第一章・潮音、アイドルになる(その5)
ようやくみなもが泣き止むと、真由美はなんとかしてみなもを落ち着かせて鏡台の前に坐らせた。
「そんな泣きっ面じゃ、みなもらしくないよ。あたしに任せときな」
そして真由美はハンカチでみなもの顔から涙を拭きとると、メイクの道具を取り出した。みなもがぎょっとする間もなく、真由美はみなもにじっとしているように言うと、みなもの顔にナチュラルメイクを施していった。みなもは例によってこれまでメイクをしたことなどなかったが、今回の真由美の振舞いに対して抵抗する気にもなれなかった。それよりもみなもは、自分がスカートをはいているとこのようにして鏡台の前に坐っている間もずっと足を閉じていなければならないことに戸惑っていた。
真由美がみなもの唇に淡いピンク色のルージュを塗ってメイクが一段落すると、今度は真由美はみなものぼさぼさしたショートヘアに櫛を入れ始めた。みなもは真由美は何をするのだろうと息を飲まずにはいられなかった。
やがて真由美がみなもの髪のセットを終えてみなものそばを離れると、みなもを鏡台から立たせてあらためて姿見に向かわせた。しかし自身の姿をあらためて大きな姿見で見せられて、みなもはあらためてゾクゾクするような震えが全身にこみ上げてくるのを抑えることができなかった。みなもは今まで見たことがなかったような自分自身の姿を目の当りにしているにも関わらず、不思議とそれがいやだという気持ちは起きなかった。むしろみなもは自分が自分ではないような心地がして、そこで戸惑いを覚えずにはいられなかった。
みなもが落着きなさそうにしている様子を見て、真由美はそっと声をかけた。
「みなも、ほんとに大丈夫? あまりいやそうには見えないけど」
そこでみなもは、声を震わせながら真由美に答えた。
「…どうしてだろう。ぼくは今まで女らしくするのがいやで、中学校のときには制服でスカートはくのでさえ、あれだけいやだったはずなのに。それがどうして、今こんなかっこしてるんだろう」
真由美は戸惑っているみなもに、優しく声をかけてやった。
「それはみなもが、自分自身の殻の中に閉じこもってばかりいないで、それだけ成長して人間的に大きくなれたからだと思うよ。もしみなもが、やっぱり自分には女らしい服やファッションなんか似合わなくて嫌いだって思うんだったら、そうしてりゃいい。それでもみなもが悩んだり迷ったりすることがあるんだったら、思いっきり悩めばいいし迷えばいいよ。そしてどうしてもわかんないことがあったら、遠慮しないであたしにきけばいい。私はその答えを出すことなんかできないかもしれないけど、一緒に考えることくらいだったらできるから。みなもはそのような経験があったからこそ、それだけ強くなれたし、いろんなものを受け入れられるようになったんじゃないかな」
「ありがとう、真由美。そんなこと言ってくれるのは真由美くらいだよ。ぼくのことを変な色眼鏡をかけずにちゃんと見てくれるのも真由美くらいだし」
そう話すときのみなもは、目尻に再び涙をためていた。それを見るなり真由美は、ハンカチを取り出してみなものまなじりをぬぐってやった。
「ここでわんわん泣いたりしたら、メイクが流れちゃうよ。せっかくだからそのかっこでちょっと外に出てみない?」
真由美にそう言われたときのみなもの表情に、もはや迷いはなかった。みなもは軽くうなづくと、自分が今まではいてきたカーゴパンツを畳んでリュックにしまい、真由美の部屋を後にした。
みなもが真由美に連れられて階段を下りるとき、脚を動かすたびに外気がデニムのスカートに舞い込むような心地がしたのには、やはりどきりとせずにはいられなかった。それでもなんとかしてみなもが一階に下りると、居間で家事をしていた真由美の母親の尾中好美と鉢合わせになった。しかしみなものいつもと違う姿を見るなり、好美も目を丸くして家事の手を止めていた。
「まあ。どうしたの、みなもちゃん…」
みなもが照れくさそうな顔をしながら返答に窮していると、さっそく真由美がフォローを入れた。
「いや、みなもっていっつも男の子みたいなかっこばかりしているから…」
真由美がなんとかして話を取り繕おうとしても、好美の顔からは戸惑いの色が抜けなかった。
「真由美、ちゃんとみなもちゃんの気持ちも考えてあげて」
好美までもがみなものことを心配するようなそぶりを見せたのには、むしろみなもの方が気恥ずかしい思いがしていた。
真由美はみなもを家の外に連れ出すと、さっそくみなもの手を引いた。
「みなも、これから一緒にどこに行く?」
「下北沢がいいかな」
そして真由美とみなもは、連れだって表通りに出て電車に乗るために駅へと向かった。
みなもは真由美と一緒に電車に乗り込んでからも、スカートの裾の辺りを気にして落ち着かなさそうにしていた。真由美はそれを複雑そうな表情で遠巻きに眺めていた。
「みなも、そんなに気にしない方がいいよ。誰もみなものことを変だなんて思っちゃいないから」
やがて真由美とみなもは下北沢の駅で電車を降りると、駅の周囲の雑然とした通りを二人で駆け抜けた。日曜日ということもあって、下北沢の街の通りは多くの若者たちでにぎわっていた。
二人で古着屋に足を踏み入れると、みなもは今自分のはいているデニムスカートよりも色調もかわいらしくて素地もふんわりとした感じのするスカートが店頭に陳列されているのを見て、思わず気恥ずかしそうな顔をした。そればかりでなく、そばに陳列されていたフェミニンな感じのするブラウスもみなもの心をどぎまぎさせた。
みなもはこれまで下北沢の街をよく訪れて、雑貨店や古着屋をのぞいていた。これまで学校に居場所がなかったみなもにとって、劇場や映画館、ライブハウスなども多くて雑然としたエネルギーに満ちた下北沢の街にこそ、自分の居場所が見つけられたような気がしたのだった。しかし今、みなもはいつもとは違う装いでよく見知ったはずの下北沢の街を歩いてみると、あたかも見知らぬ世界へと迷い込んだような気がして戸惑いを覚えずにはいられなかった。
真由美とみなもはしばらく喧噪の絶えない下北沢の街をぶらついた後で、喫茶店に入ってしばしの休憩を取ることにした。みなもが甘いスムージーを注文すると、紅茶を頼んだ真由美は少し意外そうな顔をした。
「みなもってけっこう甘いものが好きなんだね。こないだ潮音たちと一緒に原宿に行ったときも、クレープをおいしそうに食べていたし」
真由美に言われると、みなもは少しむっとした表情をした。
「ばくが甘いもの好きなのは意外だって言いたいわけ? どんなものが好きでも僕の勝手じゃん」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。みなもの方こそ変に気にしすぎだよ」
真由美が屈託のない表情で答えたので、みなもも少し気を落ち着かせることにした。そこで真由美はあらためてみなもに尋ねた。
「どう、久しぶりにスカートはいてみた感想は」
そこでみなもは、軽く息をつきながら答えた。
「不思議なもんだな。ぼくはこれまで、スカートなんて絶対はきたくないって思ってたんだけど、そのぼくが今こうやって外に出てみると、今までこんなことにとらわれていたのがバカらしく思えてくるんだから」
そこで真由美は少し心配そうに答えた。
「無理する必要なんかないよ。やっぱり自分にはスカートなんて似合わない、ズボンの方がいいって思うんだったらそうしてりゃいいし。私はみなもにはいつも明るく元気でいてほしいんだ」
そこでみなもは、しばしの間の沈黙の末に口を開いた。
「…ありがとう。真由美がぼくのこといつも気にして、声をかけてくれるだけで少しは気が楽になるよ。でも真由美に心配ばかりかけて、ほんとにすまないね」
「そんなこと気にしないでよ。あたしはみなもの、枠にはまらない自由なところが好きなんだから」
真由美が強い口調で言ったのを聞いて、みなもは多少は落着きと自信を取戻したようだった。
「ありがとう、真由美」
そして真由美とみなもは、連れだって喫茶店を後にした。みなもの表情からは、自分がスカートをはいていることに対する戸惑いの色は消えていた。
真由美とみなもは下北沢から帰宅する途中で、それぞれの自宅の近くにある少し大きな公園に寄って行くことにした。この公園では、みなももよくストリートダンスの練習をしていたが、日曜日ということもあって公園の中は小さな子どもを連れた家族などでにぎわっていた。
九月も終盤になると、残暑も和らいで青空は高く澄みわたり、その空のはるか高くにはうろこ雲やすじ雲などの秋の雲が浮かぶようになっていた。公園の木々の梢の間からは、夏の盛りの頃に比べて柔らかさが増した日差しが漏れていた。みなもが空を見上げて秋の雲を眺めていると、その隣で真由美が声をかけた。
「この公園にはちっちゃな頃からみなもとよく一緒に来たよね。みなもはその頃からここで元気よく遊んで、あたしはそれに振り回されっぱなしだったけど」
「それは昔の話じゃん。…でもこれからもずっと、ばくが真由美と仲良しでいられたらいいのにね」
みなもが耳をすますと、公園で元気よく遊ぶ子どもの頃の自分の声までもが聞こえてきそうな気がした。
そしてみなもが自宅の近くで真由美と別れて帰宅すると、玄関口で出迎えたみなもの両親はみなもがスカートをはいていることに腰を抜かさんばかりに驚いていた。みなもはそれを見て、息をついてやれやれとでも言わんばかりの顔をした。
「そんなに変? ぼくはこう見えても女だからスカートはいてみただけだけど」
そしてみなもは戸惑っている両親の顔を横目に自室に戻り、ふと息をついた。そこでみなもはスマホを操作して、夏休みに潮音たちと一緒にお台場で撮った写真をあらためて眺めてみた。みなもはもし潮音が今の自分の姿を見たらどんな顔をするだろうと思うと同時に、自分もいつか潮音のいる神戸に行きたい、潮音なら今の自分の話だってもっと聞いてくれそうなのにと思っていた。




