第四章・北の国へ(その7)
バスはしばらく山道を下った後で、畑や牧場の広がる十勝平野に入った。そこで美鈴が車窓を眺めながら潮音に話しかけた。
「帯広っちゅうと、豚丼が有名やな」
潮音は呆れ顔でそれに答えた。
「美鈴ってこの旅行中食べることばかり考えてないか」
「ええやろ、北海道の食べ物はおいしいんやから。それとも食べすぎたら太るとでも言いたいわけ? その分運動するからええやろ」
美鈴はむっとしながら答えた。
そしてバスが途中の花が咲き誇る公園などで休憩を取りながら、日高山脈をトンネルで抜けて宿泊地のトマムに着いた頃には、日も西に傾きつつあった。バスがトマムに着くと、山中にそびえるリゾートホテルが潮音の目をとらえた。生徒たちの間からは、すでにこのホテルに泊まることや、ここで朝方に見られる雲海を楽しみにする声も上がっていた。
一行がリゾートホテルに着いてしばらくすると、紫が提案をした。
「このトマムには、一年中やってる大きな温水プールがあるみたいよ。夕食までまだ時間があるから、ちょっと寄ってみない?」
潮音はその言葉を聞いてどきりとしたが、紫の楽しみそうな表情を見ると、断るのも野暮だと思って水着を手に紫について行くことにした。
トマムのリゾートは広大なので、ホテルの建物からプールのある棟に向かうときにも専用のバスを利用することになる。そのリゾートの規模にも潮音は驚かされたが、それよりも潮音は紫たちと一緒にバスでプールに向かう間も、胸の高鳴りを抑えることができなかった。もちろん潮音は水泳部に籍を置いていて、学校の温水プールで泳ぐこともしばしばあるし、昨年の夏には暁子の実家のある瀬戸内の島に行って暁子や優菜と一緒に海水浴場で泳いだとはいえ、これだけの生徒たちと一緒に水着姿になってプールで遊ぶことなどこれまでなかったからだった。
潮音たちを乗せたバスは程なくして、プールや露天風呂を備えた大きなガラス張りの三角屋根の建物の前に着いた。フロントで手続きを済ませて更衣室に入ると、潮音は暁子や優菜と一緒にそそくさと更衣室の奥のロッカーの前に行き、昨年の夏に買った青いビキニの水着に着替えた。水着を身につけるときには、潮音はやはり緊張せずにはいられなかった。
潮音が水着に着替え終って更衣室を後にすると、目の前に海岸を模した広大なプールが広がり、水が波を立てているのに思わず息を飲んだ。そしてガラス張りの屋根からは初夏の午後の陽が降り注いでおり、室温は暑いくらいに保たれていた。このプールの規模には、潮音のそばにいた暁子も驚いているようだった。
「まさかこの季節に北海道の山の中まで来て、水着で泳ぐことになるなんて思わなかったよね」
しかし潮音はプールの規模だけでなく、周りにいるクラスメイトたちの水着姿にも目を奪われていた。自分はかつて男だったという意識をいまだに捨てきれずにいる潮音にとって、水着姿の少女たちが一堂に集まって遊びに興じている姿を見て、何も感じないはずがなかった。潮音は思わず、顔を赤らめて身をすくめるほかはなかった。
――もし自分がここでこんなに水着姿の女の子たちに囲まれてるなんて、中学のときに一緒にバカやってた男子たちが知ったらどんな顔するかな…。
そこで優菜が、潮音に耳打ちした。
「潮音、もしかして水着の女の子たちに囲まれて緊張しとるん?」
潮音がこくりとうなづくと、優菜は軽く潮音の肩を叩いてやった。
「今のあんたは正真正銘の女の子なんやから、何も気にすることなんかあらへんよ。せっかくこうやってプールに来たんやから、楽しまな損やん」
そうして優菜が潮音の手を引いて波打ち際まで誘おうとしたとき、生徒たちの間からざわめきが起きた。紫がプールに姿を現したのだった。しかしハイビスカスの柄のビキニを着こなして腰にパレオを巻いた紫は、生徒たちの中にいても圧倒的な存在感を示していた。それには潮音だけでなく、暁子と優菜までもが目を離せないようだった。
「やっぱり峰山さんは違うよ。あの整ったプロポーションといい、贅肉がなくて引きしまった体といい、さすがに日ごろからバレエで鍛えてるだけあるわ」
「ほんまやな。それでビキニ着てもやらしい感じせえへんのやから、女の目から見てもほれぼれするで」
実際、紫はビキニの水着を着ていても卑猥さはなく、むしろ気品すら感じさせた。潮音はバレエの舞台の上でも圧倒的な存在感を示している紫の姿をかねてから見ているだけに、紫がここで皆の目を引きつけるのも当然だと感じていた。
そして紫の傍らには光瑠とキャサリンの姿もあった。光瑠も日頃からバスケットボールで体を鍛えているだけあって、シンプルでスポーティなセパレートの水着がそのプロポーションの良さをより引き立たせているように見えたし、フリルの飾りのついた花柄の水着をつけたキャサリンもより可憐に見えた。潮音も思わずその姿から目が離せなくなっていたところを、暁子に小突かれていた。
