第四章・北の国へ(その9)
潮音たちは雲海テラスから戻って朝食を済ませると、ホテルの前に集合した。この日は生徒たちがグループごとに分かれて、アクティビティ活動を行う日になっていたが、潮音たちのグループはラフティングを行う予定だった。
生徒たちがグループごとに分かれると、潮音たちは他のラフティングを行うグループと合流した。潮音は更衣室で水着の上にウェットスーツとショートパンツを着込み、髪をゴムでまとめた後でライフジャケットとヘルメットを身につけて準備を整えた。その後で潮音たちが集合場所に集まると、ガイドインストラクターからパドルの持ち方や漕ぎ方、ボートが揺れた場合のつかまり方や川に落ちた場合の対処方法などについての説明が行われた。
その後で潮音は暁子と優菜、美鈴と芽実、真桜と六人のグループにまとまってパドルを手に、ガイドインストラクターに先導されてラフトと呼ばれるゴムボートに乗り込んだ。すると潮音たちのラフトに梅組の担任の美咲も乗ることになったので、潮音は暁子と顔を見合せながらお調子者の美咲がこの場に居合わせたらどうなることかと思わずにはいられなかった。
潮音たちがラフトの中に腰を下すと、ガイドインストラクターが船尾に乗り込んだ。ふと潮音が周囲を見渡すと、紫も別のラフトに乗り込もうとしていた。
潮音たちを乗せたラフトが岸を離れて急流に漕ぎ出すときには、特に真桜はいささか緊張気味の表情をしていた。潮音もラフティングはこれまで経験がなかっただけに、急流をラフトで下ることには多少の不安もあったのは事実だった。
しかし潮音たちがガイドインストラクターの指示に従ってパドルを漕ぎ、いざ急流の中へとラフトを進めると、ラフトは澄んだ川の流れに乗って勢いよく川面を滑り出した。川べりにまで迫るシラカバの森も、見る見るうちに後方へと流れていった。澄みわたった水の流れは、川面の石にせき止められてうねりを立てていた。
はじめは揺れるラフトの中で安定を保つ感覚がなかなかつかめずに緊張していた潮音も、パドルで水を漕ぎながらで川を下るうちに、いつしか体中に爽快感を感じていた。暁子や優菜、芽実も急流を漕ぎ進むうちに表情が明るくなっていったが、特に美鈴はラフトが水しぶきを上げながら勢いよく川を下るにつれて表情が生き生きしている様子が、ありありと見てとれた。そればかりか、生徒たちを見守る立場の美咲までもが童心に帰ったような嬉しそうな顔をしていた。
潮音は真桜がどのような様子を示すかが一番気がかりだったが、真桜も楽しそうな顔をしているのにほっと息をつかされた。真桜はむしろ、水面に影を落している原生林の緑の鮮やかさや、川の澄みきった流れに見とれているようだった。
やがてラフトが流れの急な浅瀬にさしかかると、ラフトががくんと大きく揺れて高く水しぶきが上がり、一同はずぶ濡れになった。しかしそれでも、美鈴や美咲は濡れることなど何でもないと言わんばかりに楽しそうな表情をしながら歓声を上げていた。
そうこうしているうちに、潮音たちのラフトはゴール地点に着いた。潮音はラフトを下りて地上に上がると、さっそく暁子に話しかけた。
「なんかみんなで呼吸を合わせてタイミングよくパドルを漕ぐのが難しいよね。でも楽しかったよ」
暁子も潮音の言葉にうなづいた。
「そうよね。なかなかスリル満点でスカッとしたよ。みんなで一緒になって船を漕ぐ、その一体感もいいよね」
美鈴も興奮を抑えられない様子で、潮音たちの言葉に同意した。
「あたしは旅行に行く前にちょっとネットで調べてみたけど、ラフティングは北海道やなくても日本中の川でできるみたいやな。もっといろんなところでやってみたいわ」
そこで真桜と芽実も口を開いた。
「最初は自分にできるかちょっと心配だったけど…こんなに水が澄んでいてきれいな川を見るのは初めてです」
「なんか百人一首の『瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ』という崇徳院の歌を思い出したよね」
正月の百人一首大会でも決勝戦まで勝ち進んだ芽実は、やはりここでも百人一首のことが気になるのかと潮音は思ったが、潮音たちが楽しそうにおしゃべりをしているのを、美咲も満足げな表情で眺めていた。
「みんなが楽しんでくれたようで何よりだわ。こんなんだったら先生ももっとラフティングをやってみたいな」
「先生がなんだかんだ言って、いちばん声をあげて楽しそうにしてましたよね。もうすぐ結婚するんだからもっとしっかりしないと」
優菜に言われると、美咲も少し気恥ずかしそうな顔をしていた。
そのうちに紫を乗せたラフトもゴールに着いたが、紫もこのラフティングには満足したようだった。
「天気も良かったし、事故もなかったようで何よりだわ」
それから潮音たちはスタート地点に戻り、濡れた体をタオルでよくふき取って着替えを済ませた。その後で潮音たちは他のグループ活動を行っていたメンバーたちと合流すると、牧場体験を行ったグループに参加していた光瑠や愛里紗も、体験の様子を潮音たちに話していた。
