第七章・TOKYO(その1)
来日していたキャサリンの家族がイギリスに帰国してから何日かたって、暦が八月になると、紫も信州で行われるバレエの合宿に出かけていった。紫は来年は受験生になるので、今年の夏のうちに悔いのないようにバレエにしっかり打ち込んでおきたいと考えているようだった。
潮音も学校の補習や宿題、水泳部にバレエと慌ただしい夏休みの日々を送っていたが、連日の暑さも相まって少々疲れ気味になっていた。そんなある日、水泳部の活動で一泳ぎした後で優菜が声をかけた。
「潮音もけっこう頑張っとるよね。この水泳部のほかにバレエかてやっとるのやから。でも勉強かてあるのやから、あまり無理せえへん方がええよ」
そう話すときの優菜の口調は少し心配そうだったが、潮音はそのような優菜の不安を否定するかのように答えた。
「いや、それ言ったら紫なんか今年も信州にバレエの合宿に行って、そこでバレエの特訓をしているみたいだし、榎並さんはこの夏休みも医学部に行くために予備校に行って一生懸命勉強してるからね」
「そりゃあたしかて、峰山さんや榎並さんはえらいと思うよ。でも潮音まで、無理してあの子らについていこうとする必要なんかあらへんよ。もちろんだらけたりするのはあかんけど、潮音のペースで頑張ったらええんとちゃうかな」
潮音と優菜はそのように話しながら着替えと帰り支度を済ませ、プールを後にすると手芸部の活動で登校していた暁子と待ち合わせた。
「潮音、水泳やバレエもいいけどちゃんと宿題やってる?」
暁子にまで宿題について尋ねられると、潮音はいやそうな顔をした。
「勉強もけっこう大変だよ」
「でも潮音もなんか疲れてない? たまには息抜きだって必要じゃないかな」
「そうだね…せっかくの夏休みなんだし、来年は受験で夏休みどころじゃなくなるから、今年の夏のうちに何かしたいよな」
「ほんまやな。去年瀬戸内海の島にあるアッコの実家に行ったときはめっちゃ楽しかったけど、今年は栄介ちゃんが高校受験みたいやし」
優菜が残念そうに言うと、暁子もすまなさそうな顔をしながら答えた。
「ともかくぼやぼやしてたら、夏休みなんかすぐ終っちゃうからね。何かするならするで早く決めなきゃ」
そこで潮音はしばらく沈黙した末に口を開いた。
「そういや少し前にキャサリンの両親と弟が日本に来て、家族で一緒に東京にも行ったみたいだな」
「ええなあ…あたしも東京行きたいなあ」
優菜が羨ましそうな顔をすると、潮音がそれに答えて言った。
「私は母さんが東京の出身で、母方のおじいちゃんや伯父さんも東京にいるから、ちっちゃな頃に東京に行ったことも何度かあるけど。今おじいちゃんとおばあちゃんは高齢者向けのマンションに住んでるけどね」
そう話すときの潮音の表情を見て、優菜はいぶかしむような表情をした。
「どないしたん? 潮音もまた東京行きたそうやな」
そこで潮音はもじもじとした口調で答えた。
「いや、私だってもしかしたら東京の大学行くことになるかもしれないからさ…まだわかんないけど」
潮音の言葉を聞いて、優菜はため息をついた。
「東京の大学行って一人暮らしするのにもちょっと憧れるけど、それにはお金もかかるしな。それ以前に大学の入試に受からへんかったら何にもならへんけど」
ちょうどそのとき、潮音の心に一つの提案が浮んだ。
「それはそうとして、いっぺん東京行ってみるのも悪くないかもしれないな。新幹線乗ったら高いけど、青春18きっぷや夜行バスという手もあるし。伯父さんが家に泊めてくれるかが問題だけど」
その潮音の言葉に、暁子と優菜は思わずきょとんとしていた。
「これ…ほんとにあたしたちも一緒に行っていいの。さすがに高校生に、ホテルに何日も泊まれるようなお金なんかないから、潮音の親戚の家に泊まれるならありがたいけど」
暁子がため息をついたとき、潮音ははっとさせられた。仮に自分が東京に行って親戚の家に世話になったとしても、自分が男から女になってから後に祖父母や親戚に再会するのは初めてになることに潮音は気がついたのだった。男から女になった自分自身をいざ目の当りにして、祖父母や親戚はどのような顔をするかと考えると、潮音はいささかの不安を覚えずにはいられなかった。
そのような潮音の様子には、暁子と優菜も気がついたようだった。
「潮音、どないしたん? さっきまで元気やったのに、今になって急に落着きがなくなったけど」
そこで潮音は、思い切って暁子と優菜に打ち明けた。
「実は…自分が女になってから、東京にいるおじいちゃんおばあちゃんや親戚に会ったことがないんだ。私がいきなりこんな姿で現れたりしたら、みんなどんな顔をするかなあって…」
潮音の不安そうな表情を見て、暁子と優菜も我に返ったような顔をした。しばらくして暁子が潮音をなだめるように声をかけた。