ちょうど紫と光瑠、キャサリンも潮音の姿に気づいたらしく、潮音に向けて笑顔で手を振った。
「どう潮音、プール楽しい?」
潮音は紫の屈託のない表情に、たじたじとして気後れを感じずにいられなかった。
ちょうどそこに、潮音と同じグループの美鈴と芽実も姿を現した。しかしその二人の背後で真桜が気恥ずかしそうにもじもじしていたので、潮音が真桜の方を向いて目配せをすると、真桜も遠慮気味に潮音の前に出た。すると真桜も水玉模様の入ったワンピースの水着を着ていたのを見て、真桜ってこの姿もけっこうかわいいのだから恥ずかしがることなどないのにと潮音は内心で思っていた。
そのまましばらく潮音たちは、波の出るプールでビーチボールを投げ合うなどして一緒に水遊びに興じた。潮音がプールに足を踏み入れるまでに感じていた気後れも、プールで遊ぶうちにいつしか雲散霧消して、潮音はみんなと一緒に笑顔になっていた。何よりも潮音にとっては、プールの水の中で自在に体を動かせることが嬉しかった。はじめは緊張気味だった真桜も、波打ち際でくるぶしを波に濡らしているうちにいつしか表情をほころばせていた。
潮音は日ごろ生徒会長としても、バレエ教室でも威厳と存在感を示している紫が、無邪気な顔でみんなとプールで目いっぱい遊んでいるのを見て、何かしらほっとするものを感じていた。潮音は何をやっても紫にはかなわないと気後れを感じていただけに、紫の存在が自分にぐんと近づいたように思って、いつしか表情も穏やかになっていた。
そうしているうちにガラス張りの屋根を透かして見える初夏の空も茜色に染まり、夕暮れの西日がさしこむようになっていた。そこで潮音たちがプールサイドに上がって少し休むことにすると、紫が椅子に腰を下して天井を見上げながら言った。
「なんか信じられないよね。ここはリゾート開発が行われる前は人も住んでいない山奥だったなんて。今でも真冬には気温が零下三十度くらいまで下がることもあるみたいよ」
そこで光瑠も相槌を打った。
「それでもこのリゾートから一歩外に出たら外は原生林だっていうからね。でもスキーの季節にもういっぺんここに来てみたいな」
しかし潮音にとっては、ここでこうして水着姿で紫と一緒にいること自体が夢か幻のように思えてならなかった。潮音はそのまま、ガラス越しに北海道の暮れなずむ高い空をじっと眺めていた。それから程なくして夕食の時間が迫ってきたので、みんなは着替えを済ませてバスでホテルに戻ることにした。
夕食の間も、生徒たちはこれまでの旅行の行程の話題で持ちきりだった。またトマムは土産物店も充実しているため、そこで多くの生徒たちが買い物をしていた。光瑠は少し恥ずかしそうな顔をしながら子馬のぬいぐるみを買い求めていたが、潮音は誰に土産物を買おうかと少し考えていた。潮音は家族のほかにも流風や漣のことが気になっていたが、部屋に戻ったらこの二人にもスマホで北海道で撮った景色をSNSで送信しようと思いながら、この二人のために小さなぬいぐるみのマスコットを買い求めていた。
潮音が土産物屋を後にすると、そこで暁子に声をかけられた。
「潮音もお土産を買ったんだ」
潮音が軽くうなづくと、暁子は潮音をホテルの客室に誘おうとした。
「明日はグループに分かれてのアクティビティもあるし、その前に朝早起きして雲海テラスに行くから、夜更かししないで早く寝なきゃ。あと、雲海テラスは朝寒いらしいから、あったかい恰好して行かなきゃね」
潮音は暁子と一緒に、エレベーターに乗って自分の泊まる部屋に戻ることにした。そこで優菜が潮音を出迎えて言った。
「ここってリゾートホテルというだけあって、部屋の中もきれいやな。ベッドかてフカフカやん。ずっと旅行しとって疲れたから、ここで二泊できてよかったわ」
優菜はそのように言いながら、ベッドに寝転んで気持ちよさそうにしていた。そこで潮音が周囲を見渡すと、たしかにホテルの部屋の内装もおしゃれな感じがした。
「ああ…たしかにそうだよね。でもちょっと家族にメール送ってもいいかな」
そこで潮音はさっそく家族と玲花や流風、漣にスマホで旅行の感想と、旅先で撮影した写真の何枚かを送信した。潮音は特に流風や漣が、この風景の写真を見てなにかを感じてくれたらいいのにと思っていた。
「暁子や優菜も栄介や家族にメールくらい送ればいいのに」
「うん…そうだよね」
「でも旅行ももう半分過ぎたよね。明日は朝早く起きて雲海テラスに行くから、もう寝てもいいかな。暁子や優菜も早く寝た方がいいよ」
そして潮音は明日の雲海テラスのツアーに備えて、早めに床につくことにした。




