第二章・ゴールデンウィークの風(その6)
潮音が浩三と一緒に水族館に行った日の前日の朝、潮音のクラスメイトの天野美鈴の父親の運転するワンボックスカーは神戸の市街地を抜けて、六甲山の中腹へと登るつづら折りの道を登っていた。その車には美鈴の家族だけでなく、美鈴の同級生のキャサリンも同乗して、車が山を登るにつれてみるみる小さくなっていく神戸の街並みのパノラマや、その彼方に広がる春の瀬戸内海に見入っていた。楽しそうなキャサリンの様子を見て、隣の席に腰かけていた美鈴もご機嫌そうに声をかけた。
「夜になるとこの道から見える神戸の街の夜景はめっちゃきれいなんよ」
それだけでなく、車窓を流れていく六甲山の色鮮やかな新緑にもキャサリンは目を奪われていた。
キャサリンが美鈴と一緒に、山あいの田舎にある美鈴の実家をゴールデンウィーク中に訪ねることにしたのは、キャサリンが美鈴から実家に帰省したときの話を聞かされて、日本の田舎のことに興味を持ったからだった。そこで美鈴は、自分はゴールデンウィークに田舎に帰省するから、そのときにキャサリンも一緒に来ないかと誘ってみせた。美鈴の実家にいる祖父母や伯父も、キャサリンが来て一泊することを快諾した。
車は六甲山をトンネルで抜け、高速道路に入るとスピードを上げた。それにつれて車窓もいつしか家並みが途切れて、田んぼや野山が広がる農村の趣になっていった。そして車が高速道路を下りて田舎道を走り出すと、日ごろ神戸の街中で暮しているキャサリンはその光景から目が離せなくなっていた。
やがて車は、どっしりとした構えをした美鈴の実家の前に停まった。キャサリンが車を降りると、まず山のしっとりとした空気を含んだ風に息をつかされた。美鈴の実家は山に囲まれた小さな盆地に位置しており、家の周囲には古びた家屋が建ち並んでいた。
さらにキャサリンの目をとらえたのは、野山に萌え出した鮮やかな新緑の若芽と、晩春の明るい陽光を浴びて田んぼ一面に咲き誇るピンク色のレンゲの花だった。田んぼのあぜ道にもタンポポやシロツメクサが咲き誇り、道に沿った水路には澄みわたった水が水面に光を反射しながら流れ、蝶がひらひらと舞って、耳をすませば野鳥のさえずりが聞こえてくる田舎のうららかな雰囲気に、キャサリンはすっかり魅せられてしまった。
「この一面に生えてるピンクの花、すごくきれいですね」
キャサリンがレンゲ畑に見とれていると、美鈴がそばで説明した。
「この花はレンゲと言うてな、こうやって田んぼに植えると土の養分になって稲が育つのに役に立つんよ」
「ただきれいだから花を植えてるんじゃないのですね」
「そうやな。この辺ももうちょっとしたら田植えの季節になるけど、その頃になるとカエルの鳴き声がそこら中に響いてくるね」
キャサリンはその美鈴の説明を、興味深げな表情で聞いていた。
さらにキャサリンが目を止めたのは、美鈴の実家の軒先で風をはらんで泳いでいる、色とりどりの鯉のぼりだった。この鯉のぼりの鮮やかな色彩は、辺りの緑豊かなひなびた風景の中でひときわ映えて見えた。
「これは鯉のぼりですね。イギリスにいたときに母から、日本では五月になると子どもが元気に育つことを願って鯉のぼりをあげるという話を聞いていましたが、本物を見るのは初めてです。でも…色がきれいですね」
「やっぱりキャサリンは鯉のぼりが珍しいみたいやね。大きな黒い鯉は真鯉、その下の赤い鯉は緋鯉って言うんよ」
ちょうどそのとき、美鈴の祖父母夫妻が家から出てきてみんなを呼び寄せ、昼食ができていることを告げた。そこで美鈴もキャサリンの方を向き直して言った。
「キャサリンも家に上がってご飯食べよか。ご飯済んだら、この辺案内したるよ」
キャサリンは美鈴の実家に通されても、どっしりとした造りの古い屋敷の隅々をもの珍しそうな目であちこち眺めていた。家の中に並ぶ和箪笥などの古民具の数々も、キャサリンの目を引きつけた。広い座敷に荷物を置くと、キャサリンは縁側から見える庭の風景に目を止めた。
「日本の古い家って、風通しが良くて気持良さそうですね」
「その代わり冬は寒いけどな」
しかしここで、この家に住んでいる美鈴のいとこにあたる、隆平という小学生の男の子も、キャサリンのことをもの珍しそうな目できょろきょろと見ていた。
「美鈴姉ちゃんも外人さんの友達ができるとはすごいなあ。でも外人やけど日本語めっちゃうまいやん」
人懐こそうにキャサリンにまとわりつく隆平を、美鈴の伯父がぴしゃりとたしなめた。
「こら。隆平ももっとおとなしくせなあかんよ。外人さんも困っとるやん」
「隆平、この子は『外人』やなくてちゃんと『キャサリン』っちゅう名前があるんやで」
美鈴にまでやんわりとたしなめられると、隆平もしゅんとおとなしくなった。
そしてみんなで食卓を囲んでも、キャサリンは注目の的になっていた。
