第四章・北の国へ(その2)
羽田空港で飛行機を乗り換えると、北海道の東部にある女満別空港に行く飛行機は、生徒や先生たちだけで機内の半分以上が埋まりそうな中型機だった。潮音はこれなら生徒が二つの班に分かれて行動するのも無理はないと思った。
潮音たちを乗せた飛行機が女満別空港に着いたのは、ちょうど昼を過ぎた頃だった。少し遅れて恭子たちを乗せた便が空港に到着すると、空港の前にはすでにバスが待っていた。生徒たちがクラス毎に分かれてバスに乗り込むと、潮音は暁子と並んで座席に腰を下した。バスが走り出して空港を後にすると、バスガイドが皆にあいさつをした。
一行が博物館になっている網走監獄やオホーツク流氷館の見学を済ませて、バスが網走の市街地を抜けると、車窓に青く澄んだオホーツク海が広がるのに、先ほどまでおしゃべりに夢中になっていた生徒たちの目は釘付けになった。二月から三月にかけて、このオホーツク海は流氷で埋め尽くされるというバスガイドの説明を、皆は興味深げに聞いていた。真桜は無言のまま車窓を流れるオホーツク海をじっと眺めていたが、あたかも「流氷の季節にもぜひここを訪れたい」とでも思っているかのようだった。
バスはオホーツク海と湖の間に広がる原生花園の傍らを通り過ぎたが、もう少ししたらこの原生花園はハマナスやエゾスカシユリが咲き誇る季節になるとバスガイドも話していた。そこからバスはいったんオホーツク海のほとりを離れると、知床半島へと続く雄大な山並みを背景に広大な畑や牧場、シラカバの疎林の中を一直線に貫く道へとさしかかった。神戸では見られないようなスケールの大きな風景の連続に、潮音やその隣の席にいる暁子もただ目を奪われていた。
やがてバスが知床半島にさしかかると、平地は尽きて険しい山の断崖がそのままオホーツク海に落ち込むようになり、バスは海べりの道を縫うように走るようになった。バスがちょうど知床への入口にあるオシンコシンの滝の駐車場に停まると、生徒たちは清冽な水が山肌を流れ落ちる滝を背景に思い思いに記念撮影をしていた。
それからバスは程なくして、一日目の宿泊地になっている、知床半島の中心地であるウトロのホテルに着いた。潮音たちがホテルの部屋に荷物を置いて、制服から部屋着に着替えると、ようやく一息つくことができたような気がした。
風呂に入るときも、潮音は以前ほどの抵抗はなくなっていたとはいえ、やはり浴室に足を踏み入れるときには身が縮こまるような思いがした。それでも潮音がなんとか入浴を済ませて旅の汗を流すと、間もなく夕食が始まった。北海道でとれた海産物や農産物をふんだんに使った料理に、生徒たちは皆舌鼓を打った。特に美味しいものに目がない美鈴は、この料理にご満悦のようだった。
「この海鮮丼おいしいやん。でも食べ過ぎで太らへんか心配やな」
そのような美鈴の様子を、潮音はやれやれとでも言いたげに眺めていた。
夕食が一段落すると、さっそく修学旅行のお楽しみともいうべき、それぞれの部屋に戻ってのゲームやおしゃべりの時間である。潮音と同じグループの暁子や優菜もそそくさとホテルの客室に戻っていったが、潮音はしばらくホテルのロビーのソファーに佇んでいた。それに気がついた紫が、そっと潮音に声をかけた。
「どうしたの? ほかの子たちはみんな部屋に戻ったのに、潮音は何か気になることでもあるわけ?」
そこで潮音は、はっとしながら紫の顔を見返した。
「どうせ潮音のことだから、昔男だった自分がこんなところにいていいのかとか思ってるんでしょ。潮音の考えることくらいわかってるよ」
そこで潮音は、あらためで紫の顔をまじまじと見つめ返した。潮音は紫が自分の考えをここまで見透かしているのかと思わずにはいられなかった。
「あんたがこの高校に入ってから一年ちょっとの間、いろんなことを頑張ってきたことはみんなわかってるよ。だから潮音はそんなことばかり考えてクヨクヨ悩んでいないで、みんなと目いっぱい遊んできな。でも今日は朝早くからずっと飛行機やバスに乗って疲れてるだろうし、明日もスケジュールは詰まってるから、あまり夜更かししないようにね」
「紫こそ変にプライドにとらわれていないで、みんなと遊べばいいのに。私は紫が勉強もバレエも生徒会活動もみんな頑張ってるのはすごいと思うけど、あまり無理しすぎてないかってちょっと気になってるんだ」
