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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第六部
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第三章・暁子の春(その2)

 暁子と優菜が潮音の家に通されると、さっそく則子が紅茶とケーキを出してくれた。暁子はテーブルについて紅茶を口にすると、さっそく潮音に尋ねてみた。


「潮音はさっき神社でどんなことをお願いしたの?」


「そりゃ受験に向けて勉強がうまくいきますようにってお祈りしたけど、それに加えて、今年中に紫と一緒にバレエの舞台に立てたらともお願いしたんだ」


「潮音はバレエも張り切ってるよね。でも勉強の邪魔になるようだったら、あまり無理して続けない方がいいよ」


 その暁子の言葉を聞いて、則子も少し表情を曇らせた。


「暁子ちゃんだってそう思うでしょ? この子はバレエを頑張るのもいいけど、勉強もちゃんとやってくれないと困るわ」


「でも潮音はちゃんと勉強だって頑張ってると思いますよ。中学から松風にいる子はみんなレベルの高い子ばかりで、潮音が高校入ったばかりの頃は授業についていくだけでも大変だったみたいだけど、このところ赤点やそれに近い成績を取ることもなくなってるし。…潮音は高校入る前にあれだけのことがあったのに、こうやって高校入ってそこでやっていけてるだけでも十分すごいと思います」


 暁子が自分の言いたいことを代弁してくれているのを、潮音は頼もしく思っていた。則子も暁子の言葉を聞くうちにいつしか笑顔になっていた。


「暁子ちゃんが潮音のそばについていてくれると安心だわ」


 そこで潮音は、少し心配そうな顔をした。


「母さんはそう言うけど、大学行くようになったら暁子と別々になるかもしれないんだよ。そのときはどうすればいいんだろう」


 しかし潮音のそのような不安を、暁子はきっぱりと切り捨てた。


「あんただったらあたしなんかいなくたって大丈夫だよ。これまであんたが高校でなんとかやってこられたのは、みんなあんた自身が頑張ったからでしょ? あたしは何も大したことした覚えなんかないよ。そのガッツや根性があったら、あたしと別の大学行ったって一人でも十分やっていけるよ」


 潮音が当惑していると、そこで優菜も声をあげた。


「アッコの言う通りやで。あたしかて正直言うと、高校入ったときは潮音が高校でちゃんとやっていけるか心配やったけど、潮音は高校でもあたしやアッコが思った以上にちゃんとやっとるよ」


 暁子と優菜に口々に言われて、潮音は少し恥ずかしそうな顔をした。それを見て則子ははっきりと言った。


「いずれにせよ、みんなこれからどこの大学に行くにしても、暁子ちゃんや優菜ちゃんがいつまでも潮音の友達でいてくれたらいいのに」


 その則子の言葉には、暁子と優菜も照れくさそうな顔をした。


 それからしばらくみんなで紅茶やケーキを味わって一息ついた頃になって、綾乃が口を開いた。


「でも栄介ちゃんもちょっと心配よね。潮音は昔栄介ちゃんとあんなに一緒によく遊んでたのに、今では潮音のことを変に意識しすぎてるんじゃないかしら」


 潮音は綾乃の話を聞きながら、自分の性別が変っただけで、これまで一緒に仲良く遊んできた栄介と自分の間には壁ができてしまうのかと感じていた。そこで潮音は口を開いた。


「栄介だって年頃だからね。男の子がこのくらいの年齢になると、女のことを意識しない方が不思議だよ」


「あんなにかわいかった栄介ちゃんが、そういう年頃になるとはねえ」


 綾乃がため息をつくと、潮音はやれやれとでも言いたげな顔をした。


「だから男なんてみんなそういうものだよ。あと今の栄介が変に突っ張ってるのも、高校受験で気が立ってるせいもあるんじゃないかな。高校入ってそこで友達でもできたら、少しはおとなしくなるだろうから、そんなに気にすることなんかないよ」


