんとやってるよ」


「それは良かった。私…やっぱりあの子のことは気になってるんだ」


 そのとき暁子は、少し気づまりな表情をした。


「そりゃあんただって自分が同じような経験してるから、あの子のこと心配するのはわかるけど…あんたは人のことばかり気にするより先に、少し自分のことも心配した方がいいよ」


「でも暁子だってそう言うってことは、あの子のことが気になってるんでしょ? 何かあったら私にも相談してくれないかな」


 潮音に言われて、暁子も黙ってうなづくしかなかった。



 神戸の街でルミナリエが始まって、イルミネーションが闇夜にまたたくようになっても、塾に通っている暁子をはじめとする高校生たちは、それに浮かれる様子もなかった。しかし暁子は塾に通うにつれて、ますます哲史のことを強く意識するようになっていった。


 実際、哲史は神戸市内の県立高校の中でも偏差値がトップクラスの進学校に通っているだけあって、塾内で行われる小テストでもいつも良い成績を取っていたし、授業で質問されてもしっかりと受け答えをしていた。そのようなこともあって、哲史は塾の大学受験コースの中でも目立つ存在になっていたが、それだけに暁子は哲史のことを、今まで出会ったことがないようなタイプの男子だと気づき始めていた。


 その頃になって、暁子もようやく気がつき始めていた――暁子の哲史に対する思いは、もしかして「恋」と呼ばれるものかもしれないということに。


 もちろん暁子も、中学生のときに男の子だった頃の潮音が玲花にひそかに思いを寄せたり、また優菜が潮音に思いを寄せたりするのを見てきたし、漫画やテレビドラマなどを見たりして恋愛という感情については一通り知ってはいるつもりだった。しかし暁子は、自分自身が男子に対してそのような感情を抱いたことはなかったように感じていた。むしろ暁子は、中学生のときはクラスの男子たちは騒々しくて汗臭くていやだとすら思っていた。


 そこで暁子は、潮音がかつて男の子だった頃のことを思い出していた。潮音と暁子とは物心ついた頃から顔見知りだった仲だし、特に互いのことを意識もせずに自然と一緒に遊んだりふざけ合ったりしてきた。


 しかしそこで、暁子は潮音が女の子になってから、再三優菜に言われた言葉があらためて気になり始めていた。


――アッコこそ潮音のこと、女の子になる前から好きやったんやろ?


 暁子は優菜にそのことを指摘されたときには、顔を赤らめてそのことを否定していた。しかしいざ塾に通って哲史のことを意識し始めると、暁子自身が自分は潮音のことを幼いながらも「異性」として意識していたのかもしれないと思うようになっていた反面、それを打消す気持ちもあった。


――あたしが潮音のことがあらためて気になるようになったのは、あいつがいきなり女の子になっちゃって、それでも負けないように頑張ってるから、それを励ましてやらなきゃと思っただけだったのに。だいたい潮音は、隣に引越してきた湯川君と仲良くなっちゃってさ。


 そう考えると、暁子はますます心がざわつくのを覚えたが、今はこのような雑念にとらわれずに勉強するしかないと思い直して無理にでも机に向かおうとした。しかし漣は、暁子と一緒の教室で勉強しながら、暁子の身ぶりや様子に変化が生じていることにすでに気づいていた。



 百人一首大会が終ってからしばらくたったある日の晩、潮音は漣にSNSで連絡を入れた。


『漣、暁子から話は聞いたよ。暁子と同じ塾に通ってるんだって?』


『暁子って、一昨年の潮音の誕生パーティーにも来ていた石川さんのことですね』


『暁子も漣も塾に行って勉強してるんだから、私も塾行った方がいいかな…。今はバレエに集中したいって思ってるんだけど』


『バレエって、流風先輩と同じ教室に行ってるんですよね』


『ああ。でも流風姉ちゃんは今受験の真っ最中だからね。ところで漣も塾の勉強は大変じゃないの? 暁子もちゃんと勉強してる?』


『確かに勉強は大変だけど、勉強もだいぶわかるようになった気がします。石川さんも塾で知り合った子とも仲良くなったみたいだし、勉強だってちゃんとやってますよ』


『それは良かった。漣も友達できたらいいのに』


『でも石川さんを見ていると、塾に通っている男子にどのように接するか戸惑っているみたいです。私だって女子校に通ってるから、その気持ちはちょっとわかるけど』


 漣のこの何気ない返信を見て、潮音は少し心の中にひっかかるものがあった。潮音は暁子のことを幼い頃から見てきただけに、暁子が色恋沙汰に心を動かされるようになることが今一つ想像できなかった。しかしその一面では、暁子だっていつまでも昔のまま変わらずにはいられないかもしれないという思いも芽生えつつあった。


 潮音は漣に対して、暁子が塾でどのように過ごしているのかもっと聞きたい気持ちもあったが、そうしたところで漣が戸惑うだけだと思って、軽く返事を返すだけにすることにした。


『まあ暁子も元気でやってるみたいで良かったよ。漣も勉強頑張ってね』


『どうしたんですか? 今返信するまでにちょっと間があったけど』


『いや、何でもない』


 潮音は漣とのチャットを終えてからも、暁子が中学生のときまで男子と一緒にバカ騒ぎしたり、クラスの女子との間の色恋沙汰やおしゃれの話題にもいまいち乗れずにいたりしたところを見てきただけに、暁子は塾で男子とどのように接していくのかが気になり始めていた。潮音はあらためて、暁子も自分の知らないうちに自分の道を歩き出しているのかもしれないと思い始めて、戸惑いを覚えずにはいられなかった。


Copilotで紫と一緒にランチを取っている潮音のイラストを生成してみました。自分の書いたものが絵になるのは面白いですね。

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