第六章・広い世界に(その8)
そこであらためて、小百合は潮音の顔をじっと見つめ直すと、そっと潮音に対して話し始めた。
「私がロンドンで働き始めたのには、たしかに若さゆえの無謀さもあったかもしれないね。私があなたくらいの歳のころは、日本なんか抜け出してもっと広い世界を見てみたいって思ってたわ」
「…すごいですね。私なんて目の前の現実についていくだけで必死で、そんなこと考えてる余裕なんか全然ないのに。…日本でうまくいかないから、外国に行けばうまくいくなんてわけでもないだろうし」
潮音が自信なさげな口調で話すと、小百合は顔に笑みを浮べていた。
「わかってるじゃない。その通りよ。私だってどうのこうのと言って日本から外国に移住したけれども、結局うまくいかなくて日本に戻ってしまった人を何人も知っているわ。私自身だって今の旦那と出会って結婚して、キャサリンやエドワードが生れていなかったらそうなっていた可能性は十分あるけど。はっきり言って私だって、日本に戻りたいって思ったことなんか何度だってあるよ」
「やっぱり、キャサリンやその弟が生れた以上もう後戻りはできないって思ったからですか」
「そういうことになるかしら。はっきり言って子どもを育てるなんて日本の中ですら大変なのに、慣れないイギリスでの子育てはほんとに苦労の連続だったんだから。この点旦那が協力してくれなかったら、とてもうまくいかなかったでしょうね」
「キャサリンのお父さんって、本当に優しくていい人なんですね」
「でもあなただって、学校があなたのことを理解して受け入れてくれたし、中学の頃から一緒だった友達もいたからここまでやってくることができたんでしょ」
そこで潮音は思わず身を乗り出していた。
「たしかにそうだけど…私だって自分が男に戻る方法がもしかしたらあるかもしれないって思うことが今でもあるんです。でもそんなあるかどうかもわからないようなものを当てにするくらいだったら、今の自分の現実を受け入れて前に進むしかないと思って、なんとかしてここまでやってきたのです」
潮音がいきなり深刻そうな表情をしたので、小百合はなだめて潮音を落ち着かせようとした。
「そんなに肩肘張らない方がいいよ。私の経験から言っても、外国に行ってそこで頑張らなきゃいけないって無理した人の方が、うまくいかないってことはあるかもしれないね。それは海外生活だけじゃなくて、勉強だって仕事だって、結婚や子育てだってみんな一緒じゃないかな」
そこで潮音は、愛里紗のことを思い出していた。家庭環境に恵まれない中で、医学部に行くという目標のために勉強に打ち込んでいる愛里紗に対して潮音はたしかに敬意は抱いていたものの、その無理をしがちな様子にどこか危ういものを感じていることも事実だった。
「私の同級生に、医学部に行くために一生懸命勉強してる子がいるんです。たしかに目標を持って一生懸命勉強するのはえらいと思うけど、どこか無理してるところだってあるんじゃないかって心配なんです」
「だったらその子の悩みなんかも聞いてあげたらいいんじゃないかな。そういう人が近くにいるだけでも全然違うと思うよ」
「それはわかってます。私だってそうだったから。…でも自分は、右も左もわかんない女子校に入っても、その現実から逃げたりしたら自分がみじめになるだけだと思ってここまで頑張ってきました。そのために失敗したことだっていっぱいあるし、はっきり言ってこの先大人になって働き始めたらうまくいくのか不安はあります」
「何をやるにしたって、不安なんかあって当り前よ。あなたは今こうやって先生や友達の助けや理解もあって学校に通うことができている、それだけで十分立派なことだわ。ともかくそのことにはもっと自信を持っていいのよ。私だってイギリスに渡って、最初は右も左もわからない中で旦那にも助けられながらここまでやってきた。今はキャサリンやエドワードのためにも頑張ろうって思ってるの」
そして小百合は席を立つと、窓の外に広がる神戸の街や、青々と茂った六甲山の木々を眺めた。潮音は小百合の眼差しが街の風景を懐かしんでいるかのように見えたので、これ以上声をかけることができなかった。潮音も黙ったまま、小百合と一緒に神戸の街の風景を眺めていた。
小百合は精算を済ませて潮音と一緒にレストハウスを後にし、ロープウェーのゴンドラに乗り込んだ。ゴンドラの窓から流れる景色を眺めながら、潮音は小声でぼそりと小百合に話しかけた。
「あの…私が昔男だったことは、キャサリンには話さないで下さい。いくら学校の先生たちは私のことを知っているとはいえ、校内では本当にこの人だったら大丈夫だと思った何人かにしか話していないのです。キャサリンには私のことについて、変に気を使わせたくないから…」