「潮音がそこまで言うのならいいけど…」


 潮音の話を聞いても、暁子の表情からは心配そうな様子が抜けなかった。その暁子の様子を見ていて、潮音は栄介とも高校受験が一段落したら、一度きちんと話をしなければいけないと思っていた。


 潮音がしばらく黙っていると、暁子は話題を変えた。


「でも潮音、さっき今年もできる限りバレエは続けたいとか言ってたけど、ほんとに勉強大丈夫なの? そりゃ峰山さんだったら勉強の成績もいいし生徒会長だってやったから、どっかの学校から推薦もらえるかもしれないけど、あんたはそういうわけにはいかないんでしょ?」


 そう話すときの暁子は、ますます不安そうな顔をしていた。


「暁子が心配してくれるのはいいけど、バレエだって悔いが残らないようにしっかりやっておきたいんだ」


「そのせいで入試に落ちて浪人したって知らないよ」


 そこでこれまで、潮音と暁子の話を横で聞いていた優菜が口をはさんだ。


「まあええやん。潮音は中学のときも、三年生になっても水泳部を頑張っとったし。そこで鍛えた根性があるからこそ、潮音は女の子になってもへこたれずにここまでやって来られたんとちゃうかな」


 そこで暁子も、ぼそりと口を開いた。


「実を言うとあたしだって、今度の大学入試はあんまり自信ないんだ…。だからお母さんからは正月明けから塾に行ったらどうかって言われてるんだけど」


 潮音はその暁子の話を聞いて、暁子は入試についてここまで真面目に考えているのかと思って、気後れを感じずにはいられなかった。そこで潮音も遠慮気味に口を開いた。


「塾ねえ…。実は私も、塾か予備校に行った方がいいかもしれないと思ったこともあるんだ。それにはお金だってかかるから、この点は親に相談しなきゃいけないとは思ってたけど」


 その潮音の話を聞くと、則子も少し当惑したような表情をした。そこで綾乃がきっぱりとした表情で言った。


「人に合った勉強の仕方はみんな違うんだから、暁子ちゃんが塾に行くからといって潮音も塾に行けばいいとは限らないよ。潮音はまず、学校の授業をちゃんと聞いて学校の勉強をしっかりやることが大切じゃないかな。そのしっかりした土台がないと、いくら塾に行ったってかえって学校と塾の両方について行けずに共倒れになって、お金が無駄になるだけだよ」


 そこで潮音はまた考えこんでしまった。潮音は塾や予備校に行くにしても行かないにしても、今年は大変なことになりそうだと思ってげんなりせずにはいられなかった。そこで暁子は元気よく声をかけた。暁子が先ほどまで感じていた不安も、みんなと話しているうちに少しはやわらいだようだった。


「潮音もお正月早々からそんな辛気臭い顔することないじゃん。潮音はなんとかして今まで頑張ってきたんだから、その気持ちを忘れなかったら大丈夫だと思うよ」


「ほんまやで。あたしも塾か予備校行くかどうかはまだ決めとらへんけど、いずれにしても今年も頑張ろな」


 優菜にも励ましの言葉をもらって、潮音は少し元気になれたような気がした。


「ありがとう。暁子や優菜の話を聞いてると、ちょっと元気になれたような気がするよ。ともかく今年もよろしくね」


 そう言って潮音が暁子と優菜を玄関先まで見送ったときには、元日の穏やかな日も既に西に傾き、辺りには暮色が漂いつつあった。潮音は暁子が隣の自宅に戻った後も、綾乃と塾のことについて少し話し合っていた。


「塾にはいろんな学校からいろんな子が集まってくるから、うまくいけば友達だって増えるっていう話は聞いたけど」


 それを聞いて綾乃は呆れ顔になった。


「あんた、塾は勉強するためのところで、友達作るために行くところじゃないでしょ」


「それはわかってるけど…暁子が塾の雰囲気にちゃんとなじめて、塾の先生やそこで会った子ともうまくやっていけるかが問題だよな。その点暁子はあまり心配いらないかもしれないけど」