「私のことなら気にしなくていいよ。潮音こそもっと自分に素直になればいいのに」
「それにうちのグループに国岡さんがいるけど、あの子はいつも一人でぼっとしてることが多いからね。だから私があの子を自分たちのグループに誘ったんだけど、あの子がこの修学旅行でちゃんとみんなとやっていけるか心配なんだ」
紫はしばらく潮音の顔を黙って見つめた末に、そっと口を開いた。
「…あんたって優しいんだね。あんたが国岡さんのことを気にしているのも、自分が男から女になるって体験をしたせいで、なかなか仲間が作れなくて困っている人の気持ちがわかるようになったってことじゃないかな。ともかく国岡さんを無理に遊びに誘ったりしないで、優しく接したらいいと思うよ」
そして紫は潮音の肩をぽんと叩いてやった。しかしそのとき、光瑠がロビーに来て紫に声をかけた。
「紫、早く来ないと人数そろわないよ」
その光瑠の声を聞いて、紫ははっとしたような顔をした。
「そうだった。私も早く部屋に戻らなきゃ」
そう言って紫はホテルの客室に戻る間際に、潮音の方を向き直して笑顔で声をかけた。
「なんだったら潮音もちょっと来てみる?」
潮音は紫たちは何をするのだろうと思いながらも、紫について行くことにした。
潮音が紫や光瑠についてホテルの紫が泊まっている部屋に向かうと、部屋の中には長束恭子や寺島琴絵の姿もあった。そこで恭子が待ちくたびれたように声をかけた。
「紫も何やっとったん。紫がおらんと始まらへんからね」
しかし潮音の目をとらえたのは、部屋のテーブルの上に並べられた麻雀の牌だった。潮音はここでこれから何が始まるのかと思って、身を引かずにはいられなかった。
「すまなかったわね。私はちょっとこの子と話してたの」
そして紫は、潮音が戸惑っている間もなく光瑠や琴絵、恭子と一緒にテーブルを囲むように腰を下して、細い指で牌をつまんで麻雀を打ち始めた。潮音はいつも学校で顔を合せているクラスメイトたちの、今まで知らなかった一面を見たような気がして、まごまごせずにはいられなかった。
そして紫たちの麻雀が少し進んだ頃になって、愛里紗も部屋を訪れてきた。愛里紗は紫たちの表情と机の上の麻雀牌を交互に見比べて呆れたような表情をしたが、紫は愛里紗を前にしても落ち着いた態度を取っていた。
「榎並さんも麻雀やってみる?」
そこで愛里紗ももじもじしながら答えた。
「うん…まあ一局くらいなら」
そこで愛里紗は、恭子と代わって麻雀を打ち始めた。潮音は勉強家の愛里紗がどこで麻雀を覚えたのかと疑問に思ったが、そのようにしている潮音に紫はちらりと目を向けると、笑顔を浮べながら声をかけた。
「潮音って麻雀やったことないの?」
「いや、ルールとかややこしそうだから全然知らなくてさ…」
「だったら潮音も一局だけでいいからここで麻雀打ってみる? たしかに役とか点数計算とかはちょっとややこしいけど、簡単なルールだったら教えてあげるよ」
その紫の誘いを、潮音は手を振って断った。潮音はこの場の雰囲気にはとてもついていけないと思ったので、自分の泊まる部屋に戻ることにした。
「あの…暁子たちだって待ってるから、そろそろ自分の部屋に戻らなきゃ」
「遠慮しなくてもいいのに」
紫は牌をかきまぜながら、いぶかしむような顔をしていた。潮音が紫たちを横目に部屋を後にしようとしたとき、恭子が声をかけた。
「潮音、麻雀覚えたら私とも勝負しよな」
「恭子のバカ」
そこで紫は、潮音と恭子はいつもケンカばかりしてしょうがないなとでも言わんばかりの顔をしながら、ため息をつきそうになった。
潮音はホテルの廊下を自分の泊まる部屋へと向かう間も、紫には麻雀に興じるような一面があったなんてと意外に思わずにいられなかった。しかしその一方で、ただ真面目で勉強ができるだけでは周囲の人はついて来ないけれども、あのような懐の広さがあるからこそ紫はみんなから信頼されているんだと思って、あらためて自分は紫にはかなわないと認識せずにはいられなかった。その一方で潮音は、愛里紗がみんなと麻雀をやっていたのを思い出して、学校の中でもプライドが高くて孤立気味だった愛里紗が、みんなと一緒に遊べるようになったのは良かったと胸をなで下す気持ちもあった。