「私たちは牛のミルクを搾ったり牧舎を掃除したり、馬にブラッシングをしたりしたんだけど、牧場の人たちは動物たちの命を預かっている以上、一瞬たりとも気の抜けない大変な仕事だって話してたわ。単に動物が好きってだけじゃ勤まらないのかもね」
「あたしらは北海道に来て食べ物がおいしいとばかり言うとったけど、その食べ物を作る人のことも考えへんとあかんな」
美鈴も神妙な表情で光瑠の話を聞いていたが、その一方で潮音は医学部を目指している愛里紗だけでなく、光瑠が生物学に関心を持っていることをかねてから聞いていただけに、光瑠も自分の進路をどうするのかを考えているのだと感じていた。
その一方でキャサリンは、ハンドメイドのグループで陶芸を体験したときのことを楽しそうに話していた。キャサリンが自ら絵付けを行った焼き物の写真をスマホで示すと、周りの生徒たちは皆興味深げにそれに目を向けていた。
「キャサリンの絵付けしたお皿、なかなかセンスありますね。日本とイギリスのデザインが融合したような感じがします」
絵画については一家言ある真桜も、キャサリンの絵付けした皿の写真を感心したように眺めていた。同じハンドメイドのグループにいた琴絵も、キャサリンが楽しそうにしていることには満足なようだった。
そのようにして生徒たちがみんなで談笑のひとときを過ごしていたとき、紫が声をかけた。
「みんなアクティビティをやって楽しかったみたいだけど、疲れてないかな。だから夕ご飯が済んだら、みんなで露天風呂に行ってみない?」
潮音はやれやれと思ったが、夕食の後で入浴に必要なものを手にすると、紫と一緒に露天風呂に向かうことにした。
潮音は紫と一緒に露店風呂の浴室に足を踏み入れると、浴室の湯気の香りと山から来るひんやりとした木々の香りを含んだ空気が混じり合っているのにはっと息をつかされた。
潮音が体を洗い終えて露天風呂に浸かると、目の前には果てしない闇に閉ざされた、しんと静まり返った森林が広がっていた。かすかに音を立てるだけでも、その音は深い森の静寂の中に消えていきそうな感じがした。
さらに潮音が顔を上げて夜空を見上げると、思わず息を飲まずにはいられなかった。トマムのリゾートはほとんど明かりもないので、それだけ夜空一面に無数の星たちがまたたいていて、あたかもそれが降り注いできそうだった。そしてその中空では、月が森一面を照らしていた。潮音が湯舟の中で手を広げてみると、自分自身の体が月の光を浴びてその森の闇と静寂の中へと溶け込んでいきそうな気がした。
そこで一緒に湯舟に浸かっていた紫が声をかけた。紫も目の前に広がる星空にはただ圧倒されているようだった。
「すごいよね…こんな星空神戸じゃ見られないじゃない。一昨年カナダにホームステイに行ったときのことを思い出すよ」
紫の隣で、潮音も伸びをしながら口から感慨を漏らしていた。
「なんかこの旅行に来てから、今まで見たことも経験したこともないようなことばかりで、まるで夢を見てるみたいだよ」
そこで紫が、いぶかしむように言った。
「潮音は昔男の子だったから、特にそう思うわけ? 言っとくけど私は、小学生のときから潮音のことは気になってたんだ。そのときはバレエを習ってる男の子が珍しかったし、その中でも潮音は一生懸命練習してたからね。その潮音が女の子になってうちの学校に来るなんて、夢にも思わなかったけど」
「そんな…私はバレエの腕なんか紫に比べたら月とスッポンだし、バレエだって小六のときにやめちゃったし」
そこで紫は、潮音に笑顔を向けた。
「バレエが好きで頑張りたいって気持ちに、経験も年齢もないよ。そりゃ私だってプロのバレエダンサーになるのは厳しいなんてことは十分わかってるけど、それでも大学入ってからも社会人になってからも、趣味でもいいからバレエは何とかして続けていきたいって思ってるんだ」
そう言って星空を見上げた紫の顔を、潮音はじっと見返した。
「紫だったらたとえバレエの道に行かなくたって一流大学だって行けるし、そのまま大きな会社だって入れそうなのに」
「よしてよ。そんなことまだ全然わかんないのに」
そして紫は湯舟から上がると、自らの体をそのまま夜風に晒して全身に月の光を浴びながら、大きく伸びをしてみせた。潮音がどきりとしていると、紫は笑顔を浮べて潮音を誘ってみせた。
「潮音もおいでよ。気持ちいいから」
潮音も湯舟から上がって紫と並んで月の光を浴びてみると、体中の神経が研ぎ澄まされて全身にぞくぞくするような震えが来るのを感じて、思わず身をすくめていた。潮音はもう一度湯舟に入って冷えた体を温め直すと、露天風呂から上がることにした。
潮音がホテルの部屋に戻ると、真桜も同じグループの暁子や美鈴たちと多少なりとも会話ができるようになっていた。潮音は真桜が少しとはいえみんなと打ち解けるようになっているのに、少しほっとしていた。
潮音は就寝する前に、もう一度ホテルの窓から暗い夜空を見上げた。静寂に包まれた暗い原生林の上に満天の星がきらめいているのを見守ると、潮音は床についた。
ラフティングについては作者は全然知らないもので、ネットで検索してのにわか勉強です。実際に経験のある方が本稿を読むとおかしいと感じるところもあるでしょうが、この点はご容赦願います。ご教示を下さる方がおられたら幸いです。