「わかったわ。あなただって自分のことを誰にもわかってもらえないのはつらいでしょうけど、あまりそれを大っぴらにしても、あなたのことを好奇の目で見る人も出てくるかもしれないからね」
二人を乗せたゴンドラが六甲山の麓の駅まで降りた頃には、夏の陽射しも西に傾きつつあり影も長く伸びていた。小百合は三宮の駅で潮音と別れる間際に、あらためて潮音に声をかけた。
「私も久しぶりに日本に帰ることができて、なかなか楽しかったわ。キャサリンだってみんなと一緒に元気でやってるみたいだし、エドワードにとってはこれが初めての日本体験になったわね。…この暑さで参ってなければいいけど。それに今回は、あなたたちに出会えただけでも日本に来て良かったわ。女子校だからこそ女の子たちがのびのびと自分の個性を伸ばせるところがうちの学校の良さだと思うけど、その伝統は今でもしっかり後輩たちに受け継がれていることがわかって嬉しかったな。何年か前に共学化の話が出ているという話を聞いたときは、私もロンドンから反対の署名を送ったけど」
潮音は小百合に褒められて、照れくさそうな顔をした。
「キャサリンは今日は友達と一緒に遊びに行ってるけど、そろそろ帰ってくるでしょ。ともかく藤坂さんも、悩みごとがあったらいつでも私に相談すればいいのよ。そしていつかはお友達も連れてイギリスにいらっしゃい。そのときは案内くらいはしてあげるよ。キャサリンが高校を卒業するまではいろいろお世話になると思うけど、そのときはよろしくね」
「キャサリンのお母さんこそ、私の話をちゃんと聞いてくれてありがとうございます。これからもイギリスで頑張ってください」
そして潮音と小百合は握手を交わすと、それぞれ反対方向のプラットホームに向かった。小百合を見送ったときの潮音は、すがすがしい表情をしていた。
潮音が小百合と会った翌日、茉美は美鈴と別れて山あいの町へと帰っていった。駅で美鈴に見送られて電車に乗り込む間際に、茉美は元気な声で美鈴に言った。
「この三日間ほんとに楽しかったよ。キャサリンもまた私たちの町に来ればいいのに」
「キャサリンは今家族が日本に来とって、久しぶりに再会できたわけやからな。あさってくらいにキャサリンの両親はイギリスに帰るみたいやけど。でも茉美も、キャサリンともまた一緒に遊べるよ」
「それだったらいいけど」
そう言っているうちに電車がホームに着いたので、茉美は美鈴に「じゃあね」と言いながら軽く手を振って電車に乗り込んだ。電車のドアが閉まり、電車が動き出すのを美鈴はそのままじっと見守っていた。
その翌日、キャサリンの家族は日本で過ごす最後の晩を、神戸港をめぐるクルーズ船に乗って過ごした。キャサリンやエドワードは、六甲山の稜線の真上に広がる、光を失い茜色から紫色へと変りつつある夏空や、明かりの灯り出した神戸の町並みをクルーズ船からじっと見つめていた。特に海沿いのタワーの赤い光や、観覧車の色とりどりの光が暗く沈んだ海の波間を照らしている光景が、エドワードの心を深くとらえたようだった。
そしていよいよロバートと小百合、エドワードが日本を去る日が来ると、キャサリンは祖父母と一緒に関西空港まで見送りに出かけた。小百合は搭乗ゲートでキャサリンと別れる間際に、あらためてキャサリンに声をかけた。
「キャサリンは高校がまだ一年半あるけど、しっかりがんばるのよ。キャサリンが日本で友達がいっぱいできたみたいなのは何よりだけど、これからみんなは勉強が大変な時期になるからね」
「お母さん、藤坂さんと会ったみたいだけど、どんな話をしたのですか?」
「…それはちょっとね。でもこれからもみんなと仲良くするのよ」
キャサリンは母親の小百合が潮音のことを聞かれて少し口ごもったことを少しいぶかしんでいたが、そうしているうちにロンドン行の飛行機の搭乗ゲートが開いたので、キャサリンは手を振って両親やエドワードを見送った。
小百合は飛行機のシートに腰を下ろしてからも、ハーブ園で潮音と話したときのことが頭から離れなかった。やがて飛行機が離陸し、窓の下に広がる景色が見る見るうちに小さくなっていくのを、小百合はじっと見つめていた。
――あの子も自分に合った進路や生き方を見つけてくれたら。
そして小百合は、潮音の顔をあらためて思い出していた。
私事になりますが、先日父親が他界しました。少し前から調子がすぐれないという話を聞いていたので、前回の話を投稿した直後に見舞いに向かおうとしたのですが、その日のうちに容態が急変し、私が着いた直前に息を引き取りました。
父が元気なうちにこの話を完結させたいと思っていたのですが、それを果たせなかったことは残念でなりません。老親関係のことは実家の近くにいる私のきょうだいに押し付けっぱなしで心苦しいものがありますが、自分が今元気で小説を書けることに感謝して、これからも続きを書いていきたいと思います。




