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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第六部
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第三章・暁子の春(その3)

 冬休みが終って新学期が始まると、いつしか正月気分も抜けて潮音たちの日常も慌ただしさを取戻していった。その中で潮音は、バレエの発表会で上演する演目が「人魚姫」だと聞かされて以来自分の部屋にいても、すでに綾乃が小さな頃から読み古してぼろぼろになった「人魚姫」の絵本を本棚から取り出して読み直してみることが多くなっていた。


 人魚姫は声と引き換えに人間の足を手に入れたものの、その両足で歩くたびに痛みを感じなければならなかったというくだりでは、潮音は人魚姫の苦しみをどうしても他人事としてとらえることができなかった。自分だって自分の気持ちを人に伝えることができない、人と接するだけでも苦痛を感じなければならない…そのような状況の中で必死にあがいてきたのではなかったか。


 そこで潮音は、自分が女に変ってからまだ間もない頃、綾乃や流風と一緒に早春の海辺に行ったときに、綾乃からこのように話しかけられたことを思い出していた。


――人魚姫はしっかり自分の意志で生きようとした。そしてどんな苦しみのもとにあっても、自分が人間の足を手に入れたことを悔やんだりも、誰も他人を恨んだりもしなかった。それどころか自分の命を犠牲にしても、王子への愛と人魚としての誇りを貫き通した。これってとても強くて立派な生き方だと思うね。


 そこで潮音は、人魚姫の絵本をぱたりと閉じて、そのまま少し考え込んでいた。潮音はこの先自分がどのような進路に進むにしても、人魚姫のように自分の定めた進路を前に進めるだけの勇気があればと考えていたが、そこで潮音にはもう一つ気になっていることがあった。それは紫が今度の演目では主演の人魚姫をどのように演じるのかということだった。


 潮音はあらためて、自分が小学生のときにすでに紫の演技を遠巻きに眺めていたことを思い出していた。その頃から紫のバレエの実力は森末バレエ教室に通う子どもたちの中では抜きん出ていたが、潮音は小学生の頃の紫の方が純粋にバレリーナに憧れて、のびのびとバレエを演じていたように感じていた。


 そこで潮音は、以前紫の家族とレストランで食事をしたときに、自分が紫はプロのバレリーナを目指せばいいのにと以前は思っていたと紫に告げると、紫が難色を示したことを思い出していた。


――だから冗談はよしてよ。あの世界でやっていくのは、どれだけ大変かわかってるの。


 そのときの紫は、いつになく寂しげな表情をしていた。そこで潮音は、学校では気丈に堂々と振舞っていて自分が何をやっても歯が立たない紫ですら、進路で悩んだり、夢を諦めたりしたことがあるのかと思うと気が重くなった。


 しかし潮音は、紫は本当にそれで満足しているのだろうかと思い始めていた。潮音は紫は心の中で悩みや葛藤があったところで、それを表に出すような性分ではないということを知っているだけに、紫のことをあらためて気にせずにはいられなかった。



 その一方で暁子は新学期が始まるのと同時に、神戸の市街地の中心にある学習塾に通い始めた。


 暁子が塾に通い始めた初日はガイダンスが主だったが、暁子は塾で一緒になった生徒たちともうまくやっていけるのか、また塾の勉強についていけるのかと不安だった。暁子が潮音か優菜がこの場に一緒にいてくれたらいいのにと思いながら、緊張気味にビルの中にある塾の教室に足を踏み入れると、すでに大学受験コースを受講しようとする高校生たちが席についていて、教室の中はいっぱいになっていた。


 教室の中にいる高校生たちはいろいろな学校の生徒が集まっていて制服や装いもさまざまだったが、しかしそこで暁子はすでに知っている顔を見かけて驚かずにはいられなかった。教室の中には、若宮漣の姿があったのだった。


 暁子はどうしてこんなところで漣と一緒になるのかと慌てずにはいられなかったが、漣の方も暁子に気づいたようだった。しかしすでにガイダンスが始まろうとする直前だったので、互いに声をかけあうことは憚られた。


 暁子が漣とはじめて出会ったのは、暁子が高校一年生のときの神社の秋祭りのときだった。そのとき漣は潮音や昇と一緒に秋祭りに来ていたが、暁子はそのときから漣のことがどこか気になっていた。


 しかし暁子が漣の秘密を本人の口から直接聞かされたのは、秋祭りから間もない潮音の誕生パーティーの席でのことだった。暁子も潮音の姿が変ってしまったのを目の当りにしているだけに、漣のことを受け入れることはできたものの、それ以来暁子は漣のことが気がかりでならなかった。それだけに、暁子が今この場で漣と出会えたことへの驚きも大きかった。


 塾のガイダンスが終る頃には冬の日はとっぷりと暮れて、外は暗くなっていた。暁子はとりあえず漣と一緒に駅前のハンバーガーショップに寄って、そこで少し話をすることにした。


 暁子が席について飲み物を口にし、テーブルを挟んで漣と向かい合っても、漣は緊張気味な顔をしたまま積極的に口を開こうとはしなかった。暁子はまずとりとめもない世間話をすることで、漣の心の中の緊張を解きほぐそうとした。