「あんたこそ人の心配ばかりしてないで、少しは自分のこと心配したらどうなの。ともかく今夜はこれからすき焼きだから、それ食べて少しは元気出しな」


 潮音は綾乃にはこれからも頭が上がらないことになりそうだと思っていたが、その綾乃だって今年は就職活動で大変なことになりそうだと思うと、あらためて今年は前途多難な一年になりそうだと思わずにはいられなかった。


 しかし潮音の心配事も、いざ鍋に盛られて香ばしいにおいを上げるすき焼きを前にしては、その食欲のために霞んでしまうようだった。がつがつとすき焼きの肉を平らげる潮音を前にすると、綾乃だけでなく雄一や則子までもが呆れ顔をしていた。



 三が日が過ぎると、新年で初めてのレッスンが潮音の通っている森末バレエ教室で行われた。レッスンの最初には、教室を主宰している森末聡子が生徒たちを一堂に集めて新年の挨拶を行った。聡子が最初にお正月は楽しかったかを子どもたちに尋ねると、子どもたちはみんな元気な声をあげた。それから聡子はいつまでもお正月気分でいないで新年もバレエの練習を頑張るようにと子どもたちに話したが、その話の最後の方で、教室が今年の六月に開催する発表会の演目は「人魚姫」だと告げた。そこで潮音は、自分が女になってからすぐのときに、自宅に合った古い人魚姫の絵本を読み返して心が揺さぶられたことを思い出して、胸がひときわ高鳴るのを感じていた。


 それからレッスンで一通り汗を流した後で、潮音は紫に声をかけてみた。


「人魚姫の話だったら前から知ってたけど、バレエにもなっていたなんて知らなかったよ」


「最近もいろんな演出家が、新しい解釈で人魚姫をバレエにしているみたいよ」


「ともかくこの発表会は紫の高校までのバレエの締めくくりになるんだから、一生懸命頑張って成功させないとね」


「特に人魚姫は子どもたちもたくさん見に来るからね。子どもたちが『バレエって素晴らしいんだ』と思うような舞台にしないとね」


 紫は責任の重さをひしひしと感じているようだった。そこで潮音は紫にぼそりと声をかけた。


「この発表会、私も出てみたいな…」


 潮音は演目が「人魚姫」と聞いて、この舞台に立ちたいという思いが前にもまして強まっていた。そこで紫がきょとんとしながら潮音に尋ねた。


「潮音も勉強大変なんでしょ。ほんとに大丈夫なの? 無理することなんかないよ」


 そこで潮音はきっぱりと言った。


「自分にはあの人魚姫の気持ちがわかるような気がするんだ。私はいきなり男から女になってふさぎ込んでいた頃、家にあった人魚姫の絵本をあらためて読み返して、人魚姫が他人のように思えなかったから…。だから人魚姫の演目には、わき役でもいいから出てみたいんだ」


 そこで紫は、しばらく潮音の顔をじっと見つめていた。そしてその後で、きっぱりと潮音に言った。


「わかったわ。どうしても出たいというのなら、森末先生にそのことをきちんと伝えなさい。それで配役も決まるだろうからね。その代わり、出ると決めた以上は中途半端な気持ちじゃなくて、悔いが残らないようにするためにも全力でしっかりやるのよ」


 そこで潮音は、舞台に立つには練習でまた紫にしごかれるのかと思ってぎくりとした。しかしそれでも、潮音はこのチャンスを逃すわけにはいかないと意を新たにして、紫の顔を向き直してきっぱりと言った。


「お手柔らかに頼むよ」


 潮音にとっては、自分の人魚姫の話に寄せる思いを紫が理解しているようだったことが何よりも嬉しかった。


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