「イギリスからきた子がうちに来てくれるなんて始めてやわ。それにしても日本語も上手やし、お箸もちゃんと使ってきれいにご飯食べるんやね」
美鈴の祖母に言われても、キャサリンはとりすました表情をしていた。
「私の母は松風の卒業生で、私もちっちゃい頃からずっと母から日本語を習っていたし、それに今ではロンドンにも日本料理や中国料理のお店はけっこうあるから、ロンドンにもお箸を使える人はけっこういますよ」
「でも高校から親元を離れて、一人で日本に留学するなんて偉いねえ」
「いいえ。私は祖父母の家にお世話になっていますから。でも学校でみんなの話を聞いているうちに、都会や観光地だけではない、もっといろんな日本を見てみたいと思うようになっていたときに、美鈴に誘ってもらったのです。私は昔から、母と一緒に『となりのトトロ』のアニメをよく見てきました。ここは家も周りもまさにトトロがいそうな感じなのでとても嬉しいです」
そのキャサリンの言葉には、そばにいた美鈴の家族みんなが表情をほころばせた。そこからキャサリンが、日本での学校生活やイギリスと日本の違いについて話し始めると会話が尽きることはなかった。キャサリンが美鈴のことを話すと、美鈴もどこか照れくさそうにしていた。
そこで隆平があどけない顔で美鈴に尋ねた。
「神戸の学校行くと、ほんまに今の美鈴姉ちゃんみたいに外国の人とも友達になれるん?」
そこで美鈴は隆平に答えた。
「今は国際化の時代やからな。そこら中に外国人はいくらでもおるよ。隆平もいろんな国の人と仲良うなれたらええのにな」
隆平はその美鈴の言葉を黙ったまま聞いていた。
昼食が一段落すると、さっそく美鈴はキャサリンを誘って屋敷の外に出かけた。キャサリンは美鈴と一緒に田んぼの中の一本道に出ると、青く澄みわたった空を見上げた。
「ここって空がとても澄んでいてきれいですね。神戸と違って、ここは時間がゆったり流れているような気がします」
「そりゃここは空気がきれいやからね。夜になったら星がめっちゃようさん、きれいに見えるよ」
「それは楽しみですね」
キャサリンは今から、日が暮れて星空を眺めるのが楽しみなようだった。
そして二人は、川のせせらぎを橋の上からじっと見つめた。清冽で澄みわたった水面に陽光がキラキラと輝く光景に、キャサリンは思わず見入りながら自然と表情をほころばせていた。
「ここは水がきれいで澄んどるからな。渓流釣りに来る人もけっこうおるんよ」
二人は宿場町の面影をとどめた、この地域の中心になっている集落に入ると、昔ながらの商店などが軒を連ねているのにキャサリンが目を向けていた。
「ここはこういう古い家が並んどるからね。最近は都会から古民家に移り住んできてここでアーティストとして活動する人もおるみたいよ。でもここは生活が不便で買い物とかも大変やから、都会から移住してもうまくいかへんで都会に帰ってしまう人かて少なくないみたいやけどね。田舎暮らしもええことばかりやないよ」
キャサリンは街並みの中にも閉店している店も目立つのを見て、その美鈴の言葉にも少し納得したようだった。
二人がしばらく行くと、小学校らしい建物があったが、校舎にも校庭にもどことなく生気が感じられなかった。キャサリンがきょとんとしながら校舎を眺めていると、美鈴が口をはさんだ。
「ここは私も小学二年生のときまで通っとった小学校なんやけど、私が神戸に引越したのと同時に生徒数が減って小学校が統合されて、廃校になってしもたんや。うちのいとこは今、スクールバスで町の中心の学校に通っとるし、この学校も今では地域のコミュニティセンターとして使われとるらしいけどな」
そう話すときの美鈴の口調はどこか寂しそうだった。その話を聞いた上でキャサリンがあらためて学校の跡に目を向けると、校庭の片隅にある遊具もどこか物寂しく感じられた。キャサリンも美鈴に対して、どう返答すればいいのかわからず口をつぐんでしまった。
そして集落の外れには古い神社があった。古びた鳥居をくぐると、どっしりとした社殿がうっそうとした山林に抱かれたようにして構えていた。
「私は正月に帰省したときはこの神社に初詣に行くんよ。ここは冬は寒いけどね」
キャサリンはその境内に足を踏み入れただけで、山の森厳とした冷気が辺りに漂ってくるように感じられて、心の中で緊張の糸がぴんと張りつめたような気がした。
「なんか日本の神社って不思議ですね。ヨーロッパの教会とは違って、ここに来ると自然を感じられるような気がします」
「ここはちょうど今ごろの新緑の季節もええけど、秋に来ても紅葉がきれいやからね。この季節はキノコや栗かておいしいよ」
「この季節にもまた来てみたいですね」
「キャサリンは私の故郷のこと気に入ってくれたみたいで何よりやわ」
そして美鈴とキャサリンは、美鈴の実家に戻ることにした。