「いやあ、私もあの塾で若宮さんと会うことになるなんて思わなかったよ。若宮さんも大学受験のことはちゃんと考えてるんだ」


「いや、私も伯母から勉強がなかなかはかどらないんだったら、塾に行ってみたらと勧められただけだから…」


「あたしだって似たようなものだよ。勉強するのはなかなか大変だよね。私の行ってる学校で周りにいるのは勉強できる子ばっかりだし。ところで若宮さんはどこの大学や学部に行こうと思ってるの? まだわかんなかったり、言いたくなかったりするんだったら無理に言わなくていいけど」


「…私は理系に行って、生物学の勉強がしたいと思ってます」


「へえ。若宮さんはリケジョなんだ。それもいいんじゃない?」


 暁子がつとめて明るい口調で話そうとしても、漣の顔つきや身ぶりからはよそよそしい感じが抜けなかった。そこでようやく、漣はぼそりと口を開いた。


「藤坂さんは元気ですか?」


 その漣の言葉を聞いて、暁子はようやく漣の方から話をしようという気になったかと嬉しそうな顔をした。


「うん。元気すぎて困るくらいだよ。潮音も受験や進路のことは気になっているみたいだけど」


 そこで漣は、やや顔を伏せ気味になった。


「藤坂さんって私と同じような経験をしているのに、どうしてあんなに友達がいっぱいいて、あんなに明るくしていられるのですか」


 沈みがちになる漣を元気づけようと、暁子はつとめて明るい口調で話そうとした。


「潮音だってそうなれるようになるまでにはだいぶ悩んだし、今の学校に入ってからだってうまくいかないことなんかいっぱいあったよ。だけど潮音はそこから逃げようとしないで頑張ったからこそ、今のあの子がいるんじゃないかな。そりゃもちろん漣は潮音とは違うし、潮音みたいになれないなんてことはあたしだってわかってる。だから漣は無理して潮音みたいになりたいなんて思う必要はないけど、漣は独りぼっちじゃない、潮音だってあたしだってついているってことだけはわかってほしいんだ」


 暁子の話を聞いたとき、漣の目尻にはかすかに涙が浮んでいた。その涙を見て、暁子は漣がこれまでどのような気持ちで過ごしてきたのかと思ってはっと息をつかされたが、それでも漣の顔は塾を後にした頃と比べてだいぶ晴れやかになっていた。


「ありがとうございます。ここで石川さんと話して、少し気が楽になりました。藤坂さんにも私が元気にしてると伝えて下さい」


「あまり遅くなると親が心配するからそろそろ帰ろうか。これからも塾で一緒に勉強頑張ろうね。塾で漣と一緒になったことを潮音に話すと、潮音も喜ぶと思うよ」


 暁子はハンバーガーショップを後にして帰途についてからも、漣と塾で一緒になれたことにほっとするよりもむしろ、潮音と同じような事情を抱えているだけでなく、精神的にも潮音に比べたらずっとナイーブな漣に対してどのように接していけばいいのかということの方が気になっていた。



 それでも暁子は週に何回か塾に通って勉強するうちに、塾の雰囲気にも徐々に慣れていった。休み時間や帰り際には漣と話すこともあったが、同じ授業を受けている他の高校の生徒とも顔なじみになるにつれて、話をする機会も増えていった。


 その中で暁子が一番最初に仲良くなったのは、県立の名門高校として知られる鴻山(こうやま)高校に通っている鵜原碧(うばらあおい)という少女だった。暁子が碧と知り合ったそもそものきっかけは名前を五十音順に並べると近くの席になることだったが、碧は暁子が松風女子学園に通っていると知ると、女子校とはどんなところなのかと興味深そうに尋ねていた。暁子はそのような点から、だんだん碧と話ができるようになっていった。


 そんなある日、暁子が塾の授業で講師の質問になかなか答えられずにいると、講師は暁子に代わって別の男子高校生に質問をした。その高校生は講師の質問にもはっきりとした声で淀みなくきちんと答えてみせたが、その男子高校生の姿を見たとき、暁子は今まで感じたことがなかったようなものが心の中に芽生えるのを感じていた。


 彼は背も高くてすらりとした体つきをしており、きちんと刈りそろえられた髪には清潔感があった。その少年の姿を見て、暁子は潮音や栄介、いや中学校で同じ学年にいた男子たちとも違うものを感じていた。彼は昇のような線の細い秀才タイプとも違って、運動部の経験でもあるのかクールな一方で精悍で引きしまった顔つきと、浩三ほどではないにしてもがっしりとした体格をしていた。暁子は今まで見たことがないようなタイプの男子の姿を目の当りにして、心に波風が立つのを覚えていたが、今はこんな雑念にとらわれずに勉強に集中するしかないと強引にでも思いこむことで、心の中の動揺を抑えようとした。


 授業が終って暁子が帰宅の途につこうとすると、碧が暁子に声をかけた。


「石川さん、さっき篠崎(しのざき)君が質問に答えてからずっと篠崎君の方ばっかり見とらへんかった?」


 碧に尋ねられて、暁子はきょとんとした顔をした。


「あの男の子、篠崎君っていうんだ。鵜原さんは知ってるの?」


「ああ。フルネームは篠崎哲史(しのざきさとし)っていうんやけど、私と一緒の高校やからね。サッカー部に入っとるけど勉強もできるよ。石川さんって女子校に通っとるから、あまり男の子と話することあらへんの?」


「ほっといてよ」


 碧に対して語調を強めながらも、暁子の心の中からは「篠崎哲史」という名前が離れなかった。その暁子の様子を漣も遠巻きに眺めていたが、暁子の心の中で何かがすでに動き始めていることには漣もまだ気がつかなかった。


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