「潮音…そんなの気にすることなんかないじゃん。これが今のあんた自身の姿で、それをごまかすことなんかできやしないんだから。あんたはあんなことがありながらも、そこから目をそらすこともせずにずっと頑張ってきたんだから、潮音の親戚だってきっとわかってくれるはずだよ」
そこで優菜も心配そうに声をかけた。
「ほんまやで。潮音はほんまにようやったと思うよ。だからこの学校で今までちゃんとやってくることができたわけやろ? そのことにはもっと自信持つべきやと思うよ」
しかし暁子と優菜は、このようにして潮音を励まそうとする一方で、内心では自分たちももしかしたら東京に行けるかもしれないと期待する気持ちもあることがありありと見てとれた。そこで潮音はあわてて手を横に振った。
「変に期待しないでよ。もし東京に行けたとしても、親戚の家によそ者が二人も泊まることができるかどうかなんてわかんないんだから。だいたい東京行って何するんだよ」
「これから受験する大学の下見ということにすればええんとちゃう」
「夏休み中にふらっと大学行ったって、誰かちゃんと学校の案内してくれるのかよ。せいぜい校門や講堂の前で写真撮るだけで終りだろ。遊びたいなら遊びたいとはっきり言えばいいのに。ともかくこの件については、今日帰ってからダメもとで家族や親戚に相談してみるよ。でも親戚だって都合もあるから、あまり期待はできないよ。ダメだと言われたらきっぱり諦めてくれ」
そこで優菜はあらためて手を横に振りながら言った。
「そんな気にせんでもええよ。あたしらかて潮音の親戚にあまり迷惑かけるわけにはいかへんし」
暁子も傍らで同感そうな顔をしていたものの、潮音はこのみんなで東京に行こうという案が通ったにしても通らなかったにしても、厄介なことになりそうだと思って内心でやれやれと思わずにはいられなかった。
潮音は暁子や優菜と別れて自宅に戻ってからも、みんなで東京に行くという提案そのものは悪くないものの、それを実現するためにはいろいろと困難もありそうだと思うと、気が重くならずにはいられなかった。しかしそこで潮音は、先日キャサリンの母親の小百合と会って話をしたときのことを思い出していた。
潮音は小百合と話して以来、自分もいつまでも狭い世界に閉じこもっているわけにはいかないと思うようになっていた。潮音は小百合のいるイギリスとまではいかないまでも、もっと広い世界を見てみたいと思うと、もはやじっとしていることはできなかった。潮音は多少の困難はあっても、まずは東京に行くことで自分を取り囲む狭苦しい環境を打破したいと思うようになっていた。
そこで潮音はさっそくその日の夕食の席で、自分はこの夏休みに東京に行きたいということを則子と綾乃にはっきりと伝え、それには暁子や優菜も一緒に行ってもいいかと尋ねた。その潮音の言葉を、最初は則子と綾乃も呆気に取られたような顔で聞いていたが、やがて綾乃が口を開いた。
「いいんじゃない? 潮音がせっかく自分からやりたいことを口にしてるんだから。潮音にとってもいい経験になると思うよ」
「それはいいんだけど、おじさんがいいって言ってくれるかしら」
則子は少々心配そうな顔をしていた。
「それだったら心配いらないんじゃない? この子だってしばらくおじいちゃんや伯父さんには会ってなかったわけだし、まして友達を連れてきたりしたら歓迎してくれるんじゃないかな」
「まずは伯父さんにきいてみないことには何も始まらないわね」
夕食が済むと、さっそく則子が東京にいる伯父の家に電話をかけた。しかし潮音の、夏休みに暁子や優菜と一緒に東京を訪れたいから、その間暁子や優菜と一緒に伯父の家に泊めてほしいという希望には伯父も色よい返事をした。電話を切るなり則子がVサインをすると、潮音と綾乃もそれを見て満々の笑みを浮べた。
「伯父さんもこの夏休みに家に来ていいって言ってたよ。今高齢者向けのマンションにいるおじいちゃんやおばあちゃんにもあいさつしてほしいし、友達もぜひいらっしゃいってさ」
計画にゴーサインが出たことに対して、潮音はさっそく嬉しそうな顔をしたものの、その一方では心の中で疑念も晴れなかった。
「私が女になってからおじいちゃんや伯父さんたちに会うのは初めてだよね。大丈夫かな」
不安そうな様子が抜けない潮音に対して、綾乃はつとめて明るい口調で話そうとした。
「その点だったら心配いらないよ。あんたはこんなかわいい女の子になったんだから」
その綾乃の言葉に潮音ははぐらかされたような顔をしたが、そこで綾乃はさらに言葉をつけ足すことを忘れなかった。
「私だってもうちょっとしたら就職活動始めなきゃいけないからね。そのときは東京に本社がある会社の入社試験を受けることだってあるかもしれないけど、そのときは伯父さんの家に泊めてもらわなきゃいけないからね。くれぐれも失礼なことがないようにするのよ」
潮音は綾乃の言葉にやれやれと思いつつも、「就職活動」という言葉を聞くと、自分もやがてはたどらなければならない道だと思って、内心で一抹の不安を抱かずにはいられなかった。




