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裸足の人魚  作者: やわら碧水
第五部
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第四章・北の国へ(その5)

 バスは知床五湖を後にすると、原生林の中をヘアピンカーブが連続する知床峠を越えて、根室海峡に面した羅臼(らうす)の町に出た。羅臼からは晴れた日には国後(くなしり)島が一望できるとバスガイドも告げていた。


 それからバスはしばらく根室海峡沿いを走った後、何回かの休憩をはさみながら原野や牧場の広がる根釧(こんせん)台地を貫く、「ミルクロード」と呼ばれる道路にさしかかった。この辺は人口よりも牛の数の方が多いと言われているというバスガイドの説明にも生徒たちは納得したようだったが、北海道では地方の過疎化が深刻な問題になっているという話を聞かされると、このような土地で暮すのも大変なのだなと潮音は思っていた。


 しかしその頃から空が曇り出して周囲に霧が漂い始めた。道東は夏でも霧がよく発生して気温が上がらないことがあると、バスガイドも話していた。バスが山地にさしかかると、人家も絶えて昼なお薄暗い森が車窓に広がり、窓ガラス一枚を隔てて車内にも森の香りが漂ってきそうな気がした。


 やがてバスは、その日の次の目的地になっている釧路湿原の展望台に着いた。生徒たちがバスを降りると、六月というのに肌寒い天候に皆驚いて、あわてて上着を羽織る者もいた。


 潮音たちが展望台に上がると、眼下に見える広漠たる森林や湿地、湿原の中を屈曲しながら悠然と流れる川のパノラマは、霧がかかっているために多少視界はさえぎられているものの、むしろそれでかえって緑色が深みを増しているように感じられた。吹き寄せる湿気を含んだ風も、潮音の心をざわつかせた。潮音は冬になるとこの湿原にもハクチョウやタンチョウヅルが訪れるというガイドの説明を聞きながら、ただ黙ったまま湿原の彼方をじっと眺めていた。


 潮音の隣では真桜がスケッチブックを持ち出して、水彩色鉛筆で風景を熱心に模写していた。潮音は真桜のインスピレーションに取りつかれた真剣な眼差しを眺めているだけで、軽々しく声をかけるのは憚られた。


 潮音は暁子と優菜に誘われるままに、森の中の遊歩道を散策することにした。歩道はすぐに鬱蒼(うっそう)とした森の中に入り、シラカバの木々の枝が木道のすぐそばまで迫ってきた。暁子は潮音と一緒に木道を歩きながら、ぽつりと言葉を漏らしていた。


「なんか不思議な感じがするよね。ちっちゃな頃童話で読んだ魔法の森って、こんな感じだったのかな」


「ああ…この森の奥には妖精でも住んでいたり、魔女の館でもあったりしそうな気がする。昔の人って、こういう自然をこわいと思う心を、そのような妖精とか魔女とかの形で表そうとしたのかもしれないな」


 潮音は「神秘的」という言葉は、このような景色のことを指すのかもしれないと思っていた。実際、鬱蒼とした森は人の訪れを拒む異界のように見えた。霞のかかったしっとりとした空気も、この森の静謐(せいひつ)な雰囲気をますます高めていた。


 しかしそこで潮音ははっきりと思い出していた。あの日祖父の屋敷の土蔵の中に足を踏み入れたときの感触を。あのときの土蔵の中のひんやりとした空気も、今の湿原の空気に通じるものがあるように潮音は感じていた。


 そのとき潮音は、森の中に潜む影のようなものが、自らの心に直接そっと話しかけてくるようにはっきりと感じ取っていた。潮音はそれだけで、身体の奥からぞくぞくずるような震えがこみ上げてきて、体中の血が激しく波打つのを覚えていた。潮音はもはや、心の中の動揺を抑えることができなくなっていた。


 潮音たちが湿原の真ん中にある展望台に着くと、暁子と優菜はベンチで一息ついた潮音の顔を怪訝そうに見つめた。潮音は苦しそうに息をつきながらうずくまっていて、心身に変調をきたしていることは暁子や優菜の目にも明らかだった。


「どないしたん? さっきから何か潮音の様子が変やけど」


 優菜に問われて、潮音は軽く手を振ってみせた。


「なんでもないよ。ただ昔のことをちょっと思い出しただけだから…」


 その潮音の言葉を聞いて、優菜はさっと顔色を変えた。優菜は潮音の事情や心の中をすでに察していた。


「『昔』と言うても、潮音の場合それが普通の子とは意味が違うんやろ」


 そこで暁子も、心配そうな顔をしながら潮音にそっと声をかけた。


「潮音…今日はホテルに着いたらあまり無理しないでゆっくり休んだ方がいいよ。これからも旅行は続くんだから」


 その暁子の言葉を潮音は打ち消した。


「いや…そんなんじゃないんだ。暁子も優菜も、あまり心配しないでくれ」


 そして潮音は、展望台から湿原の景色を眺めて、少し気持ちを落ち着かせた。暁子と優菜も潮音が多少なりとも落ち着きを取戻したのを見届けると、潮音を連れてバスに戻ることにした。真桜は集合時間ぎりぎりになってバスに駆け込んできたが、スケッチに夢中になるあまり時間が経つのを忘れていたようだった。皆がバスに乗り込んだときには空にどんよりとした灰色の雲が厚く垂れこめて空気も湿気を含んでおり、今にも雨が降り出しそうになっていた。



 バスは釧路湿原の展望台を後にすると、今夜の宿泊地になっている阿寒湖のほとりのホテルに向かってスピードを上げた。しかしバスが走り出した頃から雨がぱらつき始めて、やがて本降りの雨になった。ワイパーがぬぐう後続のバスの運転席からは、先行しているバスの赤いテールライトが雨の中でにじんでいるように見えた。生徒たちの間から湿原にいるときに雨に降られなくて良かったという声も上がったが、その一方で翌日の天気を懸念する声も聞かれた。しかし生徒や引率の教師たちもそろそろ旅の疲れが出る頃で、バスの車内にはけだるい空気が漂っていた。


 やがてバスが阿寒湖に近づいて勾配を登り始めると、人家や畑、牧場は尽きて車窓のすぐそばまで樹海が迫るようになった。潮音は無数の水滴が窓の外を流れていくのをじっと眺めていたが、夕闇に閉ざされつつある樹海は降りしきる雨の中で霞がかかり、木々の葉の色がより深みを増しているように見えた。潮音はバスの車窓から深い森を見つめながら、その闇がどこまでも果てしなく続いているような心地がして心中にぞくりとするものを感じていた。


 潮音は自分はバスの座席に腰を下しているにもかかわらず、そこから一人だけ浮き上がって暗い森と静寂の中にいるような気がして、身が縮こまるような思いがした。潮音は今自分が感じているこの気持ちは、自分が女になった直後の周囲全てに対して心を閉ざしていた頃と同じではないかと感じていた。


――あの頃の自分は、ちょうど今のように暗い闇の中をただ手探りで進むしかなかったのだろうか…。だったら今の自分はその闇から完全に抜け出すことができただろうか。


 そこで潮音は、先ほど釧路湿原の森の中で自分にささやきかけるように感じたものの正体は何なのだろうと思っていた。森の奥に潜んでいる森の精なのか、それとも鏡に封じ込められていた昔の令嬢の「思い」か、男だったもう一人の自分の影なのか、そしてそれは、自分に何を話しかけようとしていたのか――そう思うと、潮音は胸の中で動悸(どうき)が高まるのを抑えることができなかった。暁子も潮音の隣の席で、潮音が落ち着かなさそうにしているのを不安げな表情で眺めていた。